クーラーのガンガンに効いた部屋で、何故か正座をしております。
 目の前には、97と赤字で書かれたテスト用紙があります。
 部屋の持ち主はキッチンで飲み物の準備をしているようです。

 山崎は深く溜息を吐いた。




   +++




「追試?」
「追試」
 いつの間にか当たり前になってしまった二人での下校中、高杉から告げられた夏休みの予定に山崎は眉を顰めた。
「何で」
「何でって、そりゃあ赤点だったからだろ」
「俺ノート貸したのに」
 むっとする山崎の頭をくしゃりと撫でて、高杉は「悪ィ」と少し笑った。
「まあ追試の前に補習だけどよ」
「受けるの?」
「そりゃ受けなきゃしょうがねーだろ」
「そうだけど……なんか、高、……晋助がそういうの真面目に受けてるの想像できないっていうか」
 高杉先輩、と呼びかけて慌てて口を押さえた山崎を高杉はチラリと見て笑う。
 それに拗ねて顔を背けた山崎にますます笑って、高杉は中身の入っていない薄い鞄を持ち直した。
「受けたかねーが、受けなきゃ卒業できないからな」
「そうだけど」
「安心しろ。一緒に卒業してやるから」
 ふわり、と笑った高杉の笑顔に山崎は一瞬見惚れるように言葉を失う。そんな山崎には気付かずに、高杉はあちーなぁ、と空を仰ぐ。と、何か思いついたように楽しそうな顔をした。
「あ」
「何?」
「追試の」
「うん」
「結果が夏休み中に出るんだけどよ」
「うん?」
「いい点取れてたら、何かくれ」
「……は?」
 突然の提案に山崎は足を止める。
「ご褒美。退から」
「……なんで?」
「何でってお前、……何引いてんだよ」
「いや、引いてるっていうか……なんで?」
「張り合いがあった方がいいだろ。こういうことには」
「だからって何で俺が……」
「退が一人じゃ寂しいからと思って一緒に卒業してやろうとしてんのに」
「馬鹿じゃないの。勝手に留年したくせに」
 高杉の言葉に呆れて、止めていた足を動かした山崎とは反対に、今度は高杉の足が止まる。突然立ち止まった高杉の背中に首を傾げ、声をかけようと口を開いた瞬間、高杉は首だけで山崎を振り返った。
 真剣な顔。
 何かを躊躇うように唇を開きかけ、閉じる。いつにない高杉の様子に山崎が困惑していると、高杉は薄く笑った。ふ、と吐息を漏らして、困ったような顔をする。
「もし、」
 細めた右目が、眩しいものを見つめるように山崎を捕らえる。
「俺が留年したのがわざとだって言ったら」
 視線が絡んで、山崎の心臓が不自然な動きをする。
 抑えるために静かに深く呼吸をする山崎を見つめたまま、高杉の唇がゆっくりと、どうする? と動いた。
「え、……」
「……なんてな」
 ふ、と唇を歪めて、高杉は何事もなかったかのように前を向き直った。四歩歩いて振り向き、止まったままの山崎に「行くぞ」と声をかける。
「う、うん」
 ともすればアスファルトに縫いとめられそうになる足を動かして、山崎は高杉の隣へと並んだ。顔を見たいが、この近さで顔は見れないなあと思って、足元へ視線を落とす。常ならば気にならない沈黙が妙に痛くて、山崎は懸命に話題を探した。
 そんな山崎を一瞥して、高杉は小さく溜息を吐く。
「8月10日」
「え?」
「追試の結果が返ってくるの。8月10日」
「……8月10日って、晋助の誕生日じゃあ」
「そ。だから、お前俺んち来い」
「は?」
「そんで、祝え」
「……いい、けど」
「もし、いい点取れたら、」
「うん」
「ご褒美な」
「それは、誕生日プレゼントとは違うの?」
 どうしてもご褒美を欲しがる高杉が子供のようで、山崎は小さく笑う。やっと笑った山崎に高杉も笑い返して、
「一緒でもいいけど、俺が欲しいものくれよ」
「いいよ。何?」
 そこで高杉の笑みがふっと消える。
「……え、なに」
「俺の欲しいもの」
 す、と高杉の手が伸ばされる。
 鞄を持っていない左手が山崎に伸びて、その頬にゆっくりと触れた。
 輪郭をなぞるように滑った指が、首に掛かる長い髪に絡まる。
 汗ばんだそれを指の隙間から零して、高杉は真っ直ぐ山崎の目を覗き込んだ。
 思わず身体を引きかける山崎の首を一撫でして、首の裏に手を添えたまま、高杉はゆっくりと顔を近づける。
 思わずぎゅっと目を閉じて唇を引き結んだ山崎の頬に、ふわりと温もりが触れた。
 くすりと笑う声がして、山崎は閉じていた目を開ける。
 からかわれたのだと思って抗議をしようと口を開きかけたが、近くにあるままの高杉の目が真剣で、結局は口を閉ざしたまま逃げるように足元へと視線を落とすしかなかった。
「知ってんだろ。俺の、欲しいものくらい」
「……し、知らないっ」
「知ってるくせに」
「知らないって……」
「10日、3時な」
「…………」
「来いよ。俺んち」
「…………うん」
「鍵は持ってんだろーな」
「…………」
「なくしたとか言うなよ?」
「…………言わないよ」
 視線を落としたまま小さく答える山崎から手を離して、高杉は笑う。
 それでも顔を上げられない山崎の肩を軽く叩いて、帰るぞ、と促した。




