花の香りが一筋ふわりと空気に乗って沖田の鼻孔をくすぐった。からん、と軽い音を立てる若い女とすれ違う。あ、蝶だ。一瞬沖田は錯覚した。真っ赤な蝶が飛んでいる。追いかけるように振り向き、すぐ後悔した。真っ赤なそれは蝶などではなく、女の髪の花飾り。面白くもなさそうに唇を引き結んだ女は長い睫毛を瞬かせて、沖田の傍を通り過ぎた。
 見ず知らずのような顔をしていた。やまざき。呼びかけた声を、沖田はぐっと呑み込んだ。



 若い女に懸想をしている。
 名前も知らない女だ。
 最近になって近くの反物屋で働きだしたということだけ、知っている。ちょうどその店先がよく見える位置に茶屋があったものだから、沖田はたびたび仕事をさぼってその茶屋へ通うようになった。甘味は実は、毎日食べたい程うまくはない。茶だって本当は、屯所で飲んだ方がずっと落ち着く。それでもわざわざ通い詰め、毎日毎日飽きることなく、沖田は女を盗み見た。
 黒い髪を後ろで束ねて、簪を挿している。上品に着物を着こなして、きびきびとした動きで接客をする。白い手がひどく丁寧に反物を扱う。ゆっくりと動く唇に乗った紅。沖田にわかるのはそれくらい。店の主人と仲が良く、客がいないときは楽しげに喋っている。沖田が知る限り気難しかったはずの主人は、女の前ではよく喋るようだった。それに女はいちいち、驚いてみせたり笑ってみせたりするのだけれど、変に大げさではなくて、遠くから見ている沖田でさえ、話を聞いて欲しいな、と思うくらい。
 そういえば声も聞いたことがない。そう気付いたのは、通い出して一週間程した頃だったろうか。
 名前も知らない、言葉を交わしたこともない、ただ遠くから見つめることしかできない、知らない女に恋をしている。
 ずっと前から決まっていたことのように、それは、沖田にとって、ひどく当たり前のことだった。



 彼女の声を聞く機会は、思いがけない形でやってきた。
 毎日遠くから眺めるのにも飽き、そろそろ店まで訪ねてみようかと沖田が思い始めた頃だ。その日朝から店は暇で、女は店先にあまり顔を出さなかった。面白くないな、と沖田が苦い顔で茶を啜ったとき、突然女が店を出て、まっすぐ茶屋へと歩いて来たのだ。
 沖田は仰天した。どうしよう、と戸惑った。何て声をかけるべきだろう。沖田はまだ、言葉を用意していなかった。
「あなた」
 沖田が言葉を探している間、女は迷わず沖田の前へとやって来て、少し尖った声を出した。思っていたより高くはなかったが、気に留めるほど低くもなかった。面白くも何ともなさそうな顔で、座ったままの沖田を見下ろす。ぱちりぱちりと長い睫毛が動くのを、呆けたように沖田は見上げた。
「ね、あなた」
「あ、……ああ、何でィ」
 二度目、呼びかけられて、慌てて言葉を返せばみっともなく少し掠れた。
 女は片眉をぴくりと上げる。怪訝そうな顔だ。
「いつも、こちらをずっと、見ていらっしゃるでしょう。何か御用?」
 思ったよりも勝気な女だったのだな、とそこではじめて沖田は知った。黒い髪と白い手と紅色の唇の他、何も知らなかったのだから当然だ。答えないままでいれば女はにこりともせず、
「御用があるなら、仰って。そうでないなら迷惑です」
「随分と、……」
 また少し、声が喉に引っかかった。余裕を持っている振りで、湯呑みに残ったぬるい苦い茶を飲み干す。
「随分と、自意識過剰なんですねぇ。俺がお前さんに、気があるとでも思ったんですかィ?」
「他に何か?」
「俺ァここの甘味が好きで、品書き全部制覇してやろうと思ってるだけでィ。通りが見えた方が落ち着くから、この席に座ってるだけで、お前さんがどこの誰だかすら、俺ァ知らねえんだけど?」
 女は一瞬唇を歪めて、慌ててまたきゅっと引き結んだ。怒ったのかも知れない。にこにこ笑ったり驚いてみせたりする顔も好きだが、こういう顔も悪くないな、と沖田は女をまじまじ見つめた。そういえば、最初に気になったのも、こういう顔だった。世の中の全てがつまらないという顔。

 そう、一番最初に気になって、好きになったのはこの顔だった。
 笑いもしない、泣きもしない、かわいげのないつまらなそうな。

 思い出すように視線を巡らせた沖田の目に、黒い髪に刺さった赤い花飾りが留まった。いつかすれ違ったときに沖田の目を奪った、ひらひらと舞う蝶のようなそれだ。
「……まあ、いいわ。そろそろお帰りになるんでしょう? もう随分と、召し上がったようだから」
 茶の一杯と団子一皿で長い時間居座っている沖田を見透かしたように女は言って、沖田の視線に導かれたように花飾りに手をやった。白い指が真っ赤な花弁に触れる。ふわり、と香った花の香りは、花飾りからではなく、女の指先から香ったようだった。
「そうだな。そろそろ仕事に戻んねえと、面倒な奴に怒られらァ」
 かたん、と椅子を鳴らして立ち上がった沖田から、女は一歩身を引く。相変わらずにこりともせず無表情に沖田の行動を見つめ、それからくるりと踵を返した。空気に溶けだす甘い香り。それに気を取られた沖田の前に、ぽとり、と花首が突然落ちた。
「あ」
 からん、と軽い音を立てて、女は店へと戻っていく。軽く結いあげられた黒い髪には、飾るものがなくなってしまっていて、そうであればやはり、沖田の前に落ちてきたこの赤い花は彼女のものだ。
「……まったく、仕方のねえ奴でさァ」
 床に落ちた哀れな花をそっと拾って、沖田は小さく笑いを漏らした。茶屋の奥へと声をかけ、女に言われた通りさっさとその場を後にする。甘味は実はそれほどうまくはないし、茶だって本当は、屯所で飲む方がずっといい。赤い花を拾ったことで、ここに来る理由はなくなっただろう。明日からはもう通うのをやめよう、と心に決めて、一度だけ後ろを振り返る。女の着物がさっと翻り店の奥へと姿を消した。

 こちらを知っているということは、彼女が沖田のことを気にしていたということだ。
 迷惑だから余所へ行ってくれ、と言わずにおれないくらいには。
 みっともなく見惚れてなどいずに、そんなに俺が気になるか、と聞いてしまえばよかった。沖田は手の中で花飾りを弄ぶ。甘い香りを持ち主に移されて、本当に花のようになったそれ。

 そうだな、次に会ったときは聞いてみてもいい。お前俺のこと好きなのか。

 手の中の花飾りに隠された白い紙片を開いて、沖田は再び小さく笑った。
「惚れた弱みってね。人遣いが荒すぎらァ」




【ここの主人は真黒です。証拠は押さえてあるので、
 踏み込んで頂いて結構です。 
 流派は自顕流。仲間の一人が拳銃を持っているので
 お気をつけて。以上。

 沖田さんへ
 見に来るのやめてくださいよ 気になって仕方がないです
 帰ったらいくらでも見せてあげますから
 もう ほんと 堪忍して!】

      (09.12.05)




夕暮さまにいただいたイラストの沖山がど真ん中すぎて沸騰したので熱を放出してみました。