廊下ですれ違いざまに、
「今日の夜、俺の部屋に忍んで来ませんか?」
と、山崎が言った。
沖田は二度、大きく目を瞬いた。
分かった、とも、嫌だ、とも言えず、何で、と訊ねる隙もなく、山崎はばたばたと廊下を駆けて行く。
「…………は?」
廊下を曲がる山崎の背を呆然と見送った後、沖田は間抜けな声を出した。思い切り眉根を寄せる様に、傍を通りかかった隊士がびくりとした気配を見せる。山崎の姿が見えなくなって数秒後、ギャアアアという声とばさばさと大量の紙類が落ちる音が聞こえた。大方、走って滑って手に山ほど持っていた書類をぶちまけたのか。常なら追いかけて拾ってやるが、今の沖田にそんな余裕はない。
「忍んで来い?」
確かにそう、山崎は言った。夜に忍んで来いとは、どういうことだ。どういうこともこういうことも、とグルグル頭の中が回る。しかしまあ、あっけらかんと。あれは決して、恋人を閨に誘うような態度ではない。
「山崎だしな……」
色恋とは、無縁であるように見える彼なら、あるいは何でもないように明け透けに誘ったりもするかも知れない。が、色恋とは無縁であるように見えるからこそ、あんな風な誘いを持ちかけるとは思えない。
思えば好きだと告げてから、キスより先に進んでいない。
沖田は元々、山崎に自分の気持ちを告げたのは言葉でだけでも絡めとっておきたい自分のエゴだったと理解している。好きだと言えば律儀に山崎は意識するだろうから、当面はそれで良いと思っていた。思いもかけず山崎から、自分も好きだと告げられても、それを当然のように鵜呑みにして恋人面するつもりもなかった。
一度、キスしていいかと訊ねたら、とても困った顔をしたので、こんな顔をされるだけで傷つく自分は身勝手だなぁと思って、やはりいい、と笑って見せたことがある。そんな沖田に山崎の方が慌てて、結局キスは許してもらえた。時折空気に飲まれるのか、山崎の方から口吻けを強請ることも、ないではなかったが、それきり。
それより先に進みたいと思ったことがないではないが、それより先をするために好きだと告げたわけでもない。
「……どうしたもんかな」
コキ、と首を鳴らして、沖田はそのまま空を見やる。
来ませんか、と訊ねておきながら、答えを聞かずに去っていったのが、なんともまあ山崎らしいと言えばそうだった。
そんなことがあったのが昼より少し前のことで、昼食時に食堂にいれば会えるだろうと思って少し長めに食堂でダラダラしていた沖田の前に、結局山崎は現れなかった。監察の動きは原則副長である土方しか知らないから、今どこで何をしているのか分からない。市中見廻りの班にはなっていなかったはずだから、何かどこかへ出かけているか、それとも部屋で事務処理をしているか。
屯所内を探して回っても良かったが、外に出ているのならば無駄骨だと思ってやめる。どこかで昼寝をしていればいつものように探しに来るのではと思ったが、昼寝場所を探すより先に土方に見つかって、暇なら見廻りにでも行って来いとどやされた。
誰の所為で、と口に仕掛けた沖田は、しかし口に出すのも悔しくて口を噤む。
常になく素直に見廻りに出かけた沖田を訝しく見送った土方は、沖田がその胸中でいつもの万倍土方への恨みを吐き出しているなど思いもしない。
そもそも夜とはいつのことだ、と夕飯を箸で突きながら沖田は唸る。
もう夕刻だが、辺りはまだ十分明るい。今度こそ山崎を捕まえようと思っていたが、夕食の時間になっても山崎の姿は見えなかった。
それではやはり、屯所の外にいるのだろうと思って、沖田は眉間に皺を寄せる。
今日の夜、ということは今日中には帰ってくるのだろうが、それでは困る。沖田はそもそも、行くとも行かないとも答えていないし、行くにしても、何時頃になれば山崎が帰って来るのか知らされていない。
深夜にこっそり忍んで行って、そこに山崎がいなかったら。きっと自分は傷ついて、傷ついた自分に眩暈がするのだろうということは容易に想像が出来た。
今でも十分眩暈がしている。忍んで来いとはどういうことだ。そういうことか。
「総悟、お前、顔怖いぞ」
「近藤さんよりマシでさァ」
「あ、今傷ついた。俺ちょっと傷ついたよ」
「……ねえ、近藤さん。ひとつ相談なんですが」
しかめっ面でおかずを突き続ける沖田を見かねて声をかけてきた近藤にとりあえず訊ねてみることにする。
「おう、何だ」
「惚れた相手がいきなり『夜に部屋に忍んで来て』って言ったら、どうしますかィ?」
「そりゃあもうまずはきちんと風呂に入って全身をきれいにしてだなあ! ヒゲもいい感じに整えて、とりあえず新しい着物を着るな、うん。臭いとか言われたら傷つくから」
「忍んで行くんですかィ?」
「お前、総悟くん! 忍んで来て、なんて言われて行かない男はいないでしょ。そんなお妙さんに恥をかかせるようなこと出来ません」
「やっぱりそうなのかなァ」
「で? 何? そういうこと言われちゃったりしたのか?」
「いいや、物の例えでさァ」
にこり、と笑ってそれ以上の追求を防ぎ、突きまわしていたおかずをやっと口に運ぶ。