   +++




 それが夏休み前のことで、そして本日8月10日。現在時刻3時24分。
「……忘れてたよ……」
 高杉が、その気になれば結構何でも完璧に出来てしまう天才型人間だということをすっかり忘れていた。
 誘いをかけられたとき、逃げられないと思った反面、もしかしたらいい点なんて取れないかも、と思ったことも事実だ。半端な点数だったらいい点じゃないと付き返すこともできるだろう、と思ったのが甘かった。
 97点。
 悪い点というには言いがかりがひどく、かといって、満点でないからご褒美はなしというのもずるい気がする。
(欲しいものって……)
 高杉の欲しいものは、本人の言った通り分かっている。
 直接教えられたことはないが、何となく分かっている。
 もしかしたら自分の勘違いではないのかと考え込んだ日もすでに遠い昔だ。
 分かっている。距離を置く前から、彼が何を欲しがっているのか分かっている。
 簡単なものだと分かっていて、それでも今日のこの日まであげられなかったのは、偏に山崎が臆病な所為だ。
(…………いいのかな、それで)
 広げられたテスト用紙を手元に寄せて見る。補習の後の追試だから、難易度は普通のテストと変わらない。夏休みに入ってダラダラと過ごしている今の山崎では解けない問題もいくつかあった。
(……本当に、いいのかな)
 でももう逃げられないなあ、と思いながら、テーブルの上に転がっていたペンを手に取る。テストを裏返して、真っ白なそれにペンを走らせた。顔に熱が上るのが分かる。たったこれだけのことで、心臓がどきどきいっている。
 本当は、自覚してからもバレてからもずっと、こんなことするつもりなんてなかったのに。

 ガチャ、と音がして山崎はがばりと顔を上げた。
 オレンジジュースの入ったグラスを両手に持った高杉が、そんな山崎を見て眉を寄せる。
「何してんだ?」
「……別に」
「ふーん?」
 グラスをかたりとテーブルに置かれて、ありがとう言うとにこりと笑われる。
 この笑顔がダメなんだよなあとぼんやり思っている隙に、高杉が山崎の手元にあったテストを奪った。
「あ!」
「何だよ」
 これ俺のだろ、と言いながらテスト用紙を眺める。
 表に視線を走らせて、何してたんだ? と言いながら、それをはらりと裏返し。
「…………」
「…………」
「…………」
「………………なんか、言ってよ……」
「…………いや、」
「…………」
「…………なんていうか……」
 テストの裏をまじまじと見つめながら高杉が口元を押さえる。
 97、と赤字で大きく書かれたテストの裏側。
 きれいとも丁寧ともいえない字で、隅っこに小さく書かれた四文字。
「退」
「……何」
 耐えられず顔を背けて立てた膝へうずめる山崎の頭に、高杉の手が乗る。
「ちゃんと言えよ」
「やだ」
「お前の声で聞きたい」
「いやです」
「退」
「…………ずるいよ」
 おずおずと顔を上げる山崎の顔が赤く染まっている。
 怒ったように眉を寄せて高杉を睨みつければ、高杉がそれに少し笑って、ズボンのポケットを漁った。
「ずるいのはテメェだろ」
 何が、と問う隙もなく、高杉が山崎の左手を取る。
 何をされるのかと身構えれば、薬指に殊更ゆっくりとはめられる銀の輪。
「…………」
「ご褒美」
「……え」
「くれんだろ。俺の、欲しいもの」
 指輪をはめた左手に、恭しく口吻けて。
「退」
 低い声で、名前を呼ばれて、山崎は呼吸も上手く出来ない。
 左手を握った手はそのまま、反対の手を山崎の頬に伸ばして高杉がゆっくりと撫でる。
 撫でて、掌を頬に添えて、近づく唇。
 息の吸い方も忘れて涙目になりながら、山崎は目を閉じた。ゆるく閉じた唇にそっと触れる温もり。
 触れて、触れるだけで離れた唇がまだ近い距離にいる間に、山崎はやっと息を吸って、震える声を吐き出した。
「……『好きです。』」
 高杉がふ、と笑って、二人の間の空気を震わす。
 薄く目を開けた山崎の身体に腕を回して、高杉は緩く力を込めた。
 少し躊躇ってから、山崎は同じように高杉の背に腕を回す。
「お誕生日、おめでとう」
 耳元で囁くような小さな声に、高杉は目を閉じて、ありがとう、と小さく答えた。







高杉さん、お誕生日おめでとうございました
      (08.08.14)