唇に塗った紅を、ほっそりとした小指でそっと拭う仕草がまるで本当の女のようだ。
小指の先の爪は薄桃色に染まっていて、きらきらと光る飾りが付いている。
伏せられたまつげは濃く、長く、白く塗られた頬に濃い影を落としていた。きれいに曲線を描いて上に伸びているそれは、おそらく人工的なまつげだろう。そのまつげの根元から瞼の上にかけては、薄い緑色の粉で色が付けられている。金色が混ざっていて、それがきらきらとしている。
見たことのない長い髪はふわふわと波打ったままで、珍しく洋装を纏った背中に流されていた。黒いそれはいつぞやと違って艶やかで、良い香りがしそうだ。が、それもどうせ、人工的なものだろう。
だって山崎の髪は肩口までしかないし、どんなに頑張ってもそれを一月やそこらで胸の下まで伸ばすなんてできるわけがない。あるいは、天人の持ち込んだ得体の知れない薬を服用すれば別かもしれなかったが、どうせ一夜限りのことなのだろう。人工的な鬘に、決まっている。
じい、と観察をする高杉の視線にはまったく頓着せず、山崎は小さな鏡を覗き込んでちまちまと化粧を直している。目の辺りを少し気にしている。もっと濃い方がいいかなぁ、という独り言が聞こえた。
「おい」
声をかければ、少しの間を置いて「何ですか」と応えが返る。けれど顔は鏡を覗き込んだままだ。そんな小さな鏡では、後ろにいる高杉の姿までは見えないだろう。
「おい」
こちらをまったく気にしない様子の山崎の様子が少し不快で、すこしきつめに呼びかけた。山崎はやはり少しの間を置いてから、やっと振り向く。「はい?」と言いながら首を傾げるので、長い髪がするりと背中を流れて小さな音を立てた。
「何でここで、わざわざそんな格好してやがんだ」
「わざわざっていうか。通り道、だったからかなぁ?」
「何の」
「仕事の。いや、今から、つってもまだ二時間くらいあるかな。ちょっとね、忍び込まなきゃいけないところがあって、女の姿のが都合がいいみたいだから、コレ」
「仕事内容喋っていいのかよ、俺に」
「……いいんじゃないかな、別に。だって、関係ないでしょう?」
いやあ、実は結構大きな捕り物でですね、と山崎は、聞いてもいないのに機密であろうことをべらべらと喋る。
動く唇の動きが、いつもより小さい。てかてかと唇が光っている。
「これ押さえたら組織ごと壊滅ゥ、みたいな、そういう感じで、幹部っぽい人の集まり? 的な? そういう感じなんだよね」
だから、と続けて、山崎はそこでちょっと言葉を切った。
高杉の目をじっと見て、それから目を伏せる。まつげが頬に影を落とす。
涙が落ちたら、きれいだろうな。という角度だ。あの長いまつげに涙が溜まって、そうしてしずくが落ちたら、きっと美しいだろう。
「だから?」
「だから、もし高杉さんが関係してたら、ここに、居ないだろうと思って」
それで、と言って、山崎は口篭った。
きゅ、と閉じた唇が、桃色で、きらきらとしている。
山崎の気配に慣れ親しんでいなければ、きっとこれが山崎だとは気づかないだろう、というくらい、美しい女に見える姿をしている。山崎の気配に慣れ親しんでいても、今ここで山崎が本当に騙すつもりで気配を変えたら、もしかしたら隣に座られても気づかないかも知れない、と思うほどである。
高杉はぞっとした。
「それで、俺がここにいるかいないか、確かめに来たってわけか」
「……違うよ。ただ、通り道だったから、ちょっと早く出すぎたから、化粧直ししようかと思っただけだよ」
言って、山崎は体ごと高杉から目を逸らした。
洋装の袖から覗く手が、白くて細い。山崎は確かに小柄だけれど、女のように細くしなやか、というわけではない。腕などは意外に筋肉が付いていて、触れた高杉が少し驚くくらいだ。
けれど、今は、覗く腕や足や首が、白くて細くて、まるで女のようだった。
そう見えるように服を選んで、化粧を選んで、長い髪を垂らしているのだろう。高杉の知っている山崎の面影が、どこにも見当たらない。
ただ、声だけが山崎の声で、弱々しく高杉の困惑するようなことを言う辺りだけが、山崎の面影を持っていた。
これも消されてしまえば、きっと見つけ出せはしないだろう、と高杉は思う。
人ごみに紛れていられても、横を通り過ぎても、見つけ出せはしないだろう。
これだけを、避けられはしないだろう。
高杉が考えている間に、山崎はすでに鏡へと向き直り、今度は自分の小さな鞄からがちゃがちゃと筆や粉を取り出していた。先ほどまでの気まずそうな空気はどこへ行ったのか、鼻歌など歌っている。
「楽しそうだな。やっぱりお前、それ、趣味だろ」
「違いますー仕事です。でもこれやってると、俺ってすげー優秀、と思って気分いいかな」
「は、優秀なのかよ」
「優秀だよ。だって、誰も見つけてない高杉晋助の居場所を、俺だけが知ってるもん」
