「野良の獣が獲物さがし?」
突然後ろから声をかけられ、高杉は驚きながら振り向いた。
声の持ち主は分かっていた。だが、その人物がこんな場所で声をかけてくるとは思わなかったのだ。
「いい獲物は見つかった?」
いつになく毒を含んだ言葉で揶揄をし、ひそやかに笑う山崎を睨みつけ、高杉は口元を不機嫌に歪める。それに気付いて、山崎は「ごめんごめん」と軽く謝った。
赤味の強い、丸い月が、その頬を明るく照らしている。
少し疲れたような山崎の笑い方が、はっとするような色気を含んでいる。
「夜の散歩? さすがだね」
よく似合う、と笑って、山崎は細い指を高杉に伸ばした。
するりと指先を握られて、高杉が再び驚きに目を軽く見開く。
夜とは言えど往来だ。月のない晩でもない。明々とした月明かりは、くっきりと山崎と高杉の姿を映し出している。高杉は顔を隠さず晒しているし、山崎も隊服を着ている。血の色の目立たない真っ黒なそれからは、ほのかに煙草の匂いがする。
いいのか、と聞きかけて、やめた。
山崎はそっと高杉の指先にくちづけた。
「……おい」
「血の匂いがするね」
指先に唇を触れさせたまま、目線だけで高杉を見上げ山崎が笑う。
「染み付いてンだろ」
「本当にね」
ひそやかにくすくすと、山崎が笑う。その笑い方が高杉の知らないもので、高杉の心がかすかにざわめく。
疲れたような目もとに指を伸ばしてそっと撫でた。山崎は心地よさそうに目を細めてそれを受けた。
「お前も十分獣だな」
血の匂いが分かる感覚の鋭敏さを揶揄するように言ってやれば、山崎は気を悪くする様子も見せず肩を竦める。
「そうかもね、首輪付きだけど」
「……、」
本当にな。高杉は吐き捨てるように言って、触れていた指を離した。
今だって使役されて、疲れきっている。
離れていく指先を名残惜しそうに山崎の目が追って、その唇から、会いたかった、と言葉がこぼれた。
血の匂いがした。
忙しいのか、という高杉の何気ない問いに、山崎は曖昧に笑って首を傾げた。
教えられるわけないでしょ、ともっともらしく言う。
だったらそんな恰好でこうして会っているのは何故だ、という疑問を、高杉は噛み殺す。
「最近ねえ」
艶を失った髪をぐしゃぐしゃとかき乱しながら山崎は唸った。
「辻斬りが流行ってるみたいだから、気をつけてね」
まあ、アンタなら大丈夫だろうけど、と山崎は苦笑する。
アンタに刀を向けるなんて命知らずな真似、なかなかできないよねぇ、と続けて、それから苦々しい顔をした高杉を不思議そうに見つめた。
「何?」
「……お前、馬鹿か」
「何が」
「俺が、」
ぐ、と高杉は腰に差している刀の柄を握る。
「俺が、仕掛けてんのかも知れねェぞ」
馬鹿にするように笑ってやる。
仕掛けているのかもしれないし、もしかしたら、犯人は自分かも知れない、と刀に手をかけることで知らしめる。
山崎は一瞬呆けたような顔をして、それからおかしそうに笑いだした。
こぼれだす笑い声を噛み殺すように腹を押さえてくつくつと。それから、
「あー……やばいな」
目尻に浮かんだ涙を拭って、
「……アンタが死んだら、泣いちゃうかも、俺」
言った。
獣は疲れると、防御力が下がるのだな、と高杉は一瞬真白に塗りつぶされた頭の隅で思う。
それとも、何より本能が優先されるようになるのか。
これは獣だ。牙を持った。使役される、訓練された獣だ。
勝手なことばかり言って高杉の心を殺していくこれは獣だ。他の誰かの。
そろそろ行かなきゃ、と踵を返しかけた山崎の腕を高杉の手が掴んだ。
驚く山崎の体を、高杉の腕が抱え込む。
後ろから抱きつかれ行動を押さえこまれ、山崎が軽くもがいた。
「俺、仕事中だよ」
「先に声かけたのはそっちだ」
「……でも、もう行かなきゃ」
「それを俺が聞く義理はねェな」
「高杉」
「…………」
「離して」
「……だったら、お前がその手を離しやがれ」
屈みこんで耳元で囁く。回された腕に縋るように手をかけていた山崎の体が強張った。
短い爪が、カリ、と高杉の皮膚に引っ掛かる。
跡を残すほどの力はない。
傷付けるほどの意志はない。
緩く弱くひっかくように、カリカリと爪が皮膚を撫でる。
山崎の体を抱きしめる高杉の腕に力が籠った。山崎は大きな抵抗をすることもなく、されるがままになっている。
そのくせ、
「離して」
と、弱い、か細い声で、咎めるように言った。
(いつだって、悪いのは俺じゃない。悪いのは俺じゃなくて、逃げようとしない、コイツの方だろう)
耳たぶに触れさせていた唇を移動させ、耳の裏側に唇を押しあてる。跡が残るほどきつく吸ってやれば、山崎がきつく高杉の腕を握る。
違う、そうじゃない、そうするべきじゃない、
(お前がするのは、俺の腕を振りほどいて、刀を抜いて、斬りかかることだろう)
気をつけてね、だなんて。
そんな言葉を口にするべきでは、間違ってもないのに。
「お前が俺の、獲物になるか」
首筋に唇を滑らせながら囁けば、山崎が体を震わせる。
せめて首を振って嫌がればいいのに、それもしない。
皮膚にひっかかる爪に少し力が籠る。
明日の朝には消えるであろう、小さく弱い跡が残る。
首筋に歯を立てる。舌を押しあてきつく吸い上げる。
遠くでサイレンの音がする。
山崎の刀が高杉の足に当たる。
「離してくれないなら殺してよ」
血の匂いがする。
高杉は聞こえない振りをした。