風があまりに強く吹くから思わず目を瞑ってしまった。思わず目を瞑って、風が少し収まったからそっと目を開けた。塵とか花びらとか草とかそういうものがざあっと通り過ぎる向こうで山崎の黒い髪が同じように風に攫われていて、山崎の白い手がそれをそっと押さえていた。白い、白い、手。手首は細く、指も細く、けれど女のようには柔らかくない、刀を握るその手が、今は自分の細い黒髪を柔らかく押さえて、そしてやはり山崎も、俺と同じように目を瞑っていた。風の音が止んで、そっと、その目が開かれる。開かれた目は、そのまま上を見上げて、風に遊ばれいくつか飛んでいった葉っぱの付いていた木の隙間から、空を見た。空を見て、少し、唇の端を上げて笑んだ。いい天気ですね、と言うので、風が強くてうっとうしいなァ、と返した。そうですね、と笑った山崎は、こちらを見て、それから手を伸ばしてきた。何事かと思う間に、俺の髪に付いていた葉っぱを一枚つまみあげてみせる。モテモテですね、と笑う山崎に、笑い返すのが精一杯だった。


 珍しく、山崎が俺の先を歩いて、自然俺がその後ろを付いて行くようになっていた。早くしないと副長に怒られますよ、と、少し振り向いて山崎が言った。知るかあんな奴、と返した俺に、やっぱり山崎は笑った。隊服の、肩に付いた金具が、太陽の光を反射して眩しかった。一瞬山崎の姿が霞んだ。


 居眠りをするのは山崎が俺を起こしに来るからで、山崎が俺を起こしに来るから俺は度々仕事をサボって眠っていた。見つからないような場所を選んで目を閉じていても、山崎はきちんと起こしに来た。あまりにも見つかりづらいときには、少し息を乱していることもあった。それでも律儀に探しに来た。それが、命令された仕事だからなのか、それともそうでないのかは、分からなかった。ただ、山崎はいつも俺を起こしに来て、だから俺は、いつも起こされるために居眠りをしていた。


 山崎が、俺の前を歩いていく。風が強いので、時折、髪が目に入りそうになって苛立つ。山崎の黒い髪が風に遊ばれ乱れている。黒い隊服に黒い髪で、前を歩いているその姿を背中から見ていると、本当にもう真っ黒で、なんだかとても不思議な気がした。風に髪が巻かれて時折見える首筋と、袖から出た手だけが、白かった。ぼんやり見ながら後ろを歩く俺を、山崎が度々気にして振り返った。気にして振り返って、急かすような言葉をかけるが、やはり山崎は笑っていた。そういえば、山崎はいつも笑っているな、と、ふと気付いた。俺を起こしに来るときは、山崎はいつも笑っているな。そんなことに気付いても、どうしようもなかった。何が楽しいかとは、聞けなかった。ただ、少し笑い返すことしかできなかった。笑返せば、山崎はいっそう笑って、早くしてください、と、また俺を急かした。うん、と答えれば、また前を向いて、黒一色で歩き出した。


 風が、ざあ、と吹いて、何度目か俺は目を瞑る。目を瞑って、強い風が通り過ぎるのを待った。何となく、このまま通り過ぎなければいいな、と思った。音が止んで、目を開ければ、何故か、先を歩いていたはずの山崎がこちらを見ていた。体ごと振り向いて、風に遊ばれる黒の髪を白い手でそっと押さえて、何故かこちらを真っ直ぐ見ていた。うろたえたように、その目が揺らぐ。急かされているのだと思って、形ばかり悪ィと謝れば、いいえ、と言う言葉の歯切れが悪かった。それから山崎は、やっぱり笑って、風が強いですね、と言った。こちらを真っ直ぐ見ていた山崎が笑っていなかったことに、やはり、今更気付いた。気付いて、けれど、やはり、何も言うことはできなかった。どうかしたのかと、聞くこともできなかった。山崎は一度、何かを言いかけるかのように唇を開いて、それからまた、閉じて、前をくるりと向いた。


