締め切ったカーテンの向こうはすっかり夜の冷たい空気が支配しているだろう。
 今夜は月がない。机の上に置かれた小さな灯りだけが光源で、ゆらゆらとゆれる原始的なそれは、壁に映った山崎の影を大きくしたり小さくしたりしている。
「退、」
 いとおしさを込めて滅多に呼ばない名前を呼べば、山崎がくすぐったそうに笑う。そのひそやかな笑い声に混じらせて、総悟さん、と呼ぶ声が、自分の鼓膜にだけ響いていてそしてそれをずうっと閉じ込めいつでも再生できるようになればいいのにな、と沖田は夢想している。
 手を伸ばして、柔らかな山崎の髪を白くて薄い耳にそっとかける。
 やはり山崎はくすぐったそうに笑い、身を捩って、それから少し熱の篭ったような目で沖田を見た。
「そうごさん」
 計算だろうか、と思うくらいの甘さで、やわらかさで、名前を呼ばれる。
 こういうとき沖田は、名前に力があるってえのは本当だな、と思う。
 名前を呼ばれたら魂まで奪われてしまうというのは本当のことだな、と馬鹿みたいに感心する。
 同じように魂を奪えるだろうか、と口を開いて
「さ、」
 がる、と続くはずだったおとは、ビビィィィと静かに響いた何かの音に突然邪魔された。






「あ、ごめんなさいちょっと」
 ふわふわと髪をいじっていた沖田の手をやんわりはずして山崎が立ち上がり、部屋のあかりとぱちりとつけた。
 瞳に篭っていた熱はすっかり失われてしまって、その声にも、甘い響きはどこにもない。
 眩しさに目を細める沖田に背を向けて、ビィィィィと音を鳴らす黒い機械を、山崎は手馴れた仕草で操作した。
「……何でい、そりゃあ」
「無線みたいなもんです」
「……そんなもんあんのか」
「あるんです。俺監察なんで」
「……ここ、私室だろ」
「ですけど。監察なんで」
 机に向かってカタカタと何か作業をし始めた山崎は、沖田の言葉に振り向きもしない。
 声に滲む子供っぽい拗ね方になんて気づいているだろうのに、それを宥めもしない。
 おもしろくないので沖田が話しかけることすらやめてしまっても、山崎はそれを気にしようともせず机に向かったまま黙々と作業を続けている。
 山崎の手元から響くカタカタという音と、山崎の机の上にある黒いわけのわからない機械から聞こえるビィィィという音だけが聞こえる。
 窓の外は、すっかり夜なのに、だ。
 すっかり夜で、山崎の私室にはすっかり布団も敷かれてあって、絡んだ視線は先ほどまであんなに熱を持っていたというのに、だ。
「なあ、退」
 甘えるように名前を呼んでみるが、
「ごめん沖田さん、ちょっと静かにしておいて」
 魂はどうも奪えなかった。


―――――うん、うん、わかった。それじゃそっからもっかい二手にわかれて。うん、そう……そうだな……うん、そうだね分散したほうがいいと思う。うん、それで組んで。で、分かれたらあとは計画通りに。うん。……オッケーわかった。うん、それは俺で副長に伝えておく。何かあったら連絡入れて。うん、わかりました。引き続きよろしく」


「すいません沖田さん、ちょっと」
 しばらくしてやっと振り向いた山崎が、先ほどとあまり代わらない姿勢で座ったままの沖田を見て困ったような顔をした。
 仕事が、と言って口篭る。
 カタカタと響くせわしない音と、ビィィィと響くいやな音と、てきぱき動いた山崎の筆先と、滑らかに下知を下す声音とから、そんなことは沖田にだって分かっていた。言われるまでもなく山崎は監察で、その仕事はひそやかに行われるべきもので、昼も夜も関係ないのだということくらい、沖田にだってわかっている。
 ただ、沖田の声に山崎がちっとも振り向かなかったことがほんの少しだけ恨めしくて、困らせてやりたいなァ、と珍しく思った。
「…………」
「すいません」
 おどおどと沖田を見て、体を小さくする。
 沖田は少しだけ冷たい目をして、そんな山崎を見下ろす。
 困らせて、やりたいなあ。泣かせてやりたい。ここで無理にでも布団に引き倒して噛み付いたら殴られるかな、と妄想を膨らませる。泣いて嫌がるかな、悲痛な声で名前を呼ぶかな、怒られるかな、嫌われるかな。
 そこまで考えて、やめた。別に山崎を怒らせて嫌われたって、沖田に何にも楽しいことなどないのだ。
 最大限甘たるく甘やかして、ずっと笑わせていたいと思っているのが本当なのだし。
「うん、いいよ。つーか仕方ねーだろ」
 浮かべていた冷たい光をすっと消して、呆れたように笑ってやれば、びくついていた山崎がほっとしたような笑みを浮かべて「ありがとうございます」と頭を下げた。
「ばーか。そういうときはなぁ、続きは帰ってきてからね、って言うもんでィ」
 言えば、はははは、とおかしそうに笑う。
 冗談の気持ち半分、本音半分、だったのだけれど、それを言うのも何なので沖田は一緒になって笑っておいた。


