「よお」
 と突然声をかけられて、山崎は勢いよく振り向いた。
「…………!」
「何してんだ、こんなとこで」
 笠をかぶりにやにやと笑うその男の姿に山崎は顔を怖くして、きょろきょろと辺りを確認するように首を左右に動かした。
 それからやはり勢いよく振り返ると、男の手首をぐっと掴む。
 そのままいきなり歩き出した山崎に不審の声をかけることもなく、男はにやにやとした笑いを口元に浮かべたまま付いていく。


「何してんですかっ」
 建物と建物との隙間の、ごみだとか何だとかが捨ててある細い道へ入るなり、山崎は声を抑えてそう言った。辺りをはばかってか、大きな声こそ出さないが、その勢いが山崎の驚きと焦りを如実に表している。
「何って、散歩」
「何で指名手配犯がのんきに散歩してんですかっ」
 しかもそんな派手な格好で、と山崎は男の着物をぐい、と引っ張る。
 男―――指名手配犯高杉晋助は、山崎の剣幕をおもしろそうに眺めながら、軽く肩を竦めて見せた。
「いいだろ、趣味が」
「悪趣味です絶対」
 高杉が身にまとう女物のように派手な着物をにらみつけて、山崎は低い声で言う。
 いつも部屋で同じようなものを身に着けていても、何も言わないくせに。悪趣味とはきっと、衣装のことではなくこんな目立つ格好で往来をうろついていることに対してなんだろうな、と思って、高杉は低く笑った。
「テメェこそ、何してんだよ」
「何って、……見回りです」
「その見回りの最中、指名手配犯がうろついてるのを見つけたのに、逮捕しなくていいのかよ?」
 着物を掴んだままの山崎の手を、高杉の手がするりと取った。
 に、と口元で笑いながら、その手にくちづけられて、山崎は勢いよく手を取り返す。
「……悪趣味だ」
「知ってる」
 ふい、と顔を背けてしまった山崎の横顔を見つめる。
 困ったような顔をしている。あまり、見たことのない表情だ。


――――――見回りってェのは、一人でやるのか」
「……今日は、二人です」
「連れは?」
 高杉の問いに、山崎は今まで自分がいた方向へ首をめぐらせる。
「トイレに行ってます。……ねえ、だから、困るんですけど」
「何が」
「……もうすぐ、俺、戻らないと」
「で?」
「……お願いだから、逃げてください。でないと俺は、あんたを追いかけなきゃいけなくなる」
 そのときは、と山崎は自分の腰に目を落とした。
 刀がある。
「戻ればいいじゃねぇか。追いかければいいだろう」
「…………」
「俺は好きで歩き回ってんだ。お前に会う為に来たんじゃあ、ねェよ。俺はな」
 先ほどくちづけた山崎の手を取って、高杉はそれをきつく握った。
 ぴくり、と山崎の指が動くが、握り返そうとはしない。
「俺の壊す世界が、どんなもんかと思って、見てるだけだ」
 その言葉に、山崎が顔を強張らせて高杉の顔を見た。
 同じ高さの視線がぴたりと重なる。
(昔は、もうちっと)
 小さかったなぁ、と思い出して、高杉は少し笑った。
「俺を、止められるのが、もし、」
 その、同じ高さにある唇にそっと指を這わせる。
 山崎は抵抗せずに、ただ少し困ったように眉を寄せる。
「もし、……」
 その先は言葉にならない。
 言葉にしたら、山崎はどうするだろうと、想像ばかりが少しの間高杉の脳裏を駆け巡ったが、思い浮かぶどれもこれもがひどく非現実的だった。
「……これ、やるよ」
 言葉を続けて現実の答えを得る代わりに、高杉は山崎の唇に触れていた手を離して袂から一つの袋を取り出した。
 橙色の塊が入っている。
 袋の中のひとつを指でつまんで取り出して、まるで動物にそうするかのように山崎の口元へ寄せた。
「何、これ」
「夏みかんの皮、の、砂糖漬け」
 ぐ、とそのまま唇へ押し付ければ、山崎は抵抗することなく口を開く。
(毒でも入っていれば、どうするつもりなんだろうなァ)
 いっそ、入れておけばよかったか、と一瞬後悔するほど、山崎は素直にそれを咀嚼してためらうことなく飲み込んだ。
「美味いか」
「なんか……あまい」
「そりゃあ、そうだろう」
 首を傾げて眉根を寄せての感想に高杉は声を上げて笑う。
 砂糖漬けの入った袋ごと山崎の手に押し付けて、もう一度「やる」と言った。
「あ、ありがとう……」
「それァな」
 甘く砂糖を振り掛けられたみかんの皮を顎でしゃくる。
「俺の郷里の、食い物だ」
「ああ、……長州の」
「そうさ。俺のいた萩ってとこは、夏みかんの産地で、餓鬼のころはよくそれを食ってたもんだ」
 それを今年は、と高杉は肩を竦めた。
「宿の人間が、偶然持ってきやがった」
 渡されたときには一瞬ひやりとして、ひやりとした自分に嫌気がさした。
 ばれたか、と思って、引き払わなければなるまいか、と思ったのだ。
 ばれてもいいじゃないか。引き払ってもいいじゃないか。何を怯えることがあるものか。怯えることなど何一つ、ないはずなのに。
 ただ、この場所を引き払うことが嫌だと、それだけ、思い浮かんで吐気がした。
「……高杉さん」
「もう、行けよ」
「……」
「お仲間が、待っていやがるんだろう。不逞の浪士を、探して、暴き立てて、斬る仕事が。お前にはあるんだろう」
「…………そう、だね」
 いつの間にか、高杉に伸ばされていた山崎の手が、するりと力なく落ちた。
 受け取った袋をぎゅっと握って、山崎は怖い顔を作ってみせる。
「次見つけたら、知らないよ。今日俺と一緒にいるのは、組一の手練だからね」
「そうか。それはせいぜい、気をつけることにしよう」
「……じゃあ」
 じり、と山崎の靴が砂利を鳴らした。
 一歩、二歩、躊躇うように足を引いて、それからくるりときびすを返す。
 足音をさせない軽い足取りで駆け出した山崎は、その後一度も振り返らなかった。
 ただ、みかんのいっぱい入った袋を、大事そうに抱えている。
 それだけが目に残って、汚れたコンクリート塀に背中を預け、高杉は静かに奥歯を噛んだ。


