朝飯も出ないうちから出かける用があったので誰にも言わず台所に立って自分用の飯を作っていたら、後ろから「山崎」と物憂い声をかけられた。
「え、あ、沖田さん。どうしたんですか、こわい顔して」
暖かい日和だが、明け方の水はまだ冷たい。濡れた手を布巾で拭いた山崎は口を引き結んで黙り込んでいる沖田へと振り向き、軽く首を傾げた。
「起こしました? うるさかったです?」
「いんや」
「腹でも減りましたか? 握り飯くれえしかありませんけど」
食べますか? と握ったばかりの握り飯を示して見せるが、沖田は黙りこくったまま首を振るばかり。何かあったのだろうか、と戸惑いと心配が半分ずつで、山崎は眉を下げる。
きゅ、ときつく、沖田が唇を噛んだ。
泣き出す前のようだった。
「え、え、沖田さん?」
「山崎」
「あ、は、はい」
「俺は泣かなかった」
「……え?」
唇を、よほどきつく噛んだのだろう。真っ赤に腫れてしまったそれをゆっくりと動かして、沖田はやっと言葉を紡ぐ。ひらがなで書かれた文字を子供が懸命に読むように、はっきりと。
「俺は、泣かなかったぜ」
「な、何がです?」
泣くような何かがあっただろうか。
自分と沖田は何か賭けでもしていただろうか。
いやそんな、まさか。
戸惑う山崎に、ぎこちなく沖田は笑ってみせた。それからすい、と山崎の横を通り抜け、握られたばかりの少しいびつな握り飯をそっと手に取る。
「あちっ」
「まだ熱いですよ。気をつけてください」
「こんなんよく握れんなぁ」
「慣れですかね。沖田さんも作ってみます?」
「いんや、いい。これ、くれ」
「いいですけど……」
「仕事?」
「はい」
「密偵?」
「内緒」
「そっか」
熱い、握りたての握り飯を、笑いながら沖田は口にした。熱ィ、と言って顔を顰めるので、言ったでしょう、と山崎は呆れる。呆れながら、沖田の顔色を窺った。
寂しそうな顔をしている。
やはり、泣きだす前に少し似ている。
「……沖田さん」
「ん?」
「怖い夢でも、見ましたか?」
恐る恐るの山崎の問いに、口いっぱいの握り飯を頬張った沖田は間の抜けた顔で首を傾げた。何が? と不明瞭な声で聞く。
「飲みこんでから喋りなさいな」
「ん、ん、だって、お前が聞くから」
「だって沖田さんおかしいんだもん。怖い夢でも見ましたか?」
何で? と薄く笑いながら、沖田は指についた飯粒を舌で掬いあげた。
寝癖のついた色素の薄い髪が、その頬を隠して表情を曖昧にさせる。それが山崎には少し、こわい。どうしよう、と途方もない気持ちにさせる。
思わず手を伸ばしたが、沖田の手は掴めなかった。ごっそさん、と手を合わせた沖田は、山崎の傍から逃げるように身を翻してしまう。
「沖田さ、」
「お前さぁ」
山崎から離れた沖田はそのまま戸棚を漁り、見つけた茶葉を急須に入れ始めた。沸かしたばかりの湯をこぽこぽと注ぎ、ゆるく回す。背中。それだけ、山崎から見える。
「俺が泣くのが、嫌なんだろ」
そうして顔を見せないままでやはりぼんやりとしたことを言われて、山崎はもう、泣きそうになってしまった。
「ねえ、何の話ですか、さっきから。何があったんです」
「お前が最初にした話だろ」
「だから、いきなり言われてもわかりませんってば。俺沖田さんと、そんな話、しましたか」
「したよ」
「いつ」
「ずっと前」
「ずっと前っていつ」
「お前がこわくて眠れなかった晩に」
いつの間にか、沖田は茶を二つの湯呑みに注ぎ終わっていて、その一つを手に取り、「飲む?」と山崎を振りかえった。顔が見えたことに安堵して、山崎はほっと息を吐く。いただきます、と手を、湯呑みに伸ばして、その指先が湯呑みに触れる直前で、熱湯が、皮膚に跳ねた。
「あ…っ、つ…!」
湯呑みは沖田の手から離れ真っ直ぐ床に落下する。沸騰してまだ間もない湯を撒き散らしながらだ。代わりに山崎の手が、沖田の手の中に収まっている。熱い茶は沖田と山崎二人の足元へ飛び散った。痛みに近い熱、じりじり痺れる。
「ちょ、何して、」
「お前が死ぬ夢を見た」
静かな声で、沖田が言った。
空になって転がった湯呑みが壁にぶつかり、鈍い音を立てる。
