油断をしていたのが間違いだったのだ。
あまりにも過ぎてゆく時間が穏やかで、隣にいる人の浮かべる表情も穏やかで、予報で寒いと聞いたのに風がなんだか暖かくて、窓の外に白い梅の花が見えてしまったりしたのだから。
「幸せになりたい」
呟いてしまって、その声ではっと我に返った。自分が何を口にしたのか気付いてしまったと思いながら隣を見れば、案の定山崎は、驚いた顔をこちらに向けていた。
「沖田さん…?」
名前を呼びはしたものの、何と言葉をかけようかと考えを巡らせている様がその表情から容易に読み取れる。これで優秀な監察だというのだから、世間ってものは本当に分からない。まさかこの調子そのまま百面相で任務に当たっているわけではないだろうに。沖田さんのせいだ、と、そういえば昔小さく呟いていたことがあったかと思い出して、それはそれはと嬉しくなった。
「今は、幸せじゃないんですか?」
静かな声で問われ、見れば山崎は声音そのまま静かな顔をしていた。風が吹き乱れた髪をそっと押さえている。こちらを静かに見る合間、瞬きを二度程、彼がするまで答えられなかった。
「……どうでしょうねェ」
「不幸ですか?」
「いんや。不幸じゃない」
それは絶対に。何てったって隣にお前がいる。口にはせず思うだけで微笑めば、山崎はすっと目をそらす。視線の先には梅の花。風が吹けばかすかに香りが届くよう。
「不幸じゃないのに……幸せじゃない?」
「山崎は幸せですかィ?」
「…と、思います」
答えてしばらく考えて、もう一度、幸せですよ、と彼は言った。
「そうかぁ」
「食事はちゃんとできるし、暖かく眠れるし、上司は厳しいけど仕事は充実してるし……幸せです、よ?」
躊躇ったのか問いかけたのか判然としない語尾で言葉を切った山崎は、次いで何かを言いかけたようで口を開いたが、すぐに閉じてしまった。ふう、とため息をつくようにして向き直り、こちらに再び視線を寄越す。苦笑に近い笑みを浮かべている彼は、いつもより少し大人びて見えた。
「そういう考えでいけば、俺だって十分幸せですぜ」
「じゃあ、何が幸せじゃないんです?」
言葉に詰るような響きが加わる。それに苦笑して、考えながら口を開く。
「……幸せじゃないわけじゃ、ないさ。そりゃあね、幸せでしょうよ。俺だって、何であんなこと言ったのか分からねぇくらいでさァ。……ただ、」
きっと、油断をしていたからに他ならない。あまりにも自然に穏やかでいたから、柔らかな空気に取り囲まれてしまっていたからだ。きっとそうだ。この感覚は、身に覚えがある。時に昼に、時に夜に、一人でいながら人のぬくもりを見てしまったとき、胸の中に燻るような、あの。
言葉にすれば楽になるのではないかと思うような。それがまさか、今ここで、どうしてよりにもよってその言葉をもってして零れ出たやら分からない。
暖かな柔らかな春に苛立ち覚える焦燥感が、連れてきたとしか考えられない。
「寂しくなりやすね、時々」
一人でいてもいなくても、自分が今ここから消えてしまえば何かが変わるだろうかとか。そんな風に明確に想像するわけではないけれど、説明するとしたならば、結局はそういうことだろう。今ここで自分が息絶えても、何も変わらないという当たり前すぎる事実に、ふと過ぎる空虚さに似たもの。
それを春が殊更に強めてしまったのに違いない。
馬鹿なことを口走ったものだと自嘲して隣の人を見れば、彼は微笑んでいた。苦笑に近く微笑んで、ゆっくりと手を伸ばす。何をするのかと思うより先に、髪に触れられた。優しく指で梳かれているのだと、気付くまでに情けなくも少し時間がかかった。
つ、と膝を進めて真正面、先程より近い位置に座った山崎は、髪を梳いていた手を止めて、今度は両手で両手を握る。いまだかつてそんなことを、彼はしたことがない。戸惑いながら応えることはあっても、柔らかく包み込むことなんてなかったはずなのに。
ふわりと笑って、彼は言う。
「馬鹿ですか。俺がいるのに」
ああ、まったくその通りだ。瞬きをして、握られていた手に視線を落とす。
俺が幸せにしますって、と、聞こえて顔をあげれば、いつものようにいつもの顔で、はは、と山崎は笑った。
いつものように意地悪く笑い返してキスをすれば、先程の大人びた穏やかさはどこえやら、相変わらず頬を染めてうろたえる。それでも彼が、離れた唇を追いかけたのは。
きっと全部。妙に哀しい春の所為に違いない。