夜だというのにこんなにも明るいのは、毒々しい色のネオンがきらきらしているからだ。
 いろんなところから香水の香りがして、それが混ざって正直あまり気持ちよくはない。こんなところに毎晩のように通える局長は偉大だな、と変なところで感心した。
(寒いな)
 ぶる、と一つ震えて、山崎は両手を擦り合わせる。
 すっかり冷たくなってしまった手は、血の気をなくして白い。夏には結構焼けたと思ったのだけれど、この眩しいネオンに照らし出された手は、意外に白いままだった。
(はやく帰ろう)
 女と男がそれぞれの思惑でもって行きかう界隈を足早に後にする。今日はとてもよい天気だったというのに、見えげる空に星ひとつ見えないのは、下界の明かりが強すぎるからだろう。
 吹き抜ける風が冷たい。もうすっかり秋になってしまった。涼しい夏が突然暑くなったと思ったら、今は突然寒い秋である。異常気象もどうにかして欲しい、とひとつ零した溜息は、幸いにもまだ白くはならなかった。


 そう言えば、寒くなってから会っていないな、と唐突に思い出した。
 恐らくは、どの季節よりも秋が似合うであろう男には、まだ暑かった夏に会ったきりである。それ以降、姿も見ていないしもちろん連絡も取っていない。
 行けば会えるだろうか。思って、その人がいるであろう方角へ首を巡らせた。まだ、帰らずとも良いだろうか。どうせ今日中に報告は出来ないだろうから、帰りが少し遅くなったからといって大した違いもないだろう。
 けれど、仕事の後に会いに行くのは正しいのだろうか、と思って山崎は巡らせた視線をそっと落とした。まだ少しは暑いだろうと思って素足に草履で来てしまった。寒い。冷たい。足先から痺れていきそうだ。
 仕事の後に、笑顔で会いにいけるような相手では、ないのだけれど。
 本当なら、このまま真っ直ぐ帰って、あそこにあいつがいますと新たな報告をしなければならないような、立場なのだけれど。

 立ち止まる山崎の後ろで、きらきらと輝くネオンが夜に人を誘っている。甘い香りが混ざり合って不思議な香りがしている。そういえば、あの人はとても良い香りがするけれど、けっしてこんなに毒々しくはないな、と思い出してしまって、山崎は重く溜息を吐いた。

(本当は、斬らなければならないのに)
 本当はそれが山崎の職分であって、いくらでも機会はあるのに。
(毒、とか、針とか、)
 真っ向勝負では勝てなくとも、殺す方法はいくらでもあるのに。

 けれど、そういえばあの人は、自分の淹れたお茶を躊躇いもなく飲み干すな、と気付いてしまった。
 少しも迷うことなく手を伸ばして、様子を窺うことなく飲み干すのである。
 ちっとも疑わないのである。
「あー……ダメだ」
 山崎は掌で顔を覆って、唸るような声を出した。
 はやく帰らなければ、爪先はすっかり冷えてしまって痛いくらいなのに。
(会いたいなぁ)
 溜息を吐けば、それが温かかった。
 山崎はくるりと方向転換をして、さきほど視線を巡らせた方向へゆっくりと歩き出した。




 途中、思い出したので24時間営業のスーパーへ寄った。
 白く明るい店内をうろうろと歩き回って、やっと金魚のえさを見つけた。ポケットに突っ込んでいた小銭をかき集めてそれを買う。白く明るい蛍光灯に、無数の虫が引っ付いていた。
 もう、死んでいるだろうなぁ。
 きっと、もう死んでいるだろう。夏に買った金魚は、とっくに死んでしまっているだろう。
 きちんと世話をするからと山崎は言ったけれど、どんなにそうして理由を作っても、毎日通えるわけがないのだ。物理的に、無理だ。心理的にも、無理だ。こうしてたまに会いにいくだけで、足が止まるというのに。
 本当は今駆け戻って、仲間を引き連れて討ち入りをしなければならないのではないのか。と、毎回思っている。
 そうでなければ、訪ねた先にすっかり姿がないといいのにな、と思っている。
(そしたらまた、居場所は知れなくなるものな)
 そうすれば、会いに行きたいと思って会いに行ってしまう弱い心も、逃げ出したくなる心も、全部なくすことができるだろうのに。
(訪ねた先にいなかったら、俺は絶望するだろうか)
 がらんとした部屋にその人の姿も荷物もなかったら、悲しいと思うだろうか。
 せめてそのときが来るならば、残り香の一つもないといいな、と思っている。
 まるで今までのことが夢だったみたいになっていればいいのにな、と思っている。
 だから金魚は死んでいてくれなければ困るのだけれど。本当は。なかったことに、しなければならないのだけれど。
(高杉さんが世話をしていても、もうとっくに、死んでいるだろうな)
 屋台で買った金魚である。そんなに長くは生きないだろう。
(きっと水は冷たいだろう)
 ゆっくりとしか動かない足の先が冷えている。
 もうおそらく意味のない金魚のえさの入ったビニール袋が、かさかさと耳障りな音を立てている。




 すっかり見慣れてしまった宿屋へ顔を出せば、顔なじみになってしまった宿屋の女将が「こんばんは」と明るい笑顔で挨拶をしてくれた。どうぞ、と通されるので、ありがとうございますと礼を言って階段を上る。
 ああ、いるのか、と思って、胸が苦しい。
 いつここで「あの人はもう」と言われるかと、いつも緊張をしている。
 言われたいと、多分、思っている。この階段を上るのが、いつも山崎は怖いのだ。逃げてしまいたい。そうでないなら。
 一番奥の部屋の前で立ち止まって、深呼吸をした。
 そうでないなら、この襖を開けた瞬間に斬り殺してくれないかなぁ、と思っている。
 そしたらきっと、言い訳ができる。上手に嘘が吐けるのに。
 失礼します、と言って、相手の返事を待たずに襖に手をかけた。
 気配を殺していないのできっとばれているだろう。
 刀を構えてくれていたらいいのになぁ、と、性懲りもなく願う。

「よぉ」

 部屋の主は、煙管をきれいな指先で弄びながら、緩慢な動作で顔を上げた。
 あまりにも、無防備なのだった。腰に刀一つ帯びていなかった。

「こんな時間に、珍しいな」

 確認するように窓の外を見た高杉は、沈黙したままするりと部屋に入ってきた山崎に顔を上げて、それから小さく
「秋の香りがするな」
 と零した。


 高杉の後ろで、いつの間にか金魚鉢に住処を移していた金魚が二匹、緩やかに泳いでいる。
 冷たそうな水の中でまだ生きてゆるゆると動いている。
 やはり、赤い金魚は黒い金魚の傍にあって、二匹はそれが当然とでもいうように迷わず寄り添って、きれいに泳いでいるのである。

     (08.09.30)