あの黒髪にこれを飾ったらひどく美しいだろうと思って買ったそれは、高杉の想像の中では月明かりに照らされた艶やかなさらさらとした髪を飾る予定だったのだけれど。
「……はあ」
困惑した顔で畳みの上に置かれたかんざしを見つめる山崎の髪は、思ったよりも艶やかではなかったし、窓の外は相変わらずぼんやりとした太陽の光があるばかりで、月明かりなんで幻想的なものは望めなかった。
「やるよ」
少し前に発した言葉とまったく同じ音の羅列を、高杉は口にする。
少し前に発したときより困惑を深くした山崎はちらりと高杉を見上げて、それから再びかんざしに視線を落とし、「はあ」とわかったようなわからないような声を、出した。
「……螺鈿、ですか」
「ああ」
「高そ……」
「そりゃあな」
「……何で、って聞いてもいい?」
そろそろと躊躇いがちにかんざしに触れた山崎は、高杉の顔色を窺うようにおどおどとした声を出した。
「お前、何そんなにびびってんの」
「いや……高杉、さんって、俺を別に女だと思ってるとかそういうこたァ」
「ねーだろ」
「ですよね!」
ほっとしたように笑顔を見せて、ようやく山崎はかんざしを手に取った。
少し大ぶりなそれは、螺鈿と金の細工が入っていて縁には真珠が飾られている。きらきらと光るそれは、少しほこりっぽい部屋にわずかに入る太陽の光で見ても、十分に美しかった。
山崎が手を動かすたびに、ちろちろと細工の色が変化する。
わぁ、とか、すげー、とか言いながらかんざしを眺める山崎の髪に、高杉は指を伸ばした。
頬にかかる黒髪を優しく耳にかけてやれば、少し驚いた山崎が一瞬身を硬くして、それからくすぐったそうに笑う。
「お前、」
「はい?」
「何でこんなに髪汚ねーんだ」
耳にかけてやった髪をそのまま指先で弄びながら、高杉は不満げに声を上げた。
「えええ、汚い?」
「うん」
ばさばさじゃねえの、と言いながら、高杉は軽く眉根を寄せて山崎の髪をその指で梳く。
常ならばするりと通るはずのそれが、時折もつれた髪に引っかかり高杉は小さく舌打ちをした。
山崎は首を傾げて、高杉に触れられているのと反対側の髪を自分の手でがしがしと梳く。
「あー、本当だ」
「せっかく会いに来るんだから、ちったァきれいにして来いよ」
「別に会いに来たんじゃないよ。近くに来たから寄っただけだよ」
「そんな気軽に寄れるような場所か」
低く笑いながら高杉が言った。指が、山崎の絡まった髪に引っかかった。
小さく取られた窓の外から申し訳程度に入り込んでいた太陽の光が、ゆっくりと弱くなっていく。
雲が、太陽を隠しているのだろう。今日は寒い。風も冷たい。もしかしたら、雪が降るのかも知れない。
突然黙ってしまった山崎の様子を怪訝に思ってその顔を覗き込めば、先ほどまで笑っていた山崎が、怒ったように唇をきゅっと結んでいた。
「おい」
声をかける。引っかかっていた指が、するりと抜けた。
「別にいいでしょ」
「…………」
「別に、いいでしょ。気軽に寄ったって」
悪いことなんか、ないでしょう。
開いた唇から零れたのはそんな言葉で、それは、高杉の耳にぎりぎり聞こえるか聞こえないかくらいの小さい音だった。
ほとんど吐息のようだった。
小さく触れた唇は、空気が乾燥しているせいでかさかさに乾いてしまっている。
少し荒れたそれは、触れ合わせれば引っかかるようだった。
血が滲んでもおかしくないそれを軽く舌で舐めれば、山崎の唇が薄く開く。
このまま口内を貪ってしまいたいと思って、いるのに、それが出来ないのは何故だろう。
「……痛そ」
うっすらと開いた山崎の目が、物欲しそうな、悲しそうな色をしていた。
それを見ていたくなくて、掌で覆ってしまいたい。
高杉は親指で山崎の唇をぐっと拭った。自分の唾液でてらてらと光っていたそれが、色気のない普通の色に戻る。
「痛くねえの」
「……最近は、女装する用事もないから、髪も唇も肌も、手入れとかあんましないんですよねえ」
はは、と山崎の唇から零れた笑い声はどこか平坦だった。
高杉は気づかなかった振りをして低い笑い声だけ返すと、山崎の手に握られたままのかんざしをそっと奪って、その、少し乱れていて艶やかではない、痛んだ髪に、それをそっと差し込んだ。
けれどそれは、結ってもいない山崎の髪には当然上手く引っかからず。
ぼとりと畳の上に落ちてしまって、あ。と山崎が小さな声を、あげた。
「ていうかこれはいやがらせですか?」
高杉が慣れた手つきで髪をまとめて結いあげていくので、山崎は頭を動かせずにじっとしながら唇だけを不満げに尖らせている。
「何が」
「俺、女じゃないんだけど」
「知ってる」
「じゃあ何でかんざし?」
「うるせえな。ちったァ黙ってろ」
「いやがらせですよね絶対。これでせいぜい頑張って潜入操作しろよ似合わねー女装でェ、とかそういうことだよね」
「被害妄想か」
「だってそうでしょう。俺別に高杉さんみたいに普段から女物の小物とか使ってるわけじゃないし、ね!」