 後もう少しで、この不思議な時間が終わってしまうと思って、吐いた息は安堵の形をしていた。それが自分でもおかしくて、少し笑った。前を歩く山崎の歩調がだんだんと遅くなるのに気付いて、追いついてしまわないように、俺も歩調を遅くした。隣に並んでしまいたくはなかった。あまりに距離を近づけると、その腕を掴んでしまいそうな気がした。腕を掴むのが怖くて、あまり距離を詰めないようにゆっくり歩いた。山崎は一度ちらりとこちらを見て、それから前に向き直った。笑わなくなった、と気付いた。腕を掴んでしまいたかったが、怖くてどうしてもできなかった。


 ああ本当にあと少しで二人の時間が終わってしまう、というところで、山崎がぴたりと足を止めた。止めて、歩いて、やはり止まった。躊躇うようにじり、と靴を慣らして、それから体ごと後ろを向いた。仕方なく俺も立ち止まって、どうしたんでィ、と聞いた。聞けた。山崎は口を開いて、けれど、何も言わずに閉じた。2度それを繰り返して、それから、沖田さん、と名前を呼んだ。何、と聞き返せば、それ以上は何も言わなかった。風が、二人の間を通り抜けていったが、目を瞑るほどの風ではなかった。隊服の金具に光が反射して、また山崎の姿を一瞬見えなくさせた。


 腕を伸ばしたかったが、怖くて叶わなかった。腕を伸ばして、山崎が消えてしまったら困ると思った。静かに歩いて、笑う、山崎が俺の見る幻であれば恐ろしいと思って、それが本当だったら困るから、怖くて手が伸ばせなかった。昼間でなければきっと山崎は、闇に溶けて消えたのではないのだろうかと、そんなことを思った。何にせよ、恐ろしかった。風の強さに目を瞑っている間に山崎の姿が消えていたら困るなァ、と思っていた。困るけど、それよりも、腕の中に収めた途端に消えられる方が怖かったので、何も出来なかった。名前も呼べなかった。


 沖田さん。山崎が呼んだ。もう一度、何、と返事をした。隣に行ってもいいですか、と言われたので、断る上手い理由が見つからなかった。少し躊躇った間で、山崎が一歩、こちらへ近づいた。逃げることはさすがに出来ず、寂しがりですかい、とからかうことで誤魔化した。それに照れることもなく、はい、と真っ直ぐ返されて、もう何も言えなかった。山崎が俺のすぐ前に立って、それから、嬉しそうに笑って、隣に立った。腕を伸ばしたくて堪らず、どうしよう、と躊躇う間に、山崎の手が、俺の手を取った。白い手が、俺の手を握って、ほうと吐いた息は安堵の形をしていた。




「幻じゃなくてよかった」




 笑って、山崎は言った。沖田さんが、俺の後ろを歩くから、消えるんじゃないかと心配で、と笑って山崎が言った。消えるんじゃないかと心配をして、隣に並びたがって、手を握りたがって、幻じゃないことを確かめたがった山崎が、何も言わないでいる俺を訝しんで、沖田さん、と名前を呼んだ。


 俺は怖くて触れられなかったのに、お前は強いね、と心の中だけでそういった。

 風が、ひときわ強く吹いたので、繋がれた手をぎゅっと握った。

 今この手の中で温もりが突然消えたらどうしよう、と、やはり怖く、どうしようもなかったけれど、目を開けたとき山崎が嬉しそうに笑っていたので、ほっと息を吐いた。


 嬉しそうに笑って、急がないと、と言った山崎の歩調があまりにも遅かったので、俺も思わず笑って、ゆっくり歩いた。ゆっくり、ゆっくり歩いて、その間ずっと、二人で手を繋いでいた。

      (08.07.06)