色の付いた粉を筆に乗せながら山崎は言って、
「ね? 優秀でしょう?」
と含むように笑った。
「……違ェねえな」
低く笑った高杉に、山崎は高く楽しそうな笑い声を返す。
誰も知らない指名手配犯の居場所をただ一人知っていて、それを誰にも教えないままにしておくのは、優秀と言えるのか。ということは、言わないでおいた。
言ったら拗ねるだろう。悲しい顔をするだろう。
せっかく機嫌が良さそうなのだ。無駄に怒らせる必要は、ないだろう。
自分のそんな考えに再び低い笑い声を漏らした高杉に、山崎は女のように首を傾げながら、「晋助様、お一人で思い出し笑いなんて、いやらしおすなあ」とふざけたように言った。
「お前、それは、着物に白粉で言う台詞だろ。間違ってるぜ」
「それもそうか」
こんなゆっくりとした時間の流れを楽しめるのなら、今のうち、楽しんでおいた方がいいのだ。きっと。
山崎が、どこを直すのか、というほどきれいに作られた顔に、ちまちまと色を足しては消していく。小指の先を器用に使って色を伸ばしたりぼかしたりしている。何が楽しいのやら、高杉にはちっとも分からないが、何やらひどく楽しそうだ。
美しいもの、きれいなものは好きだが、自分に何かを加えてそれで楽しむ、ということをあまりしない高杉には、山崎の楽しさが少しも分からない。
どう考えても趣味の域だ。ちまちまと、細い小指が動いている。鏡を覗く目が、いつになく真剣だ。
「おい」
短く呼びかければ、「んー」と聞いているのだかいないのだかわからない返事が帰ってきた。
生意気に育ったもんだなあ、と思って、それが、少しおかしい。
「濃すぎるだろ」
「何が?」
「口紅」
「えー、そうかなあ」
地味な色合いだし、こんなもんじゃないかなあ。と答えて、山崎は指先で自分の唇にそっと触れる。
「嫌い?」
「別に、俺の好みでどうこうするんでも、ねェだろ」
「まあそうだけど、でも別に誰の好みでどうこうする決まりがあるわけでもないから、高杉さんの意見でもいいよ。嫌い?」
少し振り返って、どう? とやはり首を傾げて尋ねる。
ふわふわと波打つ髪が肩にかかって、白い首を半分ほど隠している。
「そうさな……」
高杉はすっと山崎に近づいて、その腕を取った。握る感覚はいつも通りだ。特別細いわけでも、か弱いわけでもない。何、と山崎の唇が言葉を紡ぐ前に、その唇をそっと塞いだ。
「……ん、」
鼻に抜ける声が甘えているように聞こえて、高杉の背が粟立つ。
一度離してから、角度を変えて再び塞いだ。先ほどより強めに押し当てられたそれに、山崎の体が少し震えたようだった。
唇を少しだけ離し、唇を少し舐め上げれば山崎がうっすらと目を開く。その目が、控えめな色で色取られている。妖艶、というほど鮮やかではない。飲み込まれそうな、静かな色合いだった。
「……俺ァ、これくらいが、好みだな」
動かないままの山崎の耳元へ唇を寄せて囁いてやれば、山崎が体を竦ませて息を呑む。
それから高杉の体をぐい、と押しやって「最悪」と怒ったように言った。その仕草がやはり女のようだったので、高杉は少しだけおかしく、少しだけ、苛々とした。
くちづけによって取れてしまった口紅を、山崎は再び塗りなおすべく鏡に向かう。小さな鏡を覗き込んで、先ほどまでのくちづけなどなかったかのように平然と化粧を直している。
どこまでが演技で、どこまでが山崎なのか、わからない。目を色取った薄緑の粉のように、境界線があいまいで、ぼんやりとしている。その、ぼんやりとした中に飲み込まれていきそうだ、と高杉は思っている。
見慣れない長い髪を指に絡めて見れば、それはやはりふわふわとしていてきれいだったけれど、人工的で、山崎のものではなかった。
山崎はそんな高杉に構わず、ちまちまと女のような仕草で化粧を直している。
山崎の言っていた時間までは、まだあるだろう。今からそんな、女のように振舞わなくても、構わないだろう。
鏡を覗き込んで小指で化粧を直す、その仕草が気に入らない。
高杉は腕を伸ばして、鏡に向かう山崎の体を後ろから抱きこんだ。腕にきつく力を入れても、抱きしめた体は、女のような弾力を持ってはいなかった。硬くて、骨ばっていて、抱き心地は決してよくないのに、首筋からは甘い香りがした。
ちょっと、と山崎が批難の声を上げる。けれど高杉がそれを無視したままでいると、呆れたように溜息をついて、それ以上文句は言わなかった。
抱きしめる力を少し緩めると、胸元に回された高杉の腕に山崎の手がそっと触れる。
「晋助さん」と呼ぶ山崎の声が、いつものように静かに甘い。
「好きです」と脈略もなく言うその声が、いつものように嬉しそうだ。
高杉は、甘い香りのする首筋に顔を埋めて、目を閉じた。
知りたくもなかった。
鏡に映った自分が、どんな表情をしているのか、なんて。