 沖田の答えを聞いて安心した山崎は、笑っていた顔をすぐにきっと引き締めて立ち上がった。大きな足取りで箪笥に向かい、中から引っ張り出した普段着を布団の上に投げ捨てた。そのまま今度は自分の着ているものを、躊躇いもなくばさばさと無遠慮に脱ぎ捨てていく。
 恥じらいも色気もそういう空気もない状態でみる山崎の裸身なんて沖田にとって大して面白くもないけれど、特に見るものもないのでじっと観察をした。
 脱いだ寝巻きを無造作に放って、布団の上に投げ捨てていた服に手早く身に着ける。衣擦れの音だって、しゅるしゅるというものではない。ばさばさという、埃がたちそうな音なのだ。
 沖田はそれをじっと見ている。着物の帯をきゅっと結ぶ手の甲に浮かぶ血管まで見つめている。
 けれど山崎は、ちっとも気にしていない様子で作業を進める。
 恥らっていないとか、そういう問題ではない。単に遠慮がない、というわけでもない。
(こりゃ、見えてねーなあ)
 沖田のことが。
 どうやら今の山崎には見えていない。


 山崎は。
 山崎の中には、ある一定のラインがある、と沖田は分析している。
 山崎は沖田のことが、好きだろう。近藤や土方や原田とは違った意味で好きだろう。唇も許せば体も許すだろう。沖田が何かしても、滅多なことで嫌いになりはしないだろう。
 愛があるだろう。けれど。
 山崎の中には一定のラインがあって、自分は決してその上には出ないのだ、と沖田は冷静に分析している。
 山崎は基本的に誰にでも優しいし、甘いし、ある程度は平等だし、いつもふわふわしているし、人に対する好き嫌いの強い感情もあまり持ってはいない。
 けれど山崎の中に引かれているラインは、その平等さの中でものすごく厳密な数値を取って設定されていて、まるでそれ自体に電流でも走っているかのように他の誰をも近づかせない。
 そのラインを超えられるのは、ただ一人。
 土方十四郎という、山崎の上司だけだ。
(仕事、じゃ、ねえな。土方だ。山崎ン中で大切なのは仕事っていうよりも、土方の命令だろうよ。それを前にしちゃ俺なんて、箪笥や机と同じようなもんだろうさ)
 ふわふわと平等に優しい中で特別愛されていると沖田は知っているからこそ、その超えられない一線が悔しくて悲しくて恨めしくて仕方がない。
 仕事を大切にしているだけなら沖田にも納得できるから、まだ、よかったのだけれど。


 ばさばさと派手に着替え終わった山崎は、脱ぎ散らかした服もすっかりきれいに畳んでしまって、やはりきっとした顔のまま沖田へと振り向いた。
「じゃあ、すいませんけど、行きますね。副長んとこ報告行って、何もなければ戻ってきますけど、時間かかると思いますし何かあってもいけないんで、沖田さんは部屋に、」
「やだ」
「えー……」
「俺ァ今日ここで寝る。別にいいだろ」
「そりゃあ……いいですけど……でも無線、鳴ったらうるさいですよ?」
「いい」
「いいならいいですけど」
 山崎は怪訝そうな顔をして、それからふっとその表情を和らげた。
 にこりと笑って沖田に敬礼する。
「じゃ、行ってきます」
「了解した。健闘を祈る」
 正しい型で敬礼を返し仰々しく言えば、山崎はおかしそうに笑った。


 じゃあね、と軽く残して山崎が部屋を出て行く。
 ぱたんと閉まった襖の音を最後に、部屋は突然静かになる。
「…………やっぱ土方殺してェなあ、クソ」
(あいつが死ねば俺が線の上になれるたァ思わねーが)
(それでも一番には、なれるんじゃねえのか)
 山崎の布団の上にごろりと横になって天井を見上げる。
 別に自分の部屋と大して変わらない天井だ。
「おっもしろくねー」
 この状況が。
 はやく斬りあいになんねぇかなそしたら俺も出張れるのに、と物騒なことを考えてごろごろと転がる沖田の耳に、ぱたぱたと駆けるような足音が聞こえた。
 それは山崎の部屋の前でぴたりと止まり、続いて襖が開けられる。
「沖田さんっ」


「俺ね、総悟さんのこと好きですよ。好きですからね」


 襖から顔を出した山崎が突然言った。
 肘を使って体を半分起こした沖田は、突然の告白に驚いて目を丸くした。
「……え、何」
「え? 不意打ちでの告白」
「……いや、うん……おめ、仕事は?」
「行きますよ。行きますけど」
 沖田さんの真似ですよ、と山崎は笑った。
 その笑い方が、沖田ではちょっと真似するのも難しいのではないかというくらいやわらかく、きれいに見えた。
「言いたくなったから。じゃ!」
 ぴ、と手を上げてそう言い置くと、山崎は再び襖をぱたんと閉めてぱたぱたと駆けていく。



 布団に倒れこんだ沖田は、両腕で顔を隠して静かに唸った。
 山崎の中には一定のラインがあって、それは確かなことで、その上には土方十四郎という山崎の絶対的な上司がいて、誰もそこには近寄れない。
 それ以外に対して山崎は平等に優しくふわふわとしていて、その中でほんの少しだけ沖田は特別な位置にいる、の、だけれども。

(おめー、特別っつーのは、勝ってんじゃねーの? あいつは上下ランクの中で一番かもしんねーけど、俺はその別枠、もっと別の、きっとずっと特別なとこにいて、それって結局あいつなんかの絶対に到達できない位置なんじゃ、ねえのかな)

 ごろり、と転がってうつぶせになる。顔を押し付けた布団からは、かすかに山崎の香りがする。

(戻って来てまで言うことかァ? まったくあいつ意味わかんねーな。可愛いな)
(あ、俺も好きって言うの忘れた。まあいいか、戻ってきたら言ってやろう。ついでに名前も沢山呼んでやろう)


(沢山呼べば、一度くらい、魂だって奪えるかもしれねえや)

      (08.12.03)