退、と、呼ぼうとしてやめた。
「おきたさーん、お待たせしました!」
紙袋を2つ店主から受け取った山崎は重そうなそれを両手に1つずつ持ち、壁にもたれて待っていた沖田のもとへと駆け寄った。
「またえらく買い込んだなァ…」
「んー、いつ来れるか分からないから、一気に持って帰ろうと思って」
休日はいつ副長や局長の用事で潰されるかわかったもんじゃないし、と肩を竦める山崎の片手からすっと沖田は荷物を奪う。そのままスタスタと歩き出す彼を、山崎は慌てて追った。
「中身は一体何なんですかィ」
「あ、隠密道具です。変装用の道具とか、いろいろ」
袋の中には布だの薬だの様々なものが入っている。お抱えの店なんだから、配達してくれればいいですよねーと言う山崎に、沖田は「まァそうだな」とぼんやり返事を返す。そんな沖田を山崎は一瞬不思議そうに見たが、紙袋の紐がずる、と滑ったので慌てて意識をそちらにやった。
まったくもって珍しいことに二人の非番が重なったので、一緒に買い物に来ている。ちょっと今日は用事があるので、と言った山崎に、じゃあ付いて行く、と言ったのは沖田で、付いて行くと言ったとき山崎が迷惑がりはしないかと沖田が心配していたことを、山崎は知らない。
前よりか回数は少なくなったが、それでもまだ、好きだと言うと時折困った顔をする。
抱きしめれば抱きしめ返してくるし、キスをすれば赤くはなるが拒まれはしない。照れてるだけだと知ってはいるが、早く慣れてくれないものかと思う。そうではないと、心臓が持たない、と、沖田は真剣に案じていた。
照れているだけだとは知っている。どうすればいいのかという戸惑いと、気持ちを返すことへの恥じらいがない交ぜになって困ってしまう、というのは見ていれば分かる。その困惑が拒絶や嫌悪の意ではないことも、知っている。頭では。
今は、それでいいかも知れない。けれどいつか、その困惑に拒絶が滲み、戸惑いから嫌悪になったら。困った顔で、手を、払いのけられたりでもしたら。きっと死んでしまう。真剣に思う。きっと、死んでしまう。
触れるたび、抱きしめるたび、今度こそ振り払われて逃げられて心が痛くて死ぬんじゃないかと、沖田が恐れていることなど、山崎は知らない。
「次の予定は何ですかィ?」
「俺の予定はこれで終わりです。沖田さんは?」
「じゃあ、俺の予定もこれで終わりだ。帰るかねェ」
「あ、あー、あのー」
「何? 何か寄りたいとこでもあんのかい?」
首を傾げた沖田に、山崎は笑って、
「遠回りして帰りませんか?」
「…………」
「私服で一緒に歩けるのって何か新鮮でいいですよね」
今からの時期の隊服は本当悲惨ですよねーとか、何とか。他愛もないことを話しながら当たり前のように隣を歩く山崎を、しばしの間沖田は見れない。
へらり、と、まるで何にも考えてないように笑うから、そのたびに沖田が息を止めていることなど、山崎はきっと知らない。何も考えてないように笑いながら、沖田が嬉しくなるようなことを平気で山崎が言うたび、抱きしめたいと伸びる手を沖田が懸命に抑えていることなど、山崎はきっと知らない。
往来で抱きしめたら、きっと暴れるだろう。逃げ出そうとして怒るだろう。
からかうのなら、すぐできた。暴れて怒る山崎を見たいだけならすぐ抱きしめても構わなかった。
けれど。愛おしいと抱きしめて、拒絶されたら、例えそれがどんな理由でも自分の心は痛むだろうから、そんなことで傷つく自分が見たくなくて、だから手は伸ばせない。
からかうのなら、すぐ出来た。恥らわせるつもりで抱きしめることもキスをすることも、愛しているということも。困らせるためなら、すぐ出来た。