やはり、普通は、そういうことなのか。
しかし山崎の場合は普通でないところがあるし、そもそも、自分と山崎の関係が普通でない。
考え込みながら、いつも以上にゆっくり時間をかけ食事をし、食堂のおばちゃんに追い出されるまで茶を飲んで食堂に居座ったが、結局山崎は来なかった。
そしてすっかり日も沈み、皆が寝静まった深夜。
風呂も遅い時間に入り、ついでに監察方の部屋付近をうろうろとしてみたが、結局沖田は山崎に会えずじまいだった。
行く、と答えてない以上、行く約束をしたことにはならないのだろうが、だからと言ってそのまま眠ってしまうことも出来ず、結局沖田はこそりと自分の部屋を出た。
音をさせずに歩くことは意識しなくても出来る。寝静まった屯所の中を、気配を殺して静かに歩く。屯所の表は警備のためもあって深夜でも火を焚いているが、隊士の寝所ばかりのこの一体は夜になると完全に闇に沈んだ。
少し冷たい夜風を肌に感じながら、静かに山崎の部屋へと向かう。
結局帰って来ていないのではと危惧したが、角を曲がったその先の山崎の部屋には微かな灯りが付いていた。
部屋の前に立ち、小さな声で呼びかける。
「山崎」
「あ、はい」
中からも深夜に相応しい小さな声が応え、からり、と襖が開いた。
寝巻きに着替えた山崎が、部屋の前に立つ沖田を見てにこりと笑う。
「沖田さん、来てくれたんですね」
「うん。寒いから、中に入れて」
風が冷たい。そう告げた沖田を山崎は慌てて部屋に招きいれると、ぴたりと襖を閉じる。
文机の横に置かれた行灯だけが光源の部屋は薄暗い。
「来てくれないかなーと思ってました」
「何で来ないって思うんでい」
「いやぁ、俺言いっぱなしで逃げてきたから、沖田さんのお返事聞いてないなーと思って」
眠いからとか面倒臭いって言って、断られると思ってました、と言って山崎は笑う。
沖田は呆れて溜息をついた。
未だかつて、沖田が山崎の頼みを、眠いだの面倒だのを理由に断ったことがあっただろうか。
「……それで、何の用でわざわざ夜中に呼び出したんでィ?」
一応これだけは聞いておかねば、と思い、訊ねる。これで自分の早合点だったら、目も当てられない。
果たしてそれは、正解だった。
「沖田さんにね、見せたいものがあるんです」
嬉しそうに手を叩いた山崎は、いそいそと立ち上がって部屋の奥へと向かう。予想はしていたが、思っていた以上に意識していたのか拍子抜けした沖田は、山崎にバレないように慎重に溜息を吐いた。
ほら、やはり。
山崎は山崎で、他とは少し代わっていて、山崎と自分の関係も、普通とは少し変わっていて、山崎は色恋と無縁であるように思えて、もちろん自分も、そんなつもりで好きだと告げたわけではなくて。
だがしかし、なんと言うか、やるせないやら情けないやら。
「沖田さん、行灯の灯りを、消してもらえますか?」
山崎の声に我に返った沖田は、文机に寄って行灯の灯りを吹き消した。
途端、部屋の中は闇に包まれる。
「山崎?」
「これが見せたかったんです」
山崎の声のする方へ目を向ければ、ふわりとした灯りが2つ3つ、視界に揺れた。
闇の中で眩しいそれは小さく、ゆっくりとした感覚で点滅をする。ふわり、と動き、ふわり、と止まり、まるで何やら、幻を見ているよう。
「……蛍、ですかい」
「はい。昨日の夜、川べりで見つけて、沖田さんに見せたかったから、連れて帰ってきちゃいました」
でも可哀相だから、逃がしてあげなきゃ。
そう言いながら山崎は、蛍の入った籠をそっと畳の上に下ろす。
「……きれい」
「でしょう?」
まるで自分が褒められたように嬉しそうに笑って、山崎は優しく籠を撫でる。
小さな蛍は籠にかけられた薄い網のせいで外へ出られず、狭い籠の中で飛んだり止まったりしている。
自分に見せるためにわざわざ捕まえて連れ帰ったのか。
見て、きれいだと思って、自分に見せたいと思ってくれたのか。
そう思えば沖田の唇にも笑みが浮かぶ。
「それにしても、何でわざわざ忍んで来いなんて? 普通に部屋に来いでいいじゃねェか」
部屋に呼ばれた理由は分かったが、沖田が一日悩む程の言い回しをしたのは何だったのかという疑問は残る。責めているわけでも拗ねているわけでもないが気になって訊けば、山崎はふわりと微笑んだ。
嬉しそう、とはまた違う、微笑み方。
籠に優しく触れていた山崎の手が、その籠にかぶさっていた網を落とす。
遮る壁のなくなった蛍がふわり、と籠から飛び出して、半分開けられている部屋の窓へと光りながら飛んでいく。
その光に一瞬目を奪われた沖田の左手に、たった今蛍を逃がした山崎の手が、触れた。
「そりゃあ、そうっと、誰にも知られず、二人だけの秘密にしておかなけりゃ」
意味がありません、と。
意味深に笑んだ山崎の唇が、そっと近づくのを沖田は見る。
唇が触れるひとつ手前で。
「俺が困ってしまうのは、沖田さんのことが好きだからって、いい加減知ってくださいよ」
詰るような響きが落ちた。
沖田は一瞬目を見張り、そして笑って、重ねられた手を握って強く引っ張って、それから、ゆっくり目を閉じた。