「はっ」
「うわぁ鼻で笑われたよ何この人。ちょっと皆さん見ました今の態度」
「っせェな。おら、できた」
山崎の髪を器用にいじっていた高杉の指がすっと離れる。
山崎は小さくアリガトウゴザイマス、と言って、それからおそるおそる自分の後頭部に手を伸ばした。
「うわあ」
「何だ」
「鏡ない?」
「あるけど」
「見せて。……あ、やっぱいい」
「何だよ」
「よく考えたら俺今普段着だった。まんま男だった。そんなんで髪結ってたらキモイよ普通に変態だよやっぱりいやがらせでしょうこれ」
「どうだかな」
あ、ひどい。と山崎はわざとらしく哀れっぽい声を上げた。
高杉はそれにやはり低く笑って、こぼれた後れ毛に指で触れながら、その頬に小さく唇を落とした。
頬に、瞼に、額に、耳に、唇に。
触れるだけのくちづけを降らせていく高杉に、山崎は息を詰めている。
肩を強張らせて、ぎゅっと目を閉じてしまっている。
高杉がゆっくりと手を滑らす頬や首筋が、わずかに赤く染まっている。頬の温度が少し高い。
高杉は薄く開けた右目で、その赤さや白さや肌の肌理やそんなものを、網膜に刻み付けるように近い距離でじっと見つめた。
初めて見るわけではないのに、初めてみるような気がしている。
こんな顔をしていただろうかと、少し不思議な気さえする。
こんな顔をしていたのか、と思うくらい、高杉の頭の中の山崎像は曖昧なのだ。
何度見ても、刻み込むように何度見つめても、会えないので忘れてしまうのだ。
ぼんやりと薄くなって、雲に隠れた太陽のように輪郭の鮮明さを失ってしまう。
かんざしだって、山崎の艶やかな黒髪に飾って月明かりの下で見ればさぞ美しいだろうと思って手に取ったのに、山崎の髪は思ったよりも艶やかでなくて、月明かりの下でなど、よく考えればそう会えるわけでもなかった。
悪いことだからだ。
簡単に会えない。悪いことだからだ。
山崎にとって。
飽きもせず高杉が口吻けを繰り返すので、息を詰めていた山崎がふっと呼吸を戻して、きつく瞑っていた目をうっすらと開けた。
その目に薄く涙の膜が張っている。
舐め取ってしまいたい、という衝動が、高杉の中にはある。けれど、それは外には出ない。
「……このかんざし、」
小さな、やはり高杉にぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で、山崎が言った。
「外で見たら、光ってきれいだろうね」
「ああ」
「目立つかな」
「かもな」
「じゃあ、」
どんな格好してても俺だってわかるね。
それだけ言って、再び目を閉じてしまう。
「……何がだ」
「どんな格好してても、高杉さんには俺だってばれるでしょう」
「だろうな」
「よかった」
「何が」
「ちゃんと殺してね」
「本当に本気であんたと戦わなきゃいけないときには、俺はこれを持って行くから、ちゃんと見つけて間違わず殺してね。見逃さないでね」
許さないでね。
と、妙にはっきりとした声で、山崎が言った。
「俺にばれて困るときは、付けずに仕舞っておけばいいだろう」
笑い飛ばそうとしたが、上手く行かなかった。
頬に触れている手がもし震えたらばれてしまう、と思って手を離そうとしたのに、高杉の手を山崎の手が上から覆ってしまったので、逃げることもできなかった。
「ごめんね。俺が裏切れないのは、あんたじゃない」
(そんなこたァ、わかってんだよ!)
怒鳴り散らすことが出来たら楽だったろう。
山崎がたまに付けて来る傷の贈り主と同じように、殴ってしまえればよかっただろう。
できなかった。
高杉の中に燻っている気持ちは、少しも外へ出て行かない。
それが何故なのか分からない。
怖いからだとは、認めたくない。
「殺すときはできるだけゆっくり時間をかけてくれたらうれしい」
ほとんど吐息だけで、山崎は言った。
囁くそれはちっとも声にはならなかった。
月明かりの下で簡単に会えるような、黒髪の艶やかな美しい女だったらよかっただろうか、と高杉は考えている。
雲間から少しだけ顔を出した太陽が光を部屋に届けて、螺鈿の細工がきらきらと色を変える。
「よく似合うぜ」
今更のように、それだけ言った。
山崎は閉じていた目を開いて、少し驚いたような顔をする。それから小さく笑って、ありがとう、と言った。
笑ったのだろうそれは、少し強張っていて、泣いているようにも見えた。
近い距離で見る目には薄い涙の膜が張っている。
もし、両目ともで見えていたら刻み込んで覚えられただろうか。
左目があれば、何かが違っただろうか。
遠い昔、まだ左の目が光を持っていて、傍らに小さな少年がいたときのことを思い出している。
親を亡くして一人で泣いていた子供のことを思い出している。
(あのときに、涙を奪っておいてやったら、よかったな)
かさかさに乾いている唇に強く唇を押し当てた。
そのまま山崎の髪を飾っているかんざしを引き抜いて遠くに投げ捨ててしまおうかと、高杉は少し、迷っている。