まだ少し、視界がぼやけている。薄らと靄がかった天井を見つめる。深い夢からいきなり起こされたような倦怠感がある。
 あれは夢だっただろうか。目を閉じて、反芻をして、目を開いて、溜息を吐く。夢だっただろうか。あれは、自分の脳裏が、描き出したことだったろうか。
 色を抜いた髪が視界を過って慣れなかった。風に乱れた髪を手櫛で梳こうとすれば指が引っかかった。隊長服は、いつもの隊服よりも少し、硬くて重かった。首元のスカーフが、煩わしいような誇らしいような、妙な気分。
 夢よりずっと鮮明に覚えている。あれは、自分が願ったことだったろうか。
 向上心を糧にするというその特異な病は、本人の本質とは無関係に育つというが、本当にそうだろうか。宿主の思いを少しも映し出しはしないだろうか。もしや、宿主の知らぬ間に願っていた僅かな願望を、反映したりするのでは、ないか。
(……登りつめたかったわけじゃない。偉くなりたかったわけじゃない。そうじゃない。でも、)
 副長、といつも呼ぶ、その人に成り替わりたかったわけではない。きっと、そうではない。
 そうであったなら、まだよかった。憧れて、心酔してやまないあの人のようになりたいと、それが願望だとして叶えられたのなら、よかった。
(けれどきっと、違うだろう。あの人のようになりたいわけじゃあないんだ。俺は、あの人を守って隣にありたいだけで、それはきっと、違う。あれは、あの夢は)
 あれが夢だとするならば。
 きつく目を閉じる。きーんと静まり返った音を拾っていた耳が、廊下の軋む音に鼓膜を揺らした。
 軽い足音はいつもより重い。脳裏に思い描く通りのタイミングで足音は止まり、声もかからず襖が開いた。
「山崎」
 部屋の畳を踏んでから呼びかけられたその声に、山崎は目を開ける。少し声が、掠れている。
「沖田さん」
 寝癖のように髪を乱した沖田が、気だるそうな顔で立っていた。横たわったままの山崎に力なく笑い、沖田は山崎の隣に倒れるように横になる。
「……だるい」
「俺もだるい、です。部屋で寝てなくていいんですか?」
「あの部屋寒ィ」
「ここもそんなに、かわりませんよ」
「変わるよ。ここにはお前がいるじゃねえか」
 ちら、と伏せた顔をあげて山崎を見た沖田は、少し青褪めた顔で薄く笑った。
 それがいつもより少し大人びていて、まるで夢の続きのようだ。
 山崎は重たい体を動かして、冷たい布団の端へと寄った。沖田を招くように上掛けを捲れば、ゆっくりとした動作で山崎に近づいた沖田が、小さな声で「ありがとう」と囁く。
「吐きそう」
「動くからですよ」
「つったって、ほとんど全員ぶっ倒れてんのに、いつまでも大人しくしてられねえだろ」
「いや、ほとんど全員ぶっ倒れてんだから、何かあったときのために、はやく治さないと」
「ちゃんと食ってしっかり寝てってか。風邪かよ」
「まあ、疲労回復ですからねえ、基本は」
「寝れるかよ」
「……沖田さん?」
 いつものようにだらだらと喋っていた沖田が不意に低い声を出して、それからそっと、その冷たい指が山崎の手を探りあてた。引き寄せられて、握られる。体温が低い。沖田は目を閉じている。
「夢を見るんだ。夢の続きを、ずっと見てる」
 渇いた唇がゆっくりと動く。青白い頬に、少し乱れた前髪。
「悲しくて、虚しくて、でも少し楽しいような気がして、正しいような気がして、でもやっぱり寂しくて、間違ってる気がして、怖くて」
 山崎の手を握る沖田の指に、少し力が篭って、伸びた爪が柔く山崎の皮膚に刺さる。
「いつもみたいに、誰かが止めてくれるような気がして、叱ってくれる気がして、わくわくして、でも誰も、止めてくれない。叱ってくれない。俺は間違ってなくて、間違ってるはずなのに正しい。それが怖くて、虚しくて、……でも、お前がいたから平気だったよ」
 沖田の睫毛が少し震えて、閉じていた瞼がゆっくりと開いた。近い距離で目が合って、眉根を寄せている山崎に沖田が優しく微笑む。繋いでいるのとは逆の手で、沖田が山崎の髪に触れる。目にかかっても違和感のない、少し癖のある黒いままの髪。
「でも、夢の続きでお前は泣くんだ」
 微笑んだままそう言って、沖田は再び目を閉じた。繋いだ手を口元に引き寄せて、大事に抱え込むようにするその仕草が、少し子供じみている。
「何回見てもお前は泣くんだ。俺ァもう、嫌んなっちまった。謝っても泣くし、謝らなくても泣いてるし、どうしようもねえし、俺だって泣きてえし、もう、嫌んなっちまった。寝れねえよ。そんな夢しか見ねえんだもの。あと2年、2年経って、俺が見たいのはそんな未来じゃねえんだもの」
 ゆっくりと喋る沖田の声がまるで泣いているようだ。なのに口元は笑っている。
 笑ったままで、泣き声のままで沖田は、
「よかったなぁ」
 静かに言った。
「帰ってこれて、よかったなぁ。俺も、お前も。きっとあんなの、願望なんかじゃねえよ。だって俺は、お前をあんな風にはしたくねえもの。あんな風に、なりたかねえもの」
 よかったなぁ、ともう一度言って、沖田は渇いた唇を閉ざす。その隙間から浅く漏れる吐息が繋がれたままの山崎の手を擽った。
 沖田さん、と名前を呼ぶ。うん? といつものように柔らかく聞き返す沖田は、それでも目を閉じたままだ。
 山崎はじっとその顔を見つめる。微かに震える睫毛の先や、血の気の失せた頬や、乱れた髪や、渇いた唇。
(……いや、あれは、あの夢は、きっと俺の思い描いていた、夢のうちのひとつだろう。きっと、そうだ)
 誰かに止めて欲しくて、叱って欲しくて、間違ってるけど、嬉しくて、楽しくて、幸せな、悲しい夢の一つだ。
「……一緒にいるとこだけ、叶えばいいですね」
 繋いだ手に少し力を込めながら言った。沖田の返事は返らなかったが、唇が少し歪んだように見えた。何か言おうとしたのかも知れないし、笑ったのかも知れないし、泣きたかったのかも知れない。
 しばらくそれをじっと見つめて、山崎もゆるゆると目を閉じる。繋いだ手から体温がじんわりと滲んで伝わるのが分かる。
 眠れば、夢の続きを見るだろうか。同じ夢を見るだろうか。沖田の夢の中で、自分はまた泣くのだろうか。
 泣くだろう。沖田もきっと、泣くのだろう。
 虚しくて、悲しくて、苦しくて、けれど二人で一緒に見れる夢なら、きっと少し嬉しくて、きっとそれが、ずっと苦しい。

      (10.10.13)