「お前が死ぬ夢を見た。夢の中で俺は泣かなかった」
泣きそうに、沖田の目が揺らいだのが、山崎の網膜にやけに鮮明に映った。
「起きたって、泣かなかった。思い返しても、泣かなかった。俺は、お前が死んでも、泣かなかったよ」
「……沖田さん?」
「だから俺はお前のこと忘れてなんてやんねえから」
その言葉に「あ」と言葉を零した山崎に、沖田は少し唇の端を上げた。
得意そうな顔だった。
「ずっと、一生、覚えておくから。お前が死んでも、ずっと」
「…………」
「大丈夫だよ」
怖くて眠れなかった夜、俺が死んだら忘れてくださいと無茶な我儘を言ったことを思い出した。
自分が死ねば、優しい沖田はきっと泣くので、泣くくらいなら忘れて欲しいと眠りの淵で懇願した。
もうずっと前の話だ。山崎自身が、それを忘れてしまうほど。
「ずっと、……」
「うん?」
「ずっと、覚えてたんですか。約束」
「約束じゃあ、ねえけどなァ。お前が一方的に我儘言って、俺が嫌だっつっても聞き入れなかったってだけの話で?」
「それを今更?」
「夢見たって言ったろ」
微かな苦笑を零して、沖田は山崎の手を離した。しゃがみ込んで、転がってしまった湯呑みを広い、勝手口にかかっていた雑巾で濡れてしまった床を拭く。その間、山崎は立ちつくしたまま、上手く言葉を紡げなかった。
「……お前が死んでも、泣かなかったよ。起きて思い返しても泣かなかった。代わりにすげえ、痛くて、苦しくて、死ぬかと思った」
立ちつくす山崎から、沖田の表情は見えない。
冗談のように笑っているのか、泣き出しそうに歪んでいるのか、あるいはもう、泣いてしまっているのかさえ。
「本当に夢だったか心配になって、探しちまった。夢でよかった」
「沖田さ、」
「だから死ぬなよ。俺が死んじまう」
「……だから」
「忘れてなんかやんねえよ。忘れられねえよ。ずっと痛くて苦しいんだぜ?」
泣くよりひでえよ。忘れるなんて無理だ。
笑い声混じりに言って、沖田は立ち上がった。山崎に背を向けて、汚れた雑巾を流しで洗う。
「お前、次の仕事、すっげー危ないだろ」
「え」
「俺を舐めんなよ? お前の彼氏だぜい」
何でも知ってらァ、と笑いながら、雑巾をかたく絞って蛇口をきゅっと閉めた沖田は山崎を振り返り、少し困ったような顔をした。濡れた手で、動けない山崎の前髪をつんと引っ張る。
「お前が死んだら俺は苦しくて苦しくて死んじまうから、お前は絶対生きて帰ること。でも」
前髪の代わりに今度は手首を引っ張られ、引き寄せられるまま山崎は沖田の腕の中へ収まる。抱き締めるよりずっと優しく、ふわりと腕の中に囲われて、山崎は両目を瞬いた。
「でも、もし、万が一、どうしてもどうしようもなくて、お前が死んでも、俺は泣かないしお前を忘れてやんねえから、大丈夫だよ」
それだけ言いたかったんだ。
耳元で低く囁いて、沖田は山崎から体を離した。に、と口の端をあげ、子どもにするように山崎の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「気を付けて行ってきなせえ」
抱き締めたら行かせられなくなるから、と笑って沖田は台所から出て行った。山崎はまだ呆然としたまま、冷えてしまった握り飯を見つめる。
はやくこれを食べてしまって、いくつか残ったものは包んで、そして早く出かけなければならない。誰にも内緒の任務があるのだ。命を賭けた仕事なのだ。
「……ばぁか。逆効果です、沖田さん」
山崎はその場へずるずると座り込み、両手で顔を覆って呻く。こわい顔。泣きだしそうな顔。自分まで死んでしまうという、その言葉。
(俺を忘れないまま、あんたが死んでしまうって言うなら、俺はあんたを置いて死地に赴けるわけがないじゃありませんか)
(それでも、)
泣かないでいてほしくて苦しまないでいてほしくて、けれど本当は忘れて欲しくなんてなかった山崎の心を全部見透かして大丈夫だと言う、その、言葉が、
「……好きです、沖田さん」
愛しくてもう、呼吸が止まってしまいそうで、浅ましくってごめんなさい。