「やっぱりここにいた」
ギィ、と重たい音をさせて屋上の扉が開いた。薄暗いところから突然明るい場所へ出て眩しそうに目を細めた山崎は、屋上のフェンスに凭れかかっている高杉を見て、はぁ、とわざとらしく溜息を吐く。
「戻ろうよ。授業、始まってるよ」
「知ってる」
耳に突っ込んでいたイヤホンを抜き取って、高杉はドアの前に立ったままでいる山崎をちょいと手招いた。山崎は眉根を寄せて、もう一度
「授業!」
と、今度は少し怒ったように言う。けれど、高杉がちっとも立ち上がる気配を見せないことに根負けしたのか、肩を落として結局葉手招きに従った。
秋の高い空に、白い雲が薄く浮いている。雲の白さの隙間から秋の青が透けて見える。
ざぁ、と秋の香りのする風が吹いて、山崎の白いシャツをばたばたと鳴らした。
「もう」
「授業、ってお前はどうなんだよ」
「俺は先生に頼まれたの。高杉探して来いって」
「何だ」
「…………なんだって何」
「いや? 俺はてっきり」
にや、と口角を引き上げて、高杉は山崎の髪に手を伸ばした。指で軽く引っ張るようにしてから、その頬に掌を滑らせる。少し冷たい。
「俺の愛が届いたのかと思って」
「なっ、……ば、っかじゃねーの!」
ぱし、と高杉の手を払いのけて、山崎は顔を背けた。
少し赤く染まった顔を見て、高杉がにやにやと笑う。山崎がそれを軽く睨めば、高杉は軽く肩を竦めて
「だって俺、お前のことばっか考えてたぜ?」
悪びれず言ってみせるので、山崎は何も言い返せず、眉を寄せるしかなかった。
フェンスに背を預けて座る二人の間を、涼しい風が通り抜けていく。
高杉を連れて行くことを諦めたのなら一人でも授業に戻ればいいのに、山崎は高杉の隣に座り込んだまま「青いー」と、子供のように空を見上げて言った。
無防備に手が投げ出されている。握ってしまえばいいだろうか、と高杉がぼんやり思案していれば、空を見上げていた山崎が不意に高杉を見て、笑った。少し照れたような笑い方だったので、高杉は投げ出されている山崎の手をそっと握る。
山崎は少しだけ笑みを深くして、それから、「すき」と小さく言った。
涼しい風が通り抜ける間、山崎の長い髪を柔らかく揺れ動かしていく。
手を握ったのとは逆の手で、高杉は山崎の冷たい頬へ指を滑らせた。
頬を撫でて、長い髪を耳にかけて、耳の裏を少し擽ればきゃっきゃと身を捩って山崎が笑う。
その手をそのまま首へゆっくり滑らせれば、笑いを収めて息を詰める。
顔を近づければ大人しく瞼が下りて、繋いだ手にぎゅっと力が篭った。唇を触れ合わせる直前、震える吐息が唇に触れて、それだけで泣きそうなのは高杉の方だ。
触れ合わせた唇をそっと離せば、山崎が薄く瞼を上げてぱっと顔を俯かせる。触れる首筋が僅かに熱を持っている。
その様子を両目に焼き付けられないことだけ、勿体無いな、と高杉は思った。
左目を傷つけたのは山崎のためでそれを後悔したことなどないが、そのせいで、山崎の姿をしっかり見ることができないことだけ勿体無い。
「なァ」
首を撫でていた手を顎の下へと滑らせて、
「顔、見せて」
囁くように言えば、山崎の喉が小さく上下して、俯いていた顔がゆっくりと上がった。
冷たかったはずの頬が赤くなっていて、触れれば熱があるのだろうな、と思う。
「退」
名前を呼べば、伏せられていた瞼が一度震えるように瞬きをしてから持ち上がる。視線が絡んで高杉が右目をすっと細めれば、山崎の肩が小さく震えた。その拍子に、高杉の爪が山崎の顎の裏を軽く引っかく。
「ッ」
身体を竦めた山崎に高杉は再びキスをした。軽く触れ合わせ、離して、触れ合わせる。それを細かな間隔で繰り返せば、山崎の唇がうっすらと開く。
山崎の髪に指を差し入れながら、高杉はゆっくりと開いた唇へ舌を忍び込ませた。山崎の肩が僅かに跳ね、握っていた手にぎゅっと力が篭る。山崎の長い爪が高杉の指に刺さって、ちりちりとした痛みを残した。
繰り返す拙いキスの間、山崎の空いている手が高杉の顔に伸び、耳に引っかかっている眼帯の紐に触れる。
慈しむように撫で、それからゆっくりとその紐を耳から外した。
高杉の左目を覆っていた眼帯が落ち、その拍子に絡んでいた舌が解かれる。離れた唇を舌で拭ってみせた山崎に、今度は高杉の肩が震えた。
二人の間に、白い眼帯がぺたりと零れ落ちている。
「何すんだよ……」
呼吸を整えながら高杉が言えば、山崎は離れた距離をすっと縮めて、唇の触れ合うぎりぎりの距離で高杉の左目を覗き込んだ。
「これくらい近かったら、見える?」
視力のほとんどない左目に自分の姿を映して、山崎は吐息に混じってそう問う。
「こっちの目でも、俺のこと見えるのかな」
言って、その目の下に指を這わせた。指先は僅かに冷たく、長い爪が、高杉の下睫を掠める。
高杉は右目を閉じて、普段は隠されている左目で山崎を見つめた。
輪郭も何もない、ぼんやりとしたものが映っている。
肌色と、黒と、白だけがわかって、後はすべてぼんやりしている。
この目があるから、山崎は自分に触れることを怖がるのだろうか、と高杉は思う。
熱っぽい視線で見るくせに好きというのを躊躇っていたんだろうか、とか。
この傷がやはり恐ろしいのだろうか、とか。
……この傷があるから、山崎は、自分を好きだと錯覚しているのではないだろうか、とか。
「もっと……」
繋いだ手を一度離して、指をきつく絡めるようにする。
離れている腰に手を回して、自分の方へ引き寄せるようにする。
「もっと近かったら、」
見えるかもしれねぇなァ。
言って、再び唇を押し当てた。
舌を絡めあうほど近づいても、やはり左目にはぼんやりとしたものしか見えない。
山崎だということも分からない。
閉じていた右目を開ければ、左右の視力の違いに世界が歪む。
左目を閉じ、右目だけで見つめれば、山崎の睫が震えていることまではっきり分かる。
縛りたいと思って、目を傷つけたのではなかった。
絡め取るために守ったわけではなかった。
ただ、守りたくて、傍にいて欲しくて、笑っていて欲しくて、大切だっただけだった。
チャイムの音が鳴り響いたけれど、唇は離さないでいる。
目を閉じたままの山崎に、チャイムの音が聞こえていなければいいなと思う。
縛りたいと思ってそうしたわけではないけれど、この左目で縛れるのなら
(一生縛っておきてェなぁ)
チャイムが鳴り終わった後も山崎が逃げようとしないので。
それが可能なんじゃないかと、少しだけ夢を見ているのだ。