こっそり誰にも知られずに飼っていた猫が死んだ。


(まあ、生きてたんだもんな。仕方ねェか)
 掘った穴に柔らかい草を敷き詰めて、茶色い小さな身体を横たえる。動物の墓など作るのは初めてだったから勝手が分からないが、こういうのは多分形式よりも気持ちが大事なのだろうから、と、庭の隅に咲いていた雑草のような花をその身体の上に乗せた。
 くすぐったさに目を開けはしないか、と暫く見守るが、当然目を開けたりはしない。だって呼吸をしていない。諦めて、その花と身体の上にばらばらと土をかけた。

 結局生きているものは死んでいくのだな、と思って沖田は埋め終わった穴をぽんぽんと手で叩く。先週まではごろごろと喉を鳴らしながら、美味そうに牛乳を飲んでいたのに、今ではぴくりと動きもしない。そうやって死んでしまったということが、あの猫が生きていた事実を浮き上がらせるようで、何とも言えない変な気持ちで立ち上がり手についた土を叩いて払った。
 生きているものは死んでいく。死んでいくから、それまで生きていたということが浮き彫りになる。
 じゃあ終わらないものはないのだろうか。生きてれば死ぬし、花も枯れる。
(雲の形も変わるしなァ)
 見上げた空は、先ほどまでの突き抜ける青さはどこへやら、重たそうな雲が広がっていて今にも雨が降り出しそうだった。
 晴れだって、すぐに終わる。


 雨が降り出しそうなので部屋に戻ろうと宿舎に入った。古い廊下がぎしりと鳴る。この廊下もきっと、最初は音もしなかったんだろうに。ぼんやりそんなことを考えながら部屋に戻る途中、ぽつり、と最初の雨が地面を叩いた。
(降りだしたな……)
 ぽつり、ぽつりと不規則に雨が地面の色を変えて、すぐにその変わった色一色になる。ざああああと降る雨が廊下と外を隔てるガラスをすぐに濡らしていって外の様子を見えなくさせた。
(山崎、何してんだろ)
 今日は見回りでーとか文句を言っていたから、今頃は濡れねずみになっているのかも知れない。着替えるために帰ってくるだろうか。そう気付いたら部屋に戻る気になれなくなったので、踵を返して監察方の部屋へと向かった。
 今は山崎の一人部屋であるそこにもちろん未だ主はおらず、沖田は許可もなく部屋へと入り込む。片付いているような、片付いていないような。畳の上はきれいでごみなどは散らかっていなかったが、文机の上には書類なのか何なのか分からない紙類が無造作に置かれていた。その横には、何の資料なのか本が四冊積まれている。
 主不在の部屋の畳の上に勝手に横になって天井を眺めた。目を閉じれば、雨が窓ガラスを叩く音が耳につく。この音もいつかやむのだろう。山崎が帰って来るより先に雨が止んでしまえば訪れるのは静寂か、と思えば、それが何だか寂しかった。
 変わっていかないものなど、ないのだろうなあ。耳を澄ます。ぺたぺたと、濡れたような足音が聞こえて次第に近くなり、部屋の前で止まったと思ったらがっと引っかかるような音を立てて障子が開かれた。
「…………」
「よう」
「……何してんですか」
 仰向けに寝転がったまま首だけ動かし山崎を見た沖田に、部屋の持ち主は驚いたように目を丸くしてから、呆れたように笑った。
「サボりですか? 副長に怒られますよ」
「そしたら一緒に怒られようや」
「何でですか」
 くすくすと笑って山崎は障子を閉める。やはり雨に降られたようで、髪も顔も隊服もぐっしょりと濡れていた。
 寝転がったままの沖田に構わず、山崎は箪笥を開けて新しい隊服を取り出すと、濡れて重たくなった隊服を躊躇なしに脱ぎ捨てていく。その様子をじっと見つめる沖田に、山崎の苦笑が返った。
「何か見てておもしろいですか?」
 乾いたタオルでがしがしと濡れた髪を拭きながら言う声がくぐもって聞こえづらい。
 沖田はむくりと起き上がって、立ち上がったままの山崎の腕を掴み力いっぱい引く。
「う、っわ」
 ぐらり、と傾いだ身体を受け止めて、肩を押さえてその場に座らせる。何ですか、という抗議の声は無視して山崎の頭にかかったままのタオルを取ると、沖田はことさら優しく山崎の髪を拭き始めた。

