沖田さんが、風邪をひきました。




 今日も今日とて、屯所内はざわざわと騒がしい。部屋でトランプしてる隊士がいたり、廊下で筋トレしてる隊士がいたり、庭で真剣にかくれんぼをしている隊士がいたり、大丈夫か真選組。かと思えば、道場でマジメに稽古に励んでいる隊士がいたり、あと、書類の山に埋もれている幹部が何人かいたりする。
 そんな屯所内を俺は何度かばたばたと往復していた。時々呼び止められて、トランプに誘われたり筋トレに誘われたりかくれんぼに誘われたりしたが、仕事があると言って断る。俺が仕事があると言えば、それ以上は誰も誘ってこない。普通は、俺に仕事を任せるのは副長で、俺の仕事を邪魔するといえば副長の仕事を邪魔することになるわけで、副長の邪魔をすればどうなるかわかったもんじゃないから、俺はそれ以上誰に何を言われることもなく、到着した部屋の障子をからりと開けた。文机があって、座布団があって、箪笥がある、その部屋のまだ奥にある部屋へ続く障子を静かに開ける。
 中をそっと窺って、小さく声をかけた。
「沖田さん?」
「……やまざきー……」
 いつもの威勢のいい声ではなく、元気のない掠れた声が返る。俺は、水の張った洗面器と乾いたタオルを持ったまま、そっと部屋に滑り込んだ。
 外の日差しが入り込んで、室内は明るい。冷房の効いたその部屋は、蒸し暑い外と違ってひんやり涼しかった。冷気を逃がさないように障子をしっかりと閉める。
 部屋の真ん中に敷かれた布団に力なく横たわる沖田さんの顔を覗き込んで、顔色を窺った。
「しんどいですか?」
「んー……だいぶ、楽になった」
 薄く目を開けてこちらを見る沖田さんの目に、いつものような力はない。
「薬が効いたのかな。咳は収まったみたいですね。……でもまだ熱はちょっとあるかな」
 沖田さんの額に手を乗せて簡単に熱を測ると、やはり平熱よりもまだ高い。
 洗面器に張りなおした冷たい水に新しいタオルを浸して、よく絞ってから沖田さんの額に乗せた。汗で張り付いた前髪を指でそっと払うと、沖田さんが閉じていた目を少し開けて、ありがとう、と言う。その様子が、いつもと違って辛そうで、俺は、いいえと答えるしかなかった。

 沖田さんが、風邪をひいた。原因は分かっていて、お風呂上りに髪をしっかり乾かさないまま俺を部屋に呼んだりしたからだ。何というか、つまりは、何というか、そういうことで、そりゃ冷房を効かせた部屋で濡れた髪を乾かさずに着物を脱いだり汗をかいたりなんだりしてたら風邪をひくのは道理だと思う。
 つまりは、まあ、なんというか、そういうことが原因で、辛い思いで横になっているのは沖田さんの自業自得なわけだけど、そんな状態でそういうことになったのに、熱くなった肌に髪から滴り落ちる水滴が気持ちいいなァ、などと喜んでいた俺も同罪だ。と、思う。

 だから今日の俺の仕事は、責任を持って沖田さんを看病することだ。
 市中見回りも書類整理も、同僚に頭を下げて代わってもらった。
 急ぎの仕事がある、とか何とか言って。

「沖田さん」
「……ん?」
「何か、欲しい物とか、してほしいこととかあったら、言って下さいね」
 少しずり落ちてしまっている布団を沖田さんの肩までしっかりとかけなおし、冷房も少し効きすぎているような気がして一度高くする。代わりに、近くに落ちていたうちわを拾って、弱い風を沖田さんに送ることにした。
「なんか……」
「はい?」
「子供の……お昼寝みてーだ……」
 俺がうちわで送る風に、沖田さんが小さく笑う。
「お昼寝、しっかりとして、はやく治してくださいね」
「うん……」
 答える沖田さんが本当に子供のようで、ついうっかり笑ってしまう。俺の笑いの気配に気付いたのか沖田さんが目を開けて、子供のように手を伸ばしてきた。
「はい?」
「手……」
「手」
「……握ってて」
 わざと、子供のように振舞っているのか、それとも本当に辛くてそうならざるを得ないのか、舌足らずに請うて沖田さんは勝手に俺の左手を掴んだ。軽くきゅっと握って、再び緩く目を閉じる。
 子供のように握られた手を軽く握り返して、俺はすでに寝入ってしまった人に、小さくはい、と返事をした。




