その人の左目を覆う包帯にそっと触れれば、その手を撥ね退けられた。
畳に落ちた自分の手をぼんやりと見つめれば、小さく謝罪の言葉が落ちる。笑って首を振り応えに代えて、山崎はその人に視線を向けた。
白の包帯を隠すように伸ばされた前髪の色が、白に映える黒で美しい。これが、血の赤に染まっていたのかと思えば、ぞくりとしたものが駆け上がった。恐怖か官能か、分からなかった。
「何だよ」
すっと目を細めるのは、威嚇のように見えるけど、慣れてしまえば機嫌の良い猫のようだ。
「……痛かった…?」
馬鹿馬鹿しい問いだと分かっていながら口にする。すっと視線をそらした男は、どうだろうなと曖昧な答えを返した。そのまま窓の外を見るようにするので、つられて視線を窓の外へ向ける。大きいとは言えない丸い窓の外に見えるのは、空でもなく道でもなく、ただ隣の建物の壁だった。素っ気の無いその、景色とも言えない景色に視線を向けたまま、この人は何を考えているのだろう。思ったが、聞けなかった。高杉晋助という人は、いつだって、何を考えているのか分からない男だった。
鳥の声でも聞こえれば終わるだろうかという静寂。気詰まりなほどのそれが、山崎はあまり嫌いではない。かすかに孕んだ緊張感が温い空気に揺蕩っている。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。すべてが終わってしまえばいいのに。願うように思いながら、山崎は視線を転じて高杉を見た。思わず視線が絡んで、うろたえた。
「…な、に…?」
声が喉に引っかかる自分を滑稽に思う。同じように思ったのだろう高杉もくすりと笑って、手を伸ばし、山崎の髪を絡め取った。指に絡めては、梳き、絡めては梳き、それを幾度も繰り返す。心地よさに目を細めれば、その指が掠めるように唇に触れた。
ああ、このまま時が止まってしまえばいいのに。
すべてが、世界が、終わってしまえばいいのに。
投げ出していた指を絡め取られて、躊躇った後に握り返した。込めた力が止まらずに、気持ちのままに握り締める。叶わないと知っていながら、このまま腕を引いてくれることを願った。腕を引いて、抱きしめてくれればいいのに。
すべてを相手に委ねる狡さで願いながら、まるで何かが逃げないかと怯えるかのように手を握る。軽く絡ませていた指をしっかりと繋ぎ合わせて握り合う。それでも体は、身じろぎさえしなかった。視線を絡めたまま。唇は離れたまま。ただ、身の内に巣食う切ない思いを逃がすかのように、――――――逃がさないかのように。絡め握り繋いだ手が、砕けてしまえばいいのに。
狭く閉ざされた世界に、小さく明るい鳥の声が、落ちた。
「………間抜け面」
くすりと笑って高杉は、絡めた手を解いてその指で山崎の額をはじく。ひどいなぁと笑いながら、離れた手を山崎も何気ない仕草で傍に寄せた。
温く浸していた空気にヒビが入ったよう。ふとした瞬間沸き起こる泣き出しそうな程の緊張感だけを感じながら、不自然でない程度に視線を彷徨わせる。些か薄暗い室内の隅に、造花の桜が咲いているのが、どこか妙に、恐ろしい程調和していた。
小さく切り取られた窓の外の色で、日が落ちていくのを知る。
帰らなければと思い、一度呼吸をしてから、山崎は立ち上がった。
「帰る」
小さく言えば、高杉は瞬きをする。寂しいだとかそんなことは絶対に何があっても口にして欲しくなんてないけれど、何を考えているのか分からないというのも、やめて欲しい。何て身勝手。だったら突き放して欲しいのか? ……そうかも知れない。
「お前さ」
山崎から視線をそらしてぼんやりとどこかを見ながら、高杉は尋ねる。
「…………どうするんだ?」
何を、とは言われなかったが、何を、とは尋ねなかった。
先程触れられたことを薄く思い出しながら唇を噛む。きょろりと室内を見回して、薄暗い中の決して散らない桜が、目に入った。
ああ、窓の外、咲いた桜はいつまで生きるか。
「……桜の花が、散るまで」
呟き答えた山崎に、少し間を置いて高杉は、そうか、とだけ答えた。
くるりと踵を返し、部屋を出ようとした山崎の背中に声がかかる。
「おい」
「……何」
振り向かないまま問えば、真意の分からないいつもの声音で、高杉は、言った。
「この部屋の桜は、散らねぇぞ」
唇を、噛んで、思わず拳まで握る。ああ、このまま振り返って駆け寄っていっそ殴ってやりたい。ぎりぎりと感情を抑える山崎に、高杉はじゃあなと素っ気無く言葉を向けた。