ぜえぜえという音は幼い俺にとってはどんな悪夢よりも恐ろしく聞こえた。どんな類の恐ろしさだったのかはわからない。何かよくわからないものが姉を連れていってしまう、と思ったのかも知れないし、あれに罹れば俺も死ぬと思ったのかもしれない。ぜえぜえと肺を鳴らして咳き込む姉はたまに血を吐いたがそれ以外は美しく気丈で頭も悪くなく、優しく気高く良い女であった。顔色の悪さでさえその美しさをひきたてた。
俺は姉が好きであったがこわかった。あの美しさと肺を侵すざらざらとした音がどうにもこわかった。あの音に比べれば、人を斬って倒すことの方が幾分かマシだとさえ思えた。
あれは死の音だ。なすすべもなく死んでゆくしかない、死神の音。
「死ぬのか」
ぜえぜえという音を遮るように聞けば、山崎は殊更ゆっくりと目を開けて、ぼんやりとこちらに視線を巡らせた。瞼は重そうで焦点が合っていない。頬も目元も赤く染まって苦しそうだ。額に汗が浮かんでいる。
「しにません」
ゆっくりと吐きだされた言葉はあまり抑揚を伴っていなかったが、きっと怒っているだろう。なにせこの質問を俺がするのは今のでもう六回目だ。俺は肩を竦めて謝罪に代えて、かたく絞った手ぬぐいを山崎の額に乗せた。
「死ぬなよ」
重ねて言えば山崎は深い溜息を吐いて、そのまま目を閉じた。指先に触れた額は熱く、きっと本当に声を出すのも物を考えるのも苦しいはずだ。黙ってそっとしておいてやるのがきっと山崎には一番いいんだろうが、それでも俺は懲りずに口を開く。
「熱下がらねえなぁ」
「…………」
「お前、これ本当に風邪なのか? 何か悪い病でももらってきたんじゃねえの?」
「そう…んに、……でしょ」
「あ?」
「……そう、簡単に、さがるわけ、ないでしょ」
怒ったような顔だったがやはり言葉には抑揚がなかった。口から言葉を放りだすようにして言ったあと、山崎が不意に顔を顰めて、枕元にあった布を口に押し当てる。ごほごほと喉を咳が駆けあがっていく音が響いて、俺は少しの間硬直した。咳き込んだ後苦しそうにぜいぜいと喉を鳴らす山崎の背を撫でてやることもできない。
「……おきたさん、仕事、行けば」
「休憩中だよ、休憩中」
「じゃあ、談話室、行けば」
喉に絡まるざらついた音が聞こえなくなってから、ようやく俺は手を伸ばした。山崎の額から落ちかかっている手ぬぐいを直してやる。
「お前、俺のこと嫌いなの?」
笑いながら言えば山崎は重たそうな瞼を何度かゆっくりと開閉させて、それからやはり大きな溜息をついて、そのまま目を閉じてしまった。
「おきたさん、さぁ」
「うん」
「…………まあいいや。俺のことは心配しないで、戻ってください。移るし。あと、外でたとき冷ピタ買ってきて。あれなら落ちないから」
残っている僅かな体力を全部使い果たすようにほとんど一息に喋った山崎は、ざらつく咳を二、三度零して、それきりぴたりと黙り込んだ。
その後何度話かけても言葉は返らず、ついには深い寝息まで聞こえてきてしまって、俺は仕方なく山崎の部屋を後にした。空調がきいている山崎の部屋とは違い、日の光が直接差し込む廊下はひどく暑いし息苦しい。どうせなら俺も山崎の傍でひと眠りしようかな、と思って戻りかけたが、その瞬間部屋の中から小さく咳が聞こえて来て、俺は襖を開けかけた手を止めるしかなかった。
死神の足音のようなあの音。耳を塞ぐ代わりに山崎の部屋に背を向けて、俺は玄関へ向かって歩き出した。冷ピタと果物と、あと何がいるだろう。
冷ピタと果物とプリンとポカリスエットと。病人の看病のために必要な物をどさりと買い込んで俺が戻ったときも、山崎は眠ったままだった。
音をさせないようにそっと開けた襖を、音をさせないようにそっと閉めて山崎の傍らへ膝を付く。呼吸は深いが、少し苦しそうだ。時折ひゅっと喉が鳴り、ざらつくような音が零れる。
乾いて落ちてしまった手ぬぐいを横へ置き、買ったばかりの冷ピタを山崎の額に貼ってやった。ひんやりとした感触が気持ちいいのか、山崎の呼吸がわずかに楽になった、ように思う。
起こさないように慎重に、投げ出されている山崎の手に触れた。最初はそっと、指でなぞるように。それから指を絡めるようにして。
「山崎、」
呼んだ名前は小さすぎて、俺自身の耳にも上手く届かなかった。山崎になんて聞こえてもいないだろう。けれどそれでいい。起こしたくない。起こすときっとまた、山崎は怒る。うんざりして、呆れてしまう。俺がこんなに怯えていることに。
絡めた指に唇を押し当てて、俺はもう一度山崎の名前を呼んだ。
そう、これは山崎だ。病に冒されてなすすべもなく死んでいった姉上じゃあない。そしてこれは、決して死に至るような病ではなく、ただの風邪なのだ。すぐに治る。
ああけれど最初はお医者もそう言ったのだ、すぐに治るとそう言って、たくさんの薬を姉に飲ませたのだった。
姉は言われた通り従順に、毎食のあと薬を飲んだが、それは別に病を打ち消したりしなかった。姉は当然その薬が、病を打ち消すものではないと知っていたのだろう。幼い俺は素直に、そう、今よりずっと素直に、その薬が姉を治してくれると信じていたのだ。
山崎はどうだろうか。
これはただの風邪だろうか。
すぐに治るだろうか。本当に?
