真っ青な空に大きな雲が浮いていて、真っ白な雲にできる灰色の影。
天気が良くて、風は熱くて、台風の近い、そんな日の。
ギィ、と錆びた音を立ててドアが開いた。山崎はその音にびくびくして、こそりと辺りを見回す。人気のないことを確認してから、今度は大きくドアを開けた。
眩しい日差しが一気に入って来て、目がチカチカする。
誰かが来ないうちにと慌ててドアの外に出て、ギィ、と音を響かせながらしっかりとドアを閉めた。ガチャンと、思いがけず大きな音がして、山崎はもう一度びくりと辺りを見回した。
目に入るのは、青と白。
焼けたアスファルトの照り返しがじりじりと暑い。
鼻の頭に浮いた汗を拭って、山崎は辺りを見回した。人気のないことを確認するためではなく、今度は人を探すために。
熱い熱いアスファルトの上には姿を見つけられず、くるりと見回した先にあった給水塔の裏に駆け寄った。
目に入るのは、青と白と、そして黒。
「高杉先輩」
「……だから先輩禁止だって言ってんだろ」
閉じていた目をゆるりと開けて、影で寝転んでいた高杉は山崎をじろりと睨みつけた。探し人を見つけた山崎はほっとして少し笑い、寝転ぶ高杉の隣にしゃがみ込む。
「もう、何なんですか。いきなり呼び出して」
「敬語も禁止だって言ってんだろ」
「……。つーか、いきなり屋上に来いとか。授業中だし、第一俺、屋上に入るの初めてですげービビったんスけど。一応風紀委員なんですよ、これでも」
「良かったじゃねーか。屋上デビューおめでとう」
唇を尖らせる山崎をちらりと見て、高杉は身体を起こす。そのままじっと見つめられ、山崎は視線を左右にさ迷わせた。顔を、覗き込まれるようにされるので、逃げ場がない。
どうしよう立ち上がろうかと山崎が思案している間に、高杉の腕がしゃがんだままの山崎の腰に絡みついた。
「うっ……わっ!!」
勢いでバランスを崩し、後ろに倒れこんだ山崎の足の上に頭を乗せ、高杉は再び天を仰ぐ。不自然に崩れた足に寝心地が悪いのか、山崎の足をぺしりと叩いた。
反射的に足を揃えてしまった山崎は、揃えた後で気付いてはっとする。もう遅い。
「…………なんですか、これ」
「敬語禁止」
「…………何、これ」
「膝枕」
「そういうこと聞いてんじゃねーよ!」
山崎の抗議に煩そうに視線をちらりと向けて、高杉はわざとらしく溜息を吐く。
「いいじゃねーか、減るもんじゃなし」
「減るわ! なんかいろいろ減るわ!」
「うっせーなァ。黙って枕に徹してろよ」
言い捨てて、そのままごろりと横を向く高杉の髪が、山崎の膝に広がった。
膝にかかる重みに何故かそれ以上は何も言えず、山崎は仕方なく高杉の髪を柔らかく梳いた。
耳に掛かった眼帯の紐が、黒に映える白で目に痛い。
それにそっと触れて、山崎は目を伏せた。
左目を隠す眼帯の、その下に隠された傷と戻らない視力。
「……ごめんなさい」
ぽつり、と零した山崎の言葉に、高杉がゆっくり目を開ける。撫でるように眼帯の紐に触れる山崎の手を掴めば、山崎の身体が強張るのが分かった。
手を握ったまま、再び身体の向きを変え高杉は下から山崎を真っ直ぐ見上げる。
やんわりと、眼帯から山崎の手を離して。
膝に広がる黒髪に、白く映える左目の眼帯。右目だけで射抜かれて、山崎は身動ぎもできなかった。
じわり、と背中に汗が滲む。
「なあ」
「…………」
「何で、俺のこと名前で呼ばねェの?」
「え、……」
自分の言葉に、あるいは自分の行為に何かを言われると身構えていた山崎は、予想もしなかった高杉の問いに間の抜けた返事を返す。高杉は山崎を真っ直ぐに見つめたまま、再び同じ問いを口にした。
「昔は晋助って呼んでたのに、何でずっと、俺のこと名前で呼ばねェの?」
「そ、れは……」
「中学入って……は、まだ普通だったな。俺が引越しした辺り? 高校に入った辺りか?」
「…………」
「高杉先輩、なんて他人行儀な呼び方。最初は俺なんかとつるんでたら目ェ付けられるからかと思ったが、そういうわけでもなさそうだしな。お前が俺を名前で呼ばない理由、」
ぴたりと射抜く、右目の黒と、黒に映える、左目の白。
「俺がお前を助けたことに、何か関係あんのか」
息を呑んだ山崎の顔が、泣きそうに歪んだ。握られた手を取り戻そうとして足掻き、更に強く握られる。膝の上に頭を預けられ、立ち上がることも出来ない。せめて顔だけでも、と思ったが、山崎は視線を逸らすことが出来なかった。
吹き抜ける、風が熱い。
「……関係、ありません」
震える声を深呼吸でいくらか誤魔化して、そうして告げた返答に高杉は表情を動かさなかった。山崎の中に答えを探すように、真っ直ぐと見つめる視線が痛い。
「関係、ない。ただ、先輩と後輩のケジメはちゃんと付けようって、思っただけです」
「へえ」
「高校生にもなって、昔近所にいたお兄ちゃんに懐いてるなんて、おかしいでしょう」
「へえ」
「……それだけ、です」
「あ、そう」
突然、高杉は興味を失ったように再び横を向き、目を閉じた。その変化に慌てた山崎は、しかし自分の手が未だ解放されていないことに気付く。
「あの……」
「何」
「手……」
「あ?」
「手……握ってたら、寝づらくないですか……?」
答えの変わりに握られた手に、強く力が篭った。
「ケジメ」
「は?」
「ケジメなら、もういいだろ。クラスメイトに敬語使ったり先輩っつー方がおかしいだろ」
「…………」
「名前」
「え」
「呼べよ」
「…………」
握られていた手が少し離れて、山崎が疑問に思うよりも先に今度は指を絡め取られた。
一方的に手を握られているよりもずっと恥ずかしく、ずっとぎこちない、そのつなぎ方に、山崎は下唇を噛む。
答えない山崎をどう思ったのか、絡んだ指に軽く力を入れられた。
「退」
顔が見えないまま低い声で名前を呼ばれ、山崎は俯いて眉を寄せる。
そんな山崎の様子も知らず、高杉はアスファルトを見つめたままもう一度、退、と呼んだ。
答えず山崎は、絡んだ指に少し力を込めて、空を仰ぐ。
青の空に白の雲が浮いていて、大きな雲には灰色の影。
アスファルトを見つめて。空を仰いで。絡まない視線の変わりに指を絡ませたままの二人の間を、湿気を孕んだ熱い風が、ふわりと優しく吹き抜けて行った。