退、と、呼ぼうとしてやめた。
きっと、彼は困るだろう。困って、照れて、怒るかも知れない。
からかってやろうとか困らせてやろうとか、そうして呼ぶことは出来るのに。紙袋を抱えて私服を着て隣に歩く山崎のことが愛おしくて、抱きしめたくて呼びたくなったから。
拒絶されたら、死んでしまう。
屯所へ帰る回り道。大きな通りから外れて、人のいない河川敷を歩く。合わせて調節するほど歩幅は違わず、ゆっくりといつものペースで歩く隣に好きな人がいる。
山崎の黒い髪が、優しく吹く風に揺られている。目にかかる前髪を時折指で払いながら、山崎は楽しそうに喋っている。
捨てようと思って倉庫から出していた賞味期限切れのマヨネーズを副長が勝手に食べたことで何故か理不尽に怒られた、とか。今度自分が主催でミントン大会をしようと思うのだけどみんな盛り上がりはするくせにミントンに対して真剣味が足らない、とか。ミントンは筋トレにもなるから稽古に取り入れるべきだ、とか。
それに、ああ、とかふーん、とか相槌を打つだけの沖田に、山崎は不満を見せることもない。
並んで歩く。思いついたように喋り、相槌が返り、喋り、笑う。
遠回りをして、いつもより時間をかけて、外で二人でいる時間をわざわざ長くして。それで山崎は嬉しいのかと沖田が問えば怒るんだろう。じゃあ沖田さんは嬉しくないんですか? と、怒ったあとに小さく聞くだろう。
名前を、ああ、呼びたいなあ。私服で、いつもと違う道で、二人で並んで歩いている。ああ、名前を呼んで欲しい。いつもとは違うように。いつもと同じ耳にやわらかい声で。
呼んで、と言えば、困るだろうか。呼んで欲しいと言えば、困ったようにうつむくだろうか。
優しく吹いていた風が、一瞬大きくなる。ザァ、と風が通りすぎる音がして、吹き付ける風に目を細める。
ザァ、と風が通り過ぎる中で、
「……そうご、…さん」
声が聞こえたのは幻聴かも知れない。
風が通り過ぎた後で。片手に持った荷物をよっと持ち直し、乱れた髪を軽く撫で付け、それからようやく、沖田は山崎の顔を見た。
照れたように微笑んで、同じように荷物を持ち直し、乱れた髪を撫で付けながら、こちらを見ている彼と目が合う。何も言わない沖田に、もう一度山崎は、同じように口を開いた。
「総悟、さん」
「…………」
「……って、呼んでも、いいですか?」
屯所に帰るまでで、いいんです。
そう言って、山崎はやはり、困ったように笑った。
名前を呼びたいとそう言って、困ったように笑った。言ってしまったどうしよう、という思いを滲ませて。嫌だと言われたらどうしようという不安を滲ませて。
呼んで欲しいと、沖田が思って躊躇った、その思いも知らずに。
名前を呼んでもいいかと、山崎が、困ったように笑って言った。
いつもと同じ歩幅で、いつもと違う道を、二人並んで歩いている。珍しく非番が被ったので、隊服を脱ぎ私服を来て、いつもと同じように、いつもと違う風に二人で並んで歩いている。
困った顔も、たまにはいい。拒絶されたら、嫌悪されたら。そんな不安を抱えながら笑ってみせる困り顔なら。
「退」
「…………っ」
「…って、呼んでもいいなら」
「……あはは、何か、変な感じですね」
屯所に帰るまでですからね、と変な釘を刺す頬に、少し赤味が差している。
荷物を持ってない左手を、山崎の開いた右手と繋いで、沖田はふわりと空を見上げた。
「いい天気ですねェ」
「本当ですねー。雲が空に溶けてる」
握る手に力を込めて空を見上げた沖田が、泣きそうに笑っていたのを、山崎は、きっと知らない。