音を立てずに襖を開けて山崎は目を見開いた。
息を飲んで、瞬きをして、細く息を吐き出して、出来うる限り気配を殺して一歩足を踏み入れる。
どうして、という言葉は、声にならなかった。
壁にもたれたまま刀を抱くようにして、部屋の主は確かに眠っていた。ゆっくりと呼吸をして深い眠りについているようだった。長い前髪がさらりと流れて真白の包帯があらわになっていた。
音もなく気配もなく山崎はその傍らにそっと座る。少し手を伸ばせばすぐに触れられる距離だ。小さな声でも零せば耳に届くだろう。
どうして、ともう一度唇の動きだけでかたどった。
どうして、そんな、姿を見せるの。
きつく唇を噛みしめる。力を込めすぎて血が滲むのではないかと思う。けれどそうでもしなければ心が落ち着かない。
どうしてそんな。
呼吸が上手く出来なくて、息の吸い方がちっともわからなくて、胸がぎりぎりと締め付けられるようだ。何か大きな塊が喉につっかえているようで苦しい。掌にきつく爪を立てたのは涙を零さないためだった。
声をあげて泣きたかった。
(お前だってそうじゃないかと言われりゃ、それまでだけど)
歩けば二歩になる程度に距離を開けて座りなおした山崎は、高杉の寝姿をぼんやりと見つめてそっと息を吐いた。
(俺とあんたじゃ、事情が違う)
目を閉じて、開く。やはり視線の向こうで高杉は眠っている。侵入者に備えてか、刀をしっかり抱いている。
そんな警戒をしても、目を覚まさないのなら、意味ないじゃないか。
畳の上に置いた自分の刀に視線を落として、山崎はもう一度溜息をついた。
山崎の方が高杉の前で眠ってしまうことは、よくあった。
多分高杉がその気になれば、山崎など一瞬で殺せただろう。今までにいくらでも、その機会はあっただろう。
山崎が無防備にそうするのはわざとだった。いつだって、刀を本気で向けてくれればいいと思っているのだ。自分では上手く今の場所から逃げて傍に駆け寄ることができないから、それで気に食わないならいっそ殺して、と思っている。口にしたことだってある。
結局山崎は怖いのだ。
いつか自分が高杉に刀を向けるようになるのが、怖いのだ。
この人だけは殺せない、という思いが、常に山崎の中にある。技量とはまったく別のところで、山崎に高杉は殺せない。なんとなく、高杉に刀を向ければ、自分の中の何かが音を立てて壊れるような気がしているのだ。
けれど今のままでいれば、いつかは刀を向けることになるだろう。
山崎は今の場所を上手く捨てられない。本当は、捨てるつもりもない。それは結局高杉にいつも刀を向けているのと同じことで、本当はいつでも斬りかからなくてはならないのだ。
だから殺して、と山崎は甘える。
そうなる未来がこわいから今殺して、と甘える。
そして無防備に眠って見せた。傍らで眠るふわふわと緩やかな時間の中でいつの間にか殺されているのならいいかも知れない、と思ったのだった。
山崎は高杉が好きだからそうするのだ。立場と気持ちとで心という見えない器官がばらばらに壊れて血を噴き出しそうになるからそうするのだ。
そんな山崎を殺さないのは、ただ高杉の優しさだ。山崎を、憐れんでいるのだ。
そう思っていたのに。
(高杉さんは俺を、好きだというけど、それはきっと間違っている。あんたは俺を好きでないはずだ。好きで、いられるはずがない。だってそうだろ。俺を好きになったら、あんたはきっと、生きていかれない)
刀を傍に引き寄せ、鞘をきつく握った。本当は自分だって刀を抜いて、今ここで、眠っている人の首を落としてしまうべきだった。それが自分の仕事だった。それを、自分の一生の仕事にしようと、救われたときにそう決めた。
自分の欠落している部分を無理に補わなくてもいいと優しい人が言ってくれたからそう決めた。
(そうでしょう。世界を壊すと言ったのは、あんただ)
高杉はきっとそれ以外には生きる術を持たないと山崎は知っている。知っているから今泣きそうだ。こんなところで無防備に寝姿をさらしていいはずが、ないでしょう。
