緑の雑草の中群生するそれは死の花だと幼い頃には教えられた。あまりにうつくしく、そしてたくさん生えているので、一本ぐらいなら構わないだろうと手を伸ばせばその手を叩いて止められた。そうしたのは母だったか、父だったか、それとも師匠と呼んだ人だったろうか。
いや、師匠と呼んだその人に出会った時分は自分もそこそこ成長していて物事の分別もある程度はわきまえ、その花がどんな花かということも知っていただろう。であれば記憶の中にあるのは、やはり父か母だ。
毒があるから触ってはいけない、と言われて、ひどく残念に思ったことを覚えている。毒があると言われてもまだなお、その花は何よりうつくしく見えた。いや、毒があると言われたからこそ、それは一層うつくしく見えた。開いた花弁が絵物語で読んだ化け物の口のようにも見え、ああこれは、そのうつくしさで人を誘って喰らうのだな、とそんな風に納得した。
その花を、山崎は平気な顔をして手折っていく。花束のようにして抱える腕の中から、花がこぼれそうになっている。
どういう神経をしているのだろう。信じられない。
「高杉はさあ、迷信とか信じるタイプでしょう」
おかしそうに笑いながら山崎は、真っ赤な花束を抱えなおした。
遠くから見れば薔薇の花束のように見えるかもしれない。種類は確か百合の仲間だったか。百合ほど香りはきつくない。
「こんなのはさあ、食べたら毒ってだけで、別に花に罪はありゃしませんよ」
「罪もねえ花を手折るか、おめえは」
「詩人ですねえ。でも生憎俺は、そういう情緒を持ち合わせちゃいませんしね。やれって言われたから、やるだけでさァ」
どうせだったら手伝ってくださいよ、と軽口を叩いて、山崎は軽く伸びをする。同じ体勢でずっと屈みこんでいたから、体も痛むのだろう。そう言えば自分も山崎に付き合ってずっと傍についていたな、と気づいて、高杉は軽く首を回した。
定宿の裏手にその花が咲いているのだと教えたのが間違いだった。ちょうどその花を探していたらしい山崎に連れだされ、今に至る。
元より緑の多い場所ではない。山崎に無残に摘み取られ、赤い花はもう数えるほどにしか残ってはいなかった。
「そんなもん、何に使うってんだ」
「葬式です」
「葬式?」
「この花をね、好きだった奴がいたんですよ。秋に死んだら添えてくれっつって、本当に秋に死んじまうあたり、出来過ぎてますよね。きれいすぎらァ」
俺はそんな死に方やだな。小さく笑ってそう言い、山崎は高杉を振りかえった。両腕いっぱいに、とまではいかないが、数えるのは少し難しいくらいの数の、赤くうつくしい死人の花を抱えている。返り血を浴びた姿に似ていた。
「……茶でも飲んでいくか」
「うん。花瓶貸してくれると嬉しいな。帰るまでにしおれたら困るし」
「はやく帰らなくてもいいのか」
葬式だと言うのなら。少し眉をあげた高杉に、山崎はへらりとした笑みを返し、曖昧に言葉を濁した。もう結構経ってるし、とか、どうせ形式的なもんだし、とか。
絶えず、人が死んでいくことが、当たり前の場所に、そういえば山崎はいるのだった。
平穏そうに見えるがゆえに一層残酷でもある。高杉などはもう、葬式、という考え自体が、あまりないので。人は絶えず死にもするが、端からその存在を消失させているような人間ばかりなので、今更完全に命が絶えたからといって、何をするということもない。
だが、自分を慕う数人の、言うなれば部下たちが、死ねば、自分も少しは悲しく思うだろうか。好きだった花を探して、手向けたいと、思うだろうか。
考えて打ち消した。そもそも、山崎のいる場所と自分のいる場所とでは、何もかもが違いすぎて比べられも揃えられもしない。どちらがよりマシか、というのだって、主観的な問題だ。
渡した茶に躊躇いもなく口を付けた山崎は、それをそっと喉の奥に流し込み、ほう、と満足げな吐息を吐いた。貰いものだと言って開けてやった金平糖に手を伸ばし、がり、と色気も可愛げもなくかじる。
「金平糖ってかじるのが正しいの? 舐めんのが正しいの?」
「知らねえよ」
「あと、いくつぐらいずつ食べるのが適量なの? いまいちわかりづらいよね」
「文句言いながら食ってんじゃねえよ」
「別に不味いっつってんじゃないんだから、いいじゃん」
へらへらしながら甘い砂糖の塊を口にし、茶でその甘さを流し込む。毒の花の茎でもすり潰して混ぜておけばよかった、と高杉が一瞬後悔するほどだ。
小さな花瓶に押し込められたその花をぼんやり見ながら、山崎はぬくい湯呑みを両手で持ち直す。これからそれを贈る故人のことでも