 部屋に差し込んでいた日の光がどんどん傾いて、窓の外はすっかり暗い。
 そろそろ夕飯の時間も終わる頃だなぁ、と気付いて、俺は時計に目をやった。動いてないからそんなにお腹は空いていないけど、沖田さんは何か食べないと薬が飲めないからどうしようかな、と考えていると、握っていた手に小さく力が入る。
 視線を転じれば、沖田さんがゆっくりと目を開けて、ぼんやりと天井を見ていた。
 握っていた手がするりと離されて、少し寂しくなる。
「おはようございます」
「おはよ……」
 うー、とごしごし目をこすり、それから大きく伸びをする。眠る前の気だるさはすっかりなくなったようで、いつもの沖田さんだ。
「お加減はいかがですか?」
「身体が痛ェ」
「ずっと横になってましたもんね」
 伸びをした拍子に額からずり落ちてしまったタオルを拾って、沖田さんの額に手を伸ばす。先程よりはだいぶ平熱に近くなっていた。正確には体温計で測らないと分からないが、沖田さんの様子を見る限り、食事をして薬を飲んで今夜一晩ぐっすり寝たら、明日の朝には治っているだろう。
 身体をあちこち伸ばしながら起き上がった沖田さんは、腹減ったーと言いながらさっきの俺と同じように時計に目を向けた。読んだ時刻に眉根を上げる。
「山崎、お前、晩飯は?」
「沖田さんの分は、おかゆが一応頼んであります。食欲がおありのようなら、ちゃんとしたものを食べますか?」
「ちゃんとしたものが食いてーな。じゃなくて、お前の、晩飯は?」
 ちょっと怒ったような目で見られて、別に悪いことをしているわけではないのに無意識に身体を引いてしまう。
「う……沖田さんが目を覚ましたら、一緒に行こうかと……」
「嘘吐けィ。起こしもしなかったくせに」
 俺が夜中まで眠りこけたらどうするんでィ、と言われて、う、と口を噤む。
「だって……」
「だって?」
「だって……、沖田さんが、手握ってろって言ったんですよ」
「…………」
「勝手に、離せないじゃないですか」
 何もないところで長時間じっとしているのは、職業柄慣れている。片手でどうにか熱さましのタオルを替えたり、沖田さんの眠る様子を観察したりして動いていられる分、いつもの任務よりも随分と楽だったし楽しかった。動いていないから、さほど空腹を感じていないのも本当で、だからそんなに、怒られるようなことではないはずなんだけどなぁ。
 俺の気持ちを知ってか知らずか、沖田さんはわざとらしく大きな溜息を吐く。
「……すいません」
「ま、いいでしょう。俺が悪ィんだから」
「すいません……」
「いいって。はい」
「……はい?」
 許され突然腕を突きつけられたかと思えば、今度は、当たり前というような態度でせがまれて困惑する。
「起こして」
 本当に、子供の振りをして甘えている。おかしくなって笑いながら立ち上がり、伸ばされた腕を掴んでよっと引き上げた。ずっと眠っていたためか、一瞬沖田さんの身体がぐらりと傾ぐ。
「う、…っわ」
 一緒に倒れてしまわないようにその身体を抱きとめて、足に力を入れた。畳の向きが悪ければ滑っていたなと思って焦る。沖田さんの体重を抱きとめたまま背中から倒れるのは、確実に痛いだろうからあんまり嬉しくない。
 大丈夫ですか? と声をかけるより先に、沖田さんの腕が俺の背中に回る。気分でも悪くなったのかとうろたえておろおろする俺の耳元で、沖田さんが囁くようにして言った。
「山崎。ありがとうな」
 吐息が、耳元にかかって、条件反射で首をすくめるとくすりと笑う声がする。慌てて身体を引き離せば、何が気分が悪いものか、しっかりと自分の足で立ったまま沖田さんが、俺の身体から腕を離さない。
「……ご飯」
「うん」
「食べに、行くんでしょう?」
「うん」
 言いながら、沖田さんの唇が俺の唇にぶつかった。普段より、やっぱりまだ少し高い熱が伝わって、触れ合わせているだけなのに、いつもと違う変な感じがする。
「……おきた、さん」
「ん?」
「やっぱりまだ、熱、ありますね」
 微熱の残る沖田さんと同じ程度に顔が赤くなっているであろう俺の頬に手のひらをあて、沖田さんは小さく笑う。
「うん。でもこれは、山崎のせいでさァ」
 そのまま離された手のひらが、さっきするりと離された手と同じように少し寂しくて、俺は思わず沖田さんに手を伸ばした。
「あ、」
「ん?」
「…………なんでもありません」
 ふい、と顔を背けた俺の気持ちを、多分沖田さんはわかっている。
 わかっているまま、早くしないと置いてくぜ、なんて言いながら、勝手にすたすた歩いて言ってしまう。

 まさかあの程度のキスで風邪が移るはずもないが、もし移ったら絶対に看病させてやる! と固く誓って、俺は少し熱の上った顔を抑えながらすっかり意地悪に戻った沖田さんを追いかけた。

      (08.07.05)