高杉のいつも付けている眼帯の下、左目の上には、未だ癒えない傷がある。
 丁度、目に対して十字になるような形でざっくりと抉られた傷は、跡を残して視力を奪った。完全に失明したわけではないが同じようなもので、使い物にならないから眼帯をして覆ってしまっている。
 もう5年も前のことだ。
 5年も前のことだし、最初は煩わしかったがいい加減慣れもした。そもそも自分で納得して負った傷なので、誰を恨むようなものでもない。片目一つで守れたものがあるならばそれで良かった。
 だから、気に病む必要なんてないのに。
 だから、離れる必要なんてないのに。




「退」
 名前を呼ばれてぴくりと反応した山崎は、広げた本に視線を落としたまま、
「高杉先輩……」
 と小さく返した。
 静まり返った図書室に残っているのは山崎と、司書教諭しかいない。窓の外はまだ明るいが、帰らなければならない時間になっていることは分かっていた。
「帰らねーの?」
 何で先に帰ってくれなかったんだ、と詰る言葉を頭の中で。諦めて本を閉じ、山崎はやっと顔を上げる。苛立つでもなくからかうでもなく、さも当たり前のように高杉がそこに立っていて、山崎の言葉を待っていた。
「何で、ここにいるってわかったんですか?」
「鞄がないのに靴はあるから、まだ残ってるんだろうと思って探しただけ」
「……わざわざ?」
「わざわざ。帰らねーの?」
 さも、当たり前のように問う高杉に、山崎は溜息を飲み込んだ。
 先に帰って欲しかったから、こんなところに来たというのに。広げた本は広げているだけで、内容はまったく頭に入ってなどいなかった。
 当たり前のように一緒に帰るのが嫌で、先に姿を隠したのに。
 立ち上がらない山崎を急かすでもなく、高杉は窓の外を眺めている。その左目を隠す眼帯を見れば心がつきりと痛むのは、もう癖のようなものだ。
「何で、」
 何で俺を、探しに来たの?
 聞こうと思って途中でやめた。聞けば、どんな答えが返って来るのかわからず怖かった。返る答えに自分がどう反応すべきかが分からず怖かった。
 不自然に言葉を切った山崎を少し見つめて高杉は一言、「帰るぞ」と言った。
 帰ろう、ではなかったけれど、促されてるんだろうなぁと思って仕方なく山崎は立ち上がる。本棚に本を返しに行くその間、自分のことを真っ直ぐに高杉が見つめていることに山崎は気付いていた。

 いつも真っ直ぐに見る人だ。
 こちらの嘘など一つも通じないようで、何もかも言ってしまいたくて、怖い。

 本を仕舞って小走りに駆け寄る山崎の髪に、ふわりと高杉の手が乗った。髪を一房指で絡め、ひどく優しい顔をして
「帰るぞ」
 一言。
 踵を返した高杉の3歩後ろを付いて歩きながら、赤くなっているであろう顔を冷まそうと山崎は両手で頬を覆った。


 ぱたんぱたんと廊下に二人分の足音が響く。
 時折、上履きが引っかかってきゅっと音を立てる。
 前を歩く高杉の背中を後ろから眺めながら、昔はいつもこんな感じだったなぁと山崎は忍び笑いを漏らした。
 昔は。それこそ小学生のときなどは、いつも高杉が前を歩いていてその後ろを山崎が懸命に付いて歩いていた。時々、遅れたりつまずいたりする山崎を振り返って、

「……何、ですか?」
「別に」

 こんな風に。

 何でもない風を装って、いつも傍にいてくれた人。隣の家に住む幼馴染のお兄ちゃんで、強くて賢くて憧れていた人。

「……なぁ」
「はい?」
「俺は優しくないから、」


 好きな人。どうしようもなく。


「お前が嫌がっても、一生離れてやるつもりなんてないけど」
「…………?」
「もし、お前が、本当にどうしても嫌だって言うなら」

 足を止めた高杉の上履きが、廊下に擦れてきゅ、と音を立てた。
 振り向くかと思って身構えた山崎の予想は外れ、高杉は前を向いたまま静かに喋る。
 低く響く、真っ直ぐな声。いつだって凛とした、迷わない声。

「名前一つ呼べないくらい、嫌だって言うなら」

 人気のない廊下に、二人分の気配だけしていて、低い声だけが山崎の耳に届く。
 突然のことに、山崎は身構えて唇を噛んだ。何を言われるのか、恐ろしかった。
 落ちる沈黙。ここで何かを言わなければいけないのだと分かっていて、山崎の口は開かない。
 名前や言葉遣いの些細な一つに拘って、何をいきなり深刻な声音で言い出すのだと笑い飛ばせばそれでよかった。笑い飛ばして駆け寄って、背中を叩いて、いつものように笑って見せればそれでよかった。
 できていた。ここ最近はずっと、きちんと普通にできていた。
 できるのだと思っていた。普通の距離で、「仲良し」に戻れるのだと思っていた。

