きっと、今日も、返り血で重たくなった隊服を着て、明るい色の髪を血に染めて、帰って来るのだと思っていた。それを受け取ってクリーニングに出す用意をして、いつものように、少し疲れた顔をするであろう彼の髪を乾かさなくてはと、そう思っていた。
山崎を両腕の中に収めるようにして、ただ静かに呼吸をしている沖田の髪から、ふわりと火薬の香りがする。何を考えているのかはいつもの通り分からないが、ただ沖田の手が時折、山崎の髪を撫で、背中を撫で、抱きしめるように腕に力を込めるので、山崎はただされるがままになっていた。
人を殺してきた後の沖田は、山崎の肌に触れたがる。
恐れているのではなく、後悔しているのでもなく、ただ、何を考えているのか、少し微笑んで「山崎おいで」と言うので、山崎はいつものように、隊服だけ脱いで着替えた沖田の腕の中で大人しくしている。
火薬の香りがして、少し身動ぎした山崎の反応を抵抗だと思ったのか、沖田の腕によりいっそう力が篭った。鼻先に触れた明るい色の髪からは、常ならば血の香りがするのに、今は何故か火薬の香りで落ち着かず、山崎は沖田の胸元の着物を少し握る。
「沖田さん、」
強められていた腕の力が少しだけ緩み、山崎はほっと息を吐いた。
着物を握った場所から、どくどくと心臓の音が伝わる。どくどくと、早く打つその音は山崎を堪らなく不安にさせた。いつもは穏やかな沖田の心音は、人を殺してきた後は、焦りを覚えるほど早くなる。恐れているのではなく、後悔しているのではなく、最初は神経が高ぶっているせいかと思ったが、早鐘を打つ心音と強く込められた腕の力が、山崎をどうしようもなくさせた。自分はこうして大人しく、抱きしめられているより他なにもできないことが、悲しくて情けなかった。
「沖田、さん」
もう一度、山崎がゆっくりと名前を呼べば、「うん」と小さく声が返った。もしかしたら泣いているのかも、などといらぬ心配をしていた山崎は、震える様子もないその声に安堵をする。着物を握っていた手を離して、沖田の背中に手を回した。あやすように、背中を撫でれば、何故だかくすりと笑われて、山崎は拗ねて見えないことを承知で唇を尖らせた。
「沖田さん」
「うん」
「……総悟、さん」
「うん」
「大丈夫ですよ」
「……うん」
沖田が少し笑った。何が大丈夫なのかは、口にした山崎もよくわからなかった。自分を抱きしめている沖田にではなくて、もしかしたら自分に向かっての言葉かも知れなかった。火薬の香りで落ち着かない。
「総悟さん、」
「ん」
「今日」
「うん」
「……いや、いいです」
「何でィ、気になるじゃねーか」
「……今日」
「うん」
「血の、香りが、しないんですね」
山崎の髪を撫でていた沖田の手が、不自然なくらいぴたりと突然止まった。ああ、やっぱり、と思って山崎は目を伏せる。ああ、やっぱり、言わなければよかった。自分の不安など、瑣末なことだったのに。
「……うん」
静かに、頷いた沖田は、山崎の身体をぎゅうと抱きしめた。痛いとか苦しいとかより、きっと辛い顔をさせてしまったであろうことが気になって、山崎は息を止める。隙間なくくっついた身体に伝わる心臓の音が、強く、早く、その心音が移ってしまうような錯覚を覚えた。どくどくと、血液を懸命に送り出す音が響く。
謝るのは、違う、と思って、しかし何と声をかけていいのか分からない。山崎が頭を悩ませている間に、強く込められていた腕の力が、また突然ふっと緩んだ。そして、何事もなかったかのように、沖田の手が、また山崎の髪を撫でる。
「雑魚がうろうろしやがって、埒があかなかったから」
「そう、ですか」
「ヤだ?」
「え、」
「火薬の臭いは、嫌いかい、退は」
苦笑の気配。思わず山崎は沖田に回していた腕を解いて、がばりと顔を上げた。近い距離で視線が絡む。苦笑の形をした唇が、ごめん、と動いた。
「…………ちがう」
「ん?」
「……違います。嫌いとか、嫌いじゃないとか、」
絡んだ眼差しが思わぬほどに優しくて、山崎の思考を空回りさせていく。懸命に紡ぐ言葉がしっかりとした形を取らず、上手く伝わらないことが、そもそもの自分の失言が、山崎をよりいっそう苛立たせて泣きたい気持ちにさせていく。眉を寄せた山崎の頬に、沖田の掌が触れた。
「嫌いとか、嫌いじゃないとか、」
「うん」
「そういうことを決めるのは、俺じゃない」
「…………」
「俺じゃ、なくて、そうじゃなくて」
優しく見つめられていることに耐えられなくなった、山崎は沖田の胸に顔をうずめるようにする。近い位置で、どくどくと、早く脈打つ心臓の音。
「あなたが、」
自分が、血の臭いの方がいいとか火薬の臭いが嫌いだとかそういうことではなくて、嫌いでないからいいとか嫌いだからやめてくれだとかそういうことではなくて、ただ。
ただ、
人の命を奪うなら、せめてきちんと顔を見て、自分の力で奪いたいと、沖田がそう思っていることを、山崎は知っているだけだ。
せめてきちんと、腕に響く重さで、肌に残る熱さで、命を奪うならばそうしたいと、沖田が思っていることを、山崎は知っている、それだけだ。
嫌いだとか、嫌いじゃないとか。
そうじゃなくて、そうじゃなくて、ただ。
「あなたが、傷つくのが、」
それだけ一つ、耐えられない。
沖田の腕が、再び山崎の背に回る。ふわりと柔らかく抱きしめて、俯いたままの山崎の髪に静かに唇を落としていく。
「沖田さん」
「うん」
「おきた、さん」
「うん」
「……総悟、さん」
「うん」
名前を静かに呼ぶたびに、小さな返事が返って来る。名前を静かに呼ぶ合間、髪に優しく口吻けられている。
名前を静かに呼ぶたびに、耳に当てた胸の奥早く脈打つ鼓動が、少しずつ、少しずつ、穏やかさを取り戻していくのを知る。
「沖田さん」
「うん」
「……おきたさん」
「うん」
大丈夫だから、泣きなさんな。
からかうような言葉が聞こえた。
優しく背中を撫でながら、柔らかく髪にキスをしながら。
どちらが、どちらに縋っているのか、こうなってはもう分からなかった。
分からなかったが山崎は、ただ静かに、沖田の名前を呼び続けた。穏やかに響き始める心音が、自分のそれと重なって、どちらのものか分からなくなってしまうまで。
生きていく音が、溶け合ってしまうまで、ずっと。呪文のように。