沖田さん、と呼んだのは五度目だったけれど、やっぱり沖田は振り向かなかった。
二度目までは、無視されているのかな、と思っていたけれど、三度目振り向かれなかった辺りでようやく、
(ああこれは聞こえてないんだな)
と山崎は気がついた。
沖田さん、と六度目。どうせ聞いちゃくれないのは分かっているから、口の中でもごもごと言うだけにする。声を張って無視されたら、やっぱり悲しいから。
ぱちぱちと、乾いた木が燃える音が耳に届いている。山崎の声を掻き消すほどの大きさは決して持っていないはずなのに、どうして声が届かないんだろう、と首を傾げる。どうしてこっちを、見ないんだろう。
(俺がいることなんて、忘れてんのかな)
濡れ縁に腰掛けて庭先に下ろした足をぶらぶらさせながら、
「沖田さん」
七度目、呼んだ。返事の代わりにぱちっと火の爆ぜる音がした。山崎が欲しいのは、そんなもんじゃない。
火の中で、溶けるように儚げに燃えているのは、写真だ。
山崎の知らない、ずうっと昔に撮られた写真だ。
写っているのは沖田と、近藤と、それから土方と沖田の姉だった。
その写真はいつもなら沖田の机の引き出しの一番奥にしまってあって、沖田はそれを本当にときどき取り出しては眺めていた。
沖田はあまり、姉のことを語らなかった。
だから山崎は、沖田の姉が病気であるとか土方と恋仲であったとか、そういうことは最初は全然知らなかった。
ただ、一度か二度、姉ちゃんがいてさァ、と言うのを聞いていただけだった。元気かなぁと空に思いを馳せるのに、きっとお元気ですよ、と無責任な言葉を返していた。
姉の写っている唯一の写真なんだ、と山崎にそれを見せてくれたのだって、最近になってからだ。もう、元気かなぁと空に思いを馳せることもできなくなった後にだった。
きれいだったんだ、と写真をなぞって沖田が言った。
それを山崎は覚えている。大切に大切に、沖田がその写真を扱っていたことだって覚えている。
その写真が、小さな火の中で、端からどんどん溶けるようにして消えていく。
沖田はそれをしゃがみこんでじっと見ている。
山崎の声は、八度目も届かなかった。
今日は割合あたたかいな、と油断していた気温がどんどん低くなって、太陽の位置がどんどん下がって、影の長さがどんどん伸びていく。
火の中の写真がすっかりなくなって、火の勢いも衰えてしまってから、沖田はやっと立ち上がった。
「痛、」
ずっと同じ体勢でしゃがんでいた足が痛むのだろう、膝に手を当て腰をかがめている。
それを山崎は、最初とあまり代わらない同じ体勢でじっと見て、ばかじゃないの、と小さく言った。
「あ、ひでぇ」
「……聞こえてたんですか」
「そりゃ、聞こえるさ。何で」
何言ってんのお前、と怪訝そうな顔で沖田は首を傾げた。
痛いとか何だとか文句を言いながら、よろよろと山崎の傍に寄ってくる。
「だって、」
「何」
「…………別に、何でもないです」
きょとんとした顔が腹立たしい。見ていたくなくて、山崎はふいと顔を背けた。
機嫌悪ィの? と悪びれず聞く沖田が、そのすっかり冷たくなった手を伸ばして山崎の頬に触れる。そのままぐいと力を入れられたので、山崎は別段抵抗もせずに大人しく沖田と目を合わせた。
「お前、いつからいたの?」
「……なんで?」
「すげえ冷て。風邪ひくぜ」
「沖田さんの手の方が冷たいです」
「お前のが冷たいよ」
冷たい両手で山崎の頬を挟みこんで、ほら、と沖田は言った。
掌がつめたい。ひんやりとその冷たさが伝わって寒い。けれどその触れ合っている部分がじわじわと暖かくなっていって、それと、まだ冷たい部分のギャップが気持ちよかったので、やめてください、の一言を結局山崎は言い出せなかった。
「……写真」
「ん?」
「なんで、燃やしちゃったんですか」
遠くからみたらこれは、キスする前に見えるんじゃないかなぁ、と他人事のように考えながら、山崎は何気なさを装って聞いた。
合わさっていた視線がわずかに逸らされる。あ、ひどい、と山崎は思って、いっそこのままキスしてやろうか、と思ったけれど、頬を包まれている山崎の方からはどうにも顔を寄せれなかったので、軽く舌打ちして諦めた。
「え、今舌打ちした? ちって言った?」
「言ってません」
「ひどい山崎。俺が何したって言うんですかィ」
軽い口調で視線を戻した沖田が哀れっぽい声をあげて言う。
俺を放ったらかしにしました、と言えばどんな顔をするだろうなぁ、と山崎は考える。
けれどきっと、そんなことを言えば傷つくんだろうな、と考えてしまって、結局、
「ねえ、なんで燃やしたんですか?」
甘えたような声を作って、もう一度聞いてみるだけにしておいた。
「……あれァな」
「はい」
やっぱり視線をわずかに逸らしながら、仕方なしと言った風に沖田が口を開く。
「あの人と、アイツが一緒に写ってる、一枚っきりのものなんだ」
あの人、と言うのは、おそらく沖田の姉のことで。
アイツというのは、おそらく。
「俺が思い出で持ってるよりか、姉上が、持ってた方が幸せだろうなって思って。姉上だって、きっと、持ってたかったはずなんだ」
だからだよ。と、言い切った声がどうにも泣いているように聞こえて、けれど山崎は頬を包まれていて動けず、沖田は顔を俯かせてしまって、その表情が見えない。
「沖田さん」
「ん?」
「沖田さん」
「何だよ」
「沖田さん」
「なんだよ、お前、どうしたの?」
三回呼んで、やっと顔を上げた沖田は、泣いてはいなかった。
涙は零れていなかったし瞳は乾いていたけれど、泣き笑いのような顔をしていた。少なくとも、山崎には、そう見えた。
「……キスしてください」
「は? え、お前本当どうしちゃったの? 風邪でもひいたんじゃねーの?」
大丈夫? と心配そうな顔をして山崎の顔を覗き込む沖田の目を、山崎の目がぴたりと捕らえる。
熱あんじゃねーの、と言いながら沖田は自分の額を山崎の額に押し付けて、
「やっぱりお前、熱あるぜ」
少し笑ってから、山崎の唇に自分のそれを押し当てた。
(俺が代わりになりますなんてことは、言えないけど)
そんな大それたことは言えないし、言ってしまえばそれは嘘になってしまうけれど。
(昼過ぎから夕方まで勝手にあんたに付き合って、あんたの名前を十三回も呼んだ俺がいてあげるんだから)
唇を触れ合わせたままうっすらと目を明ければ、こちらを見ている沖田と目が合った。
嬉しそうに目を細められて、触れられたままの頬が熱を増す。
多分きっと、視界が霞んでいるのは山崎の方だ。
沖田の目は、乾いていて、山崎をやわらかく見ている。けれど。
(俺がいるんだから、ひとりで悲しいような顔、しないでよ)
世界で自分ひとりきりがかわいそうみたいな顔をして溶ける写真なんか見てないで。
呼んだ名前に返事をしてさえくれれば、いくらだって傍にいてあげるのに。