「……俺、この後見廻りに戻りますけど」
「うん」
「……どうかしましたか?」
 ただ黙々と山崎の髪を拭く沖田を、前髪の隙間から山崎がちらりと見上げた。その顔があまりに不安そうだったので、沖田は思わず小さく笑う。
「何ですか、もう」
「何でもねェよ。ただ」
 髪を粗方拭き終わり、今度はむき出しになった首から肩へとタオルを滑らせていく。丁寧に水滴を拭うその動きに、山崎がくすぐったそうに身を捩った。
「ただ?」
「ただ、俺はいつまで山崎のこと、好きでいるのかなァって」
「…………」
「そう思っただけでさァ」
 とんとん、と、乾いたタオルが水分を含んで冷たくなっていく。
 山崎は沖田を見つめて、その乾いた髪を指で梳いた。さらり、と零れ落ちていく色素の薄い髪を見る。そんな山崎には何も言わず、沖田は山崎の身体を拭き終わったタオルをふわりと山崎の肩に掛けた。
「おしまい」
「あ、りがとうございます」
 ん、と短く答えて、再び沖田は畳の上に横になった。緩く目を閉じれば頬に山崎の視線を感じる。その気配が、こちらを見つめたまま一向に動かないので、少しだけ目を開けてその顔を見、
「行かなくていいんですかィ」
聞いた。山崎は少し黙って、それから、そうですね、と小さく言って立ち上がった。

 雨の音と、山崎が着替える音だけが沖田の耳に届いている。
 こうしてただ何も言わず傍にいるだけで心地よいと、いつまで思っていられるだろう。
 終わるだろうか。形のあるものは、全て。
 衣擦れの音が止んで、どうやら山崎は着替え終わったようだった。ああ、出て行ってしまうなどうしよう、と迷いながらも目を開けないままで居れば、すっと山崎が近づいたのが分かる。
 暫く横たわった沖田の傍に立っていた山崎は、そのままとさりとその場に座った。
 雨の音だけ、聞こえている。
 沖田は目を開け首を動かし、傍らに座った山崎を見た。髪はまだ少しだけ湿っていて、いつも以上に跳ねている。隊服はすっかり乾いたもので、濡れた隊服はそのまま壁に掛けられていた。

「見回りに行くんじゃねーのかィ」
 聞けば、山崎は少し拗ねた顔をする。いじめたわけじゃなかったんだけどなァと思いながら手を伸ばせば、その手を山崎の手がするりと掴んだ。
「サボります」
「いいのかい。怒られるぜェ」
「そのときは、」
 沖田の指を絡め取るようにして、ふふ、と山崎が笑う。
「一緒に怒られてくれるんでしょう?」
 少しだけまだ濡れているせいで髪の色が深く、濃く、その笑顔を縁取って、それがあまりに綺麗だと思ってしまったので。
 沖田は何も言えないまま、少しだけ唇の端を上げて、またゆるりと目を閉じた。

 雨が落ちていく音だけが耳に静かに響いている。
 傍らに座る山崎のゆっくりとした穏やかな呼吸だけが聞こえている。
 暖かな気配だけを傍に感じている。
 絡め取られた指が、時折曲げたり伸ばしたりして遊ばれるのでくすぐったい。

「好きですよ」

 雨の音に混じって、ひどく穏やかな言葉が落ちた。
 うっすらと目を開けた沖田に笑って、山崎はもう一度言う。
「好きですよ、俺は。沖田さんが」
 はっきりと届くその言葉は、いつからだったろうかと考える。
 真っ直ぐに目を見て、気持ちが互いに伝えられるようになったのはいつからだろう。
 照れることもなく怯えることもなく、好きだと思えるようになったのは一体いつからだったろう。

「ずうっと、好きですよ」

 そんな、叶わないことを口にして、山崎が手を繋いだまま反対側の手で沖田の前髪を柔らかくかき上げた。そのまま目を閉じて繋がる手を少しだけ引けば、躊躇わず唇が重なる。
 愛しいなあと思って、濡れた髪にそっと手を差し入れた。

 変わっていくのならやはりいつかは終わるだろうか。結局、存在するものは消えていくのだ。生きていれば死ぬし、咲く花は枯れるし、雲の形は変わっていってやがて消える。この想いも、胸の中に存在してしまった以上例外ではないだろう。死んでしまった猫のように、やがて動かなくなるだろう。

「好き」
 混じる吐息の間で零せば、山崎が嬉しそうに笑った。

 耳に届く雨の音がだんだん弱くなっていく。もうすぐまた、晴れるだろうか。
 恋が、いつか終わるとして、これが終わればその後で好きだったことを思い知らされるのだろう。どれ程愛おしかったかを、失った後で再認識するのだ。きっと。

「お前がいなけりゃ、生きていかれねェよ」
 深く重なる唇から何もかも溶け出していっそ一つになってしまえれば、こんなにも悲しくなくて済んだのに。生まれるも一緒、消えるも一緒なら、何も寂しいことなんてなかったはずなのに。


 失くした後も生きていく自分に気付いて、他愛ない睦言を空しく思う日が来るだろうか。今はこんなにも真実なのに。
 ただそれだけが、怖かった。

      (08.09.05)