ざらつく音は肺を犯してその命を奪いはしないだろうか。
肌を青白く染め、唇を血で濡らし、その心臓を止めてしまうことは、ないだろうか。
俺を置いて行くことは、―――――……
「……おきた、さん」
いつの間にか強く握りしめていた山崎の手がぴくりと動いて、乾いた唇が音を零した。
はっと我に返った俺は山崎の手から力を離し、まだ重たげな瞼を薄く開く山崎へ視線を向ける。
「悪ィ、起こしたな」
「いいえ……」
「どうだ? しんどいか?」
「…………夢を、」
「え?」
汗で濡れた山崎の髪をかきあげる俺の動きを山崎の視線が追う。渇いた唇から零れる音は掠れていて、聞き取りづらい。喉も渇いただろうと、買ってきたばかりのポカリを差し出せば山崎はしばらくそれをじっと見つめて、それから微かに笑った。
「……夢を見ましたよ。おきたさんの」
「どんな?」
まだ辛そうな山崎の背に腕を差し入れ体を起こしてやれば、山崎は遠慮することなく俺に体重をかけてくる。それが心地よくて、嬉しい。甘えられているのは俺の方のはずなのに、許されている気分になる。
ポカリのキャップを外して差し出せば、両手で受け取った山崎はこくこくと喉を鳴らしてそれを飲んだ。口の端から零れた液体が、顎を伝って布団の上へ落ちる。
「……おきたさんさぁ、俺のこと、だいすきですね」
濡れた顎を指で拭ってやれば、小さく笑って山崎が言った。返されたペットボトルを受け取りながら、俺はどう答えるべきか迷う。
「夢の中でも、おきたさん、ないてましたよ」
「俺が? 何で?」
「おれがしんじゃって」
ふは、と笑ったその笑い声は、そのすぐ後に小さな咳に変わった。腕の中にその体を抱えているせいで、ぜいぜいとした音が俺の体にまで伝わる。美しく悲しく姉を奪った音。
「……死ぬのか」
「ゆめの中では、ね。死んじゃいましたけど」
「俺を置いて?」
「……そうやってあなたが泣くから、おれはまだ、しねないんですよ」
熱っぽい山崎の手がゆっくりと俺の頬へ伸びる。
知らず泣いているのかと思ったが、別に涙は零れていなかった。鼻の奥だって痛くないし、目頭だって熱くない。顔も歪まなかった。なのに山崎は涙を拭うように指先で俺の目の下に触れ、それから笑った。寂しそうに。
「沖田さん、寂しがりだから、俺だけは死ねないなぁ」
「死ぬなよ」
「泣きます?」
「…………」
「泣かないでね。おれが死んでも……いつか、最後になっちゃっても、」
けほ、という小さな咳が山崎の喉から零れる。
背中を軽く叩いてやってから、俺は山崎の体を布団へ戻した。冷えないように肩までしっかりと布団をかけてやれば、山崎が目を細めて微笑む。
「でもまだ、しなないから、安心してください。これはただの風邪で、おきたさんの買ってきてくれた冷ピタと、ポカリと、他のいろんなもので、すぐに治りますから」
「山崎」
「それでも心配なら、……ねえ」
甘えたような声とともに山崎の手が伸びて、俺の服をつんと引っ張った。されるがままに体を寄せて、声を聞くために顔を近づければ、いたずらを思いついた子どもの顔で山崎が口を開く。
「キスしてください。移してあげる」
子どものような笑顔で、大人のような声音でそう言って山崎は、笑むように目を閉じた。小さな咳が唇から零れて空気を揺らす。俺は僅かに体を硬直させて、横たわる山崎を見つめた。
泣くだろうか。こいつが死ねば。
姉を喪ったときのように泣くだろうか。それとも、恐ろしすぎて、涙も流れないだろうか。
俺は山崎の手を握って、小さく咳を零す唇に顔を近づけた。触れた吐息に山崎が目を開く。驚いたような顔。
「……いいんですか?」
「何が?」
「移りますよ……?」
「移せば治るかもな。移したいんだろ?」
「でも、」
「何だよ」
「…………」
「死ぬような、病じゃねえんだろ。それに」
熱い頬に掌を添えれば、山崎は困惑したまま目を閉じた。薄く開いた、乾いた唇へ俺はそっと唇を寄せる。山崎の吐息が俺の呼吸と混ざって、俺の口内に入り込んで、肺の隅まで侵す。
「……死ぬような病だったら、俺も一緒に、死んでやるから」
例えようもなく恐ろしい死の音が、再び山崎の肺をざらざらと侵して、今触れたばかりの唇から大きな咳を零した。抱き締めるようにして背を叩く。山崎の手が躊躇いがちに俺の背に伸びた。
「あのね、」
「うん」
「……さっき邪魔にしたけど、ほんとうは、起きた時に、沖田さんがそばにいてくれて、うれしかったんです、よ……」
はやく治ればいいのになぁ。
小さく呟いて、それきり山崎は黙った。時折ひゅーひゅーと喉が鳴り、そのたびに山崎の指が俺の服を強く掴む。
なすすべもなく無情に全てを奪う、死神の呼吸に似た音が山崎の体を侵していく。幼い俺はこの音が、本当に本当に怖かったのだ。
「死ぬなよ、山崎」
触れた頬が、熱い。
姉の肌は悲しい程に青白かったことを思い出す。
「……俺を、」
腕の中で力を抜いている山崎の体を少し抱き寄せ、俺は目を閉じた。汗ばむ体。鼓動が速い。病なんていくらでももらってやるから、だから、俺をおいていかないで。