人通りのない、街灯も少ない薄暗い道を一人で歩く。黒い服に黒いコートで腰には刀をぶら下げている。まったくただの辻斬りのようである。
 色素の薄い髪を誰かの血が汚していて、前髪が長いせいで視界の端にそれがちらちらと揺れた。うっとうしくてかきあげたいが、両の手は血に汚れているので叶わない。
 このまま真っ直ぐ道を辿って次の角を右に曲がって真っ直ぐ行って三つ目の角を左に曲がって…そうして進めば屯所だが、さてどうしよう。沖田は足を止めて考えこんだ。
 もちろん他に行くあてなどないのだ。
 でも今夜は帰りたくない。
 だって、こんな気持ちで帰ったら、自分の部屋には真っ直ぐ戻れないだろう。
 少し目を閉じて逡巡し、再び目を開けた沖田はそこで、街灯の頼りない光が照らす雨粒を見た。
 雨が降っているのだと、そこでようやく気がついた。


 とりあえず真っ直ぐ道を辿って、一つ目の角は右へ曲がった。その先どうしよう、どこかの角で曲がってしまおうか。考えながらゆっくり歩みを進める沖田の耳に、ぱしゃん、と水を踏んだような音が届いた。
 もちろんずっと遠くからだ。そんなに大きな音ではない。
 けれどそんな些細な音を拾ってしまうくら、沖田の神経は尖っている。
 薄暗いとは言え明りのある道、返り血を浴びた姿を見られるのは面倒だと隠れかけ、視界の端に映った人影に沖田は驚いて動きを止めた。
 ぱしゃん、と黒い靴が地面に滲んだ雨を踏んで沖田の方へとやってくる。
 返り血のせいで色を濃くした沖田のコートと揃いのデザイン。闇にくるりと動くビニール傘が街灯の光を受けてちらっと光を反射する。
 刀の代わりに閉じた傘を片手に持って、少し怒ったような顔。
「山崎」
 呼んだ声は、少し掠れた。
「傘、持ってかなかったんですか」
 黒いコートを着こんで、長めの黒髪が顔をまあるく覆ってしまっているものだから、もう本当に、その姿は黒づくめに見える。闇に溶けるようなその姿で山崎は言って、軽く眉間に皺を寄せた。
 黒づくめの中で露わになっている顔だけが白くくっきりと浮かび上がって、厳しく作られた顔が、見とれるほどにきれいだ。
 沖田は血でべたべたになった手をきつく握りしめ、掌に爪を立てた。
 だから帰るの嫌だったのに。
「雨降るって知らなかったんでさァ」
「俺言いました」
「そうだっけ」
 視線をそらしてごまかせば
「言いましたよ」
 語気を強めて、山崎が言い募る。
 拗ねているような泣いているような怒っているような不思議な声だ。山崎は沖田に対してよくこういう情けない声を出す。沖田はちょっとその顔が見れなかった。
 浅い呼吸を繰り返す。一生懸命。
「帰りましょう」
 閉じた傘をぐっと沖田に付きだして、なるべく平坦な声を作ろうと心がけているような小さな声で、山崎が言った。沖田は顔を上げられないので、山崎がどんな表情を作っているかわからない。
「いらねェよ。こんくれえの雨。つうか何なのお前、一人で帰れるって」
 ただ、呆れているのだ、その過保護さに。そういう体で、沖田は少し笑ってみせる。頼りない笑い声は変に掠れて、妙な沈黙を生んだ。
「いいじゃないですか。俺の勝手です。ほら、はやく」
「いいって」
「よくない。風邪ひいて、あんたの看病すんの、誰だと思ってんですか」
「お前に迷惑はかけねえよ」
「ばか。沖田さんが嫌がっても、あんたの看病は俺がするんです。俺以外には、させません」
 だからはやく。早口で言って、それでも動かない沖田に痺れを切らしたのか、山崎の腕が伸びて沖田の手を掴んだ。
 ずるり。
 雨のせいで固まらない血が、山崎の手を滑らせる。
「……これで傘持ったら、汚れんだろ」
 握る力が弱まったその手を振りほどくようにすれば、山崎は俯いて、小さく首を振った。
「そんなの、その服洗濯するより、ずっと簡単だから、いいんです」
「よかねえよ。つうか、いらねえって、こんくらいの雨、別に平気だし、一人で帰れる」
「だってそんなの、俺、もう迎えに来ちゃったんですもん」
「じゃあお前、一人で帰りな。俺は今日、帰らねえよ」
「どこ行くんです」
「内緒」
「沖田さん」
「どこだって、いいだろ。お前には関係ねえよ」
「……いやだ」
「山崎」
「いやです。だって、なんでそんなあんた、一人にしておかなきゃならないんだ」
 山崎のその声が少し震えていたので、沖田は掌の皮膚が裂けるくらいの力で、拳を握りしめなければいけなかった。奥歯をきつく噛みしめる。
 なんでお前が泣くんだ!
 言葉を喉の奥で無理に潰せば呼吸が上手くできなくなった。
 恐る恐る顔を上げる。
 山崎の頬は濡れていない。傘をさしているので雨からも守れらている。
 怒ったような目が真っ直ぐ沖田を射抜いていて、少しも逸らされなかった。お前だってわかんだろう、俺がどうしてこんなに頑ななのか。その言葉も、上手く音にならずに、顔を一度見てしまったら、噛み殺していた気持ちも結局全部滲んでしまった。
 手を伸ばす。
 手首を掴む。
 血でどろどろに汚れているから少し滑る。
 驚く隙も与えないで力任せに引く。
 よろめいた体を折れるほど抱きしめる。
 呆けて薄く開いた唇に勢いそのまま噛みついた。


