今日も一日しんどかったなーと思いながら山崎は廊下をぺたぺた歩く。風呂上がりの火照った身体に吹く風と冷たい廊下が心地いい。今日はじめじめと暑い中市中の見回りをして、見回りの最中に泣いてる迷子を見つけてしまったのでその子の親を探すのに奔走して、帰ったら帰ったで副長に雑用を言いつけられて、雑用が終わったと思えば今度は同僚に買い物を頼まれて。俺は使いっ走りかと文句を言えば、違ったの? と逆に聞き返されて何も言い返せなかった自分が大変情けない。
そんなこんなで一日なんだか忙しく、夕飯を食べて風呂に入って、やっと一息ついたところだった。
ぺたりぺたりと廊下を歩き、角を曲がったところで山崎は眉を寄せる。
自分の部屋に、確かに消してきたはずの明かりがついていた。
今の山崎は一人部屋で、相方はいない。監察方の部屋に入れるのは、原則局長、副長だけと決まっている。この時間に副長が尋ねてきて、勝手に明かりを点け居座るとは思えなかった。局長はそもそも勝手に入ったりなどしない。
山崎には一人、心当たりの人がいる。ぺたぺたという足音をばたばたという足音に変えて部屋にたどり着いた山崎は、そこでぴたりと足を止め、そうっと部屋の障子を開けた。
「……沖田さん」
「おう、山崎ィ。遅かったじゃないか」
顔を上げ悪びれもせず言った沖田は、溜息を吐いて突っ立ったままの山崎に逆に不審げな顔をする。
「何してんですかィ。早く入らないと、夜風で冷えて風邪引くぜ」
「そうですね……」
山崎の部屋の真ん中に堂々と寝転がり、子供のように足をぱたぱたとしながら手元の雑誌をぺらりと捲る沖田の姿に、咎める言葉も出てこない。山崎は言われた通りさっさと部屋に入って、障子をぴたりと閉めた。
「何、してるんですか」
「暇だから遊びに来たのに山崎がいねーから、待ってたんでィ」
「……ここ、許可なく立ち入り禁止だって、知ってました?」
「どーせ土方が勝手に決めたことだろィ。監察を私物化しちゃいけませんぜ」
「私物化……」
「それに、なんでィ。山崎は俺が、機密書類を持ち逃げするような輩に見えますかィ?」
心外だなァ、と顔を覗き込まれ、山崎は思わず笑った。いいえ、と言うと、だったら問題ないだろィと威張られる。確かに、問題はない。
問題はないし、もしも沖田が、本当の本当に機密書類が目当てで忍び込んでいたのだとしたら、自分はそれを止められないかも知れないなぁ、と思って山崎は一人で静かに笑った。
止められないかも知れないなぁ。脱走すると言うのなら、付いて行きたくなるかも知れない。付いては、行かないけれど。
そう考えてありえない想像に口元を緩ませる山崎を見上げた沖田は、不機嫌そうに眉根を寄せる。
「山崎やーらしー」
「何がですか」
「思い出し笑いするなんて。どんなこと考えてたんでィ?」
拗ねたように唇を尖らせて言う沖田の姿に、山崎は更に笑みを深くする。寝そべったままの沖田の隣にぺたりと座って、意地悪く言った。
「さあ? 教えません」
「俺が傍にいるってのに他のことで笑うなんて、いただけねーな」
ごろりと寝返りを打った沖田は、付いた肘に頭を乗せて山崎をじとりと見る。その様子がおかしくて山崎が笑うと、つられたように沖田も笑った。笑いながらむくりと起き上がり、そのまますい、と手を伸ばして、山崎のまだ少し濡れている髪を一房手に取る。
「濡れてる」
「ああ、はい」
「乾かさねェと、風邪ひくぜい」
「そうですね」
「…………」
「…………沖田さん?」
乾かせ、と言いながら手に取った髪を離そうとしない沖田に、山崎は困惑して声をかける。沖田はそれに答えずに、手に取った山崎の髪にゆっくりと口吻けた。
「……沖田、さん?」
髪に、神経など通っていないはずなのに、たかが唇が触れただけで心臓が跳ねるのは何故だろう。不思議に思いながら山崎はおずおずと声をかける。沖田は答えない。
こうなってしまってはもう、好きにさせておくしかない。経験からそう諦めて、山崎はとりあえず声をかけるのをやめた。沖田はそんな山崎の思いを知ってか知らずか、手にした髪の上にゆっくりと唇を滑らせていく。
滑らせた唇が毛先にたどり着くと、沖田はその毛先をゆっくりと口に含んだ。よく乾かされないままでいたため落ちそうになっていた水滴を、味わうように舐める。
髪に、神経など、ないはずなのに。
思って、それでも山崎の心臓の鼓動は落ち着かない。至近距離で繰り広げられる光景に、目を逸らすことも閉じることもできず、山崎は浅い呼吸をそれとばれないようにゆっくりと繰り返す。
毛先を含んでいた唇が開いてほっとしたのもつかの間、再び、髪に口吻けれた。そのまま窺うように寄越された沖田の視線に、思わず山崎は息を呑んで目を細める。その反応に、沖田は満足そうに目を細めた。
「……髪、」
「うん?」
「……乾かさないと、風邪、ひくって…」
「うん」
搾り出すような山崎の声に、やっと沖田は手を放す。返ってきた髪を耳にかけて俯く山崎に沖田の笑い声が聞こえた。
「タオル貸して。拭いてあげまさァ」
「……お願いします」
肩に掛けていたタオルを沖田に手渡す。それを受け取った沖田は、山崎の頭にふわりとタオルをかけて、優しく水気を取り始めた。わしゃわしゃと子供にするように軽く拭われ、それから、髪の流れに沿うようにしてゆっくりとタオルで髪を包まれる。とんとんと根気よく水気を取っていく沖田の手が、優しい。
「丁寧ですね」
「山崎の髪は綺麗だから、傷つけないようにしないと」
「そうですか……」
寄越された言葉に恥ずかしくなって、山崎の語尾が小さくなる。それに気付かず沖田は更に言葉を重ねた。
「ああ、違うか」
「何ですか?」
小さく笑って、
「山崎が、綺麗だから。髪の一つも、傷つけないようにしないと」
優しく。髪を拭く手つきよりも優しく語られた言葉に、山崎は返す言葉もない。首を縮めて小さくなる山崎に、沖田は楽しそうに笑ってみせる。
「あはは、照れましたかィ?」
「はい……」
「照れさせようとして言ったんだ。成功、成功」
「……からかってますね?」
「うんにゃ」
ふわり、と、かけられたときと同じ優しさで山崎の頭からタオルが払われる。俯く山崎の顔を覗き込んで、沖田は楽しそうに目を細めた。
「山崎がきれいって言うのも、傷つけないようにしたいのも、本心でさァ」
血の色が差す山崎の頬を指の腹ですい、と撫でる沖田の手が、冷たくて火照った肌に心地いい。
「今日、」
「はい?」
「泊まってってもいい?」
勝手に部屋に上がりこんで、勝手に山崎を翻弄して、今更そんな伺いを立てる沖田の言葉が妙におかしかった。山崎は照れていた顔を上げて言う。
「眠るだけなら、いいですよ」
意地悪く笑って言った山崎の言葉に、沖田も笑い返して唇を寄せる。
自分勝手で寂しがりやな恋人を構ってやるために目を閉じた山崎の髪から一滴、拭いきれなかった水滴が落ちて、音もなく畳に染みこんでいった。