刀を掴んで腰を浮かし、じりじりとにじり寄った。少しずつ距離を詰める。限界まで気配を殺す。音も立てない。そういう所作は得意なのだ。少しずつ近づく。刀を握る掌に汗をかく。
寝息が、聞こえるかと思うくらいの距離だ。
(俺はいいんだ。殺されたいと思ってるんだから。でもあんたは、高杉さんは、俺なんかの前で、気を抜いちゃだめだ)
だってそんなことされたら自分は刀を抜かなくてはならない。
鞘をきつく握る。汗で手が滑る。ばれないように息を殺しているのか、苦しくて泣きそうで息ができないのかわからない。体が震える。喉が痛い。胸が苦しい。痛い。
どうして。
三度目、心の中だけで叫んだ。どうして目を、覚まさないの。こんなに近くに、刀を振るうべき相手がいるのに、どうしてそんなに安心をして、眠っているの。どうして。
刀を握る左手はそのまま、右手だけ伸ばしてそっと髪に触れた。
零れた前髪をそっと払って、あらわになった包帯に触れる。白いざらざらとした感触。この包帯の下にはどんな傷が隠されているのか、山崎は知らない。
美しく整った顔を左目を覆う包帯が損なっていて、それが高杉の生き方のようだった。
真っ直ぐな心をほんの少し過去の傷で歪ませているのだ。
そう山崎は思っている。
歪んでしか生きられない人なのだと、思っている。
だから自分など傍にいてはいけないのだ。
刀を抜かないのは高杉の優しさでなくては駄目だ。
優しさ以外の思いでは決してあってはならない。
そうであればもう山崎は泣くしかない。
好きだといつか囁いた言葉は高杉の嘘でなくてはならない。
(……でも、俺は、あなたが好きです)
包帯に触れても目を覚まさない。閉じられていた唇が少し開いて吐息が零れる。
愛しくて悲しくて苦しくて痛くて心がどうにかなりそうだ。
山崎はそのまま、指で軽く触れている白い包帯に唇を落とす。
ぴくりと高杉の指が動いて、それに気づいた山崎が体を離すより一瞬早く高杉の腕が山崎の手首をつかんだ。
「……っ、」
「……お前、」
ぱちりと開かれた目が山崎を見つめて、手首を握る手にぎりぎりと力が込められる。
体を引こうとする山崎の腕が刀に当たり鈍い音を立てた。
山崎は顔色を失う。
けれど高杉は、山崎の刀にも、その焦る様子にも目を向けることなく、ただ安心したような息を吐いた。
目を緩く閉じなおす。山崎は困惑する。手首を掴む指だけ、そのままだ。熱い。
「よかった……」
寝言のような曖昧さと柔らかさで、高杉が言った。
「また、いなくなったかと思った」
「…………」
きゅ、と手首を握りなおされる。そのまま軽く引かれて、山崎はおずおずと高杉に近づく。
手首を掴んでいた指がゆっくりと離れて、目を閉じたままの高杉が山崎の髪をそっと梳いた。
泣きたくなるほど優しい動きだった。
「お前、もう、どこにも行くな」
勝手に、ひとりで。
それだけ言って、高杉は少し笑む。見たこともない優しい顔だ。
もしかしたら寝ぼけているのかも知れない。山崎の心臓がおそろしくはやく脈打つ。
悲しくておそろしくて声をあげて泣きたかった。
高杉は長く目を閉じて、少し開き、また閉じて、ゆっくりとした瞬きを繰り返している。
まだきっと半分、夢の中にいるのだろう。
優しく山崎の髪に触れている。
唇を噛みしめて山崎は叫びだすのを堪えた。喉が塞がって息ができない。指の先まで冷たく痺れて少しも刀が握れない。
山崎の一部は欠落している。本当は自分が何者かもわからない。それはきっと心が拒絶しているのだからそのままでいいのだと優しい人がそう言った。だから自分はその人のために命を捨てようと誓ったのに。
緩く瞬きを繰り返す高杉が、山崎の上で焦点を結んで少し笑ったように見えた。
泣きたいので歯を食いしばって耐える。
本当は、欠落している部分にこの人がいればいいのにと、ありえもしないことを少し、願っている。
掌が汗ばんでいるのに指の先まで氷のように冷えて息ができず体が強張って、少しも刀が、握れない。