 雨にうまく紛れられない血の匂いは少し尖っていて、身じろぎするたびに鼻孔を軽く刺激する。
 揃いのコートはきっとどちらもひどく汚れてしまっただろう。
 沖田の手を汚している血が、山崎の後頭部も汚したのだけれど、色が暗いせいでわからなかった。
 薄く目を開ける。
 山崎の睫毛の先に雨のしずくが乗っかっていて、あ、傘が落ちた。とそこでようやく気付く。
 目を閉じた山崎の睫毛が細かく震えるから、しずくは揺れて今にも零れそうだ。


(別にどうってことはないんだ、それ自体はどうってことないんだから、誰も泣くことなんてないのに、俺は悲しくないのに、どうして)
 人を殺すのは、別に嫌いでない。
 上手く殺せれば気分がいいし、そうでなければ不愉快だ。その程度のことだ。
 沖田にとって人殺しは目的ではなく手段だから、いいのだ。
 たとえばこの腕の中にいる真っ黒な獣を守れたり、沖田の世界に住んでいるやさしい人たちが泣かなかったり、幸せであったり、笑えていたり、沖田自身が刀を手放さずにいれたり、みんなで一緒にいられたり。
 先にあるものが必ずあるから、いいのだ。
 なのにどうして山崎は、
(……俺の、知らない俺の気持ちを、全部見透かして、わかってるみてえに、勝手に痛がって泣くんだ、クソ)

 腕の中で山崎は大人しく沖田の唇を受けている。乱暴に動く舌の動きに抗議することなく、懸命にそれについてこようとする。
 人を殺すのは嫌いじゃない。それは別に、いいのだ。
 けれど今夜は帰りたくなかった。帰ったら、自分に部屋に帰らずに、まっすぐ山崎の部屋に行ってしまうだろうと思ったから怖かった。遠くの足音一つ聞き洩らせないくらい神経が尖っているのだ。
 だから嫌だった。
 今だって、腕の力を緩めてあげる方法がどうしたってわからない。

「……わかったろ?」
 ようやく唇を離せば、急に流れ込んだ酸素にうまく息ができなかったのか、小さく喉を鳴らして山崎が軽く咽た。咳き込む山崎の頬に沖田の手が触れる。白い肌に、べたりと着く赤い色。
「気が立ってっから、ひどいことするから。お願いだから、先に帰ってな」
 苦しそうな呼吸を繰り返す山崎の肩が上下している。その肩に指を食い込ませて全部奪ってしまいたい衝動を、沖田は必死で噛み殺している。
 雨は少しずつ勢いを増して、光がなくたって降っているのがわかるくらいだ。落ちてしまった山崎の傘に、少しずつ雨が溜まっていく。
 はあ、と一つ大きな息を吐いた山崎が、のろのろと顔を上げた。
 肌を汚した血の色を、雨が洗い流して行く。
「すればいいじゃん」
 歯が当たって切れたのだろう、薄く血の滲んだ唇を指で押さえて、山崎が静かに、けれどもやけにきっぱりと言った。
「……は?」
「ひどいこと。すればいいじゃないですか、別に、今更、なんだっていうんです」
「山崎」
「人殺して、そんで人を抱きたくなったんなら、俺が抱かれてあげます。優しくできないってんなら、優しくしなきゃいいでしょう。沖田さんが嫌がるなら、俺は痛いなんて絶対言わない」
「……」
「あんたの心配は、俺がするんです。あんたを助けるのは俺がするんだ。他の誰にも、させません」

 帰りましょう。

 言って、山崎はしゃがみこみ、落ちた二つの傘を取る。溜まった雨を振り落として、閉じた傘を沖田の手に押しつけながら、もう意味ないですねェと緩く笑う。
 唇は切れている。沖田のせいだ。
 肌も髪も服だって汚れてしまった。沖田のせいだ。
 なのにお山崎は笑ったまま、もう一度沖田に手を伸ばした。
 ぬるりと血が滑る手を握られても、沖田は今度は拒まなかった。

 雨はゆっくりと加速して、地面を激しく叩くようになる。

 その音に紛れ込ませるようにわざと小さく、
「俺はあんたが世界で一番たいせつなんですよ」
 歌うように山崎がそんな甘い嘘をつくから、沖田はきつく目を閉じて、息を細く外に逃がして、山崎の手に引かれるまま三つ目の角を左に曲がった。

      (09.12.28)