 あまりに声が、優しいので、怖くて口が開かない。

 名前一つに拘って。
 距離を不用意に縮めるのが、恐ろしい。


「お前が嫌なら、やめるわ。もう」


 お前を困らせるために留年したわけじゃねーし。
 そう呟いて、再び高杉は歩き出した。止まっていた時間が動き出したように唐突な動きだった。切り取られて今の少しの時間がなかったかのように、すたすたと歩いて行ってしまう。
 その背中を見るめる山崎の足が動かなかった。
 廊下に張り付いてしまったかのように、少しも前に進まなかった。
 歩いて行ってしまう高杉との距離がどんどん開いていく。山崎が後ろを付いて来ないことに気付いていないわけはないのに、高杉が立ち止まらないことが山崎を不安にさせた。
 昔のように立ち止まって、何気ない風に呼んでくれたら。

「あ……そうか……」

 昔のように戻りたくなかったのは山崎自身で、高杉はそんな我侭すら、尊重してくれる気でいるのか。


 高杉のいつも付けている眼帯の下、左目の上には、未だ癒えない傷がある。
 ざっくりと抉られた傷は、跡を残して視力を奪った。
 気にするな、と高杉は言って、痛くないから、と何度も言った。
 何度も言って、怪我一つしていないくせに泣く山崎の頭を何度も何度も撫でた。
 庇われたくせに泣きすぎて、ごめんなさいも言葉にならなかった。

 高杉は優しいから、あまりにも優しすぎるから、だから。と山崎は唇を噛む。
 だから、傍にいてはいけないのだ。
 あまりにも優しすぎるから、自分のせいで傷をつけてしまう。それでもいいと笑ってみせる高杉を、どうしようもなく好きだと思ってしまうから。
 だから、近くにいてこれ以上好きになってはいけないのだ。
 好きになって、傍にいたら、きっとあの人は自分を守ってしまうから。

 留年したと聞かされて複雑で、でも大丈夫だろうと思っていたのに、距離を置いていた空白の時間を埋めるかのようにやはり高杉が優しいから、だから名前も呼べないのだ。
 昔のようになんて、傍にいたらいけないのに。


 前を歩く背中がもう随分と遠かった。
 付いていかない山崎を一度も振り返ることなく、高杉が廊下の角を曲がりかける。
 山崎の足が、張り付いたように動かない。
 振り向いて、いつものように、昔のように、気遣って欲しいと思う自分が浅ましく、情けなく、疎ましく、背中を見つめる視線が徐々に足元へ下りていく。
 心地よい距離感を楽しみたいと、思っていた自分の我侭が悪いのだ。
 泣かないように舌を噛んで。




「退、お前、何やってんだ」




 響く声に勢い良く顔を上げた先、呆れたような顔をして振り返ってこちらを見るその人。
 驚きに大きく開けた目から転がるように涙が落ちて、頬を掠めて廊下に弾ける。それを見て驚いたのは高杉で、随分と開いてしまった距離を足早に詰めた。
「おま、何泣いてんだ?」
「な……いてない……」
「泣いてるよ。あーもう、何だお前」
 一度溢れたら止まらなくなってしまった山崎の涙を、高杉が制服の裾を引っ張り上げて乱暴に拭う。ごしごしと擦られて痛さに身体を引く山崎を、高杉が心底呆れたように見つめた。
「だから、もういじめねーって言ってんのに、なんで泣くかな」
「…………泣いてない」
 強く擦られたせいで赤くなった目元のまま、山崎が高杉を睨みつける。
 その頭をふわりと撫でて、高杉は笑った。
「泣いてても泣いてなくても、高杉でも高杉先輩でも、何でもいいわ。お前が好きなようにすれば」

 ほら、こうやって、この人は。

「何でもいいが、さっさと帰らねェと日が暮れるぜ」

 いつだってこちらを甘やかす。

「退?」
「…………俺は……」
 優しく向けられた瞳に返す言葉が見つからず、山崎は言葉を詰まらせる。ごめんなさいは絶対に違うけれど、ありがとうとはまた少し違う。ひどい人だと、詰りたいのだ。本当は。
「……痛かった?」
 手を伸ばして山崎は、そっと高杉の左目に触れた。
 白い眼帯のその上を、掠めるような曖昧さで撫でる。
 それを咎めるでなく払うでなく高杉は、右目だけを優しく細めて、
「痛くなかったぜ。だから」
 もう泣くな。

 呆れたように、からかうようにそう言って、眼帯に触れていた山崎の右手を絡め取る。そのまま握って歩き出した高杉の隣に、山崎はつんのめるようにして並んだ。
 ぱたんぱたんと二人分の足音が、廊下に響く。
 繋がれたままの手を振りほどけず、かといって握り返すことも出来ず、成されるがままで隣を歩きながら山崎は足元に視線を落としながら唇を開いた。

「晋助」

 小さく呟いたはずの声が、人気のない廊下に存外響いてうろたえた。
 繋がれた手がいっそう強く握られて、よくできました、と、笑混じりの声が聞こえた。







九妙と被っているようで真逆のような
      (08.07.23)