(お前には、)
 帰る場所が、あるんだろう。
 右手の親指を軽く舐める。山崎へ砂糖漬けを与えたその指からは、わずかに砂糖の味がする。
 見つけたのは偶然で、どんな顔をするだろうと興味が湧いたから声をかけただけだった。困らせる気でいたわけでも、何かするつもりがあったわけでもなかった。
 なのに今自分は、軽々しく声をかけたことに後悔をしている。
 まざまざと、世界の境目を見せ付けられたようで。

(もし、俺を止められるのが、お前だったとしたら)

 高杉の潜んだままでいる通りのすぐ横から、山崎の声と高杉の知らない誰かの声が聞こえた。
「ってぇのは、あれか、逢引相手か」
「な、な、なんで」
「お前、あれだろ、前の祭ンときに会いに行くって言って、帰ってこねぇときがあったじゃねぇか」
「帰りましたよちゃんと!」
「今度紹介しろよォ」
「いやですよ!」
 きゃっきゃとはしゃぐような声だ。山崎の声は、軽く上ずっている。
 じゃれるように喋りながら、高い声が通り過ぎていく。

 姿を見つけて、声をかけ、後悔するのはこれで二度目だ。
 高杉はそのままその場に座り込み、視線を落とした。
 親指の腹に軽く歯を立てる。

(お前が、俺を選ぶと、一言言えば)

 目を閉じた。
 自分でもどうしようもない考えだと、分かっていた。
 けれど、もし何か術があるとしたら、それしかないのも分かっていた。もし自分がこの先足を止めることがあるとするならば、それは山崎の為でしかあり得ないことは分かっていた。
 躊躇っているわけではない。
 止めて欲しいわけではない。
 ただ。
(…………帰る場所が、あるってのは)
 大切なものが、きちんと、失われず、過去のまま、そばにあるというのは。
 どんなものかと、考えることがあるだけだ。

 指にわずかに残っている砂糖を舐め取る。
 少しだけ苦い甘さが舌に一瞬広がって、すぐに消える。

(ああ、……)

 ひとつ残らず山崎にあげてしまってよかった、と高杉は息をついた。
 あんなもの、手元に残しておくべきではない。

(ああ、これは、先生の好きだった味だ。……)


 可能性も思い出も全部、未来を何一つ疑うことのなかった、遠い過去の話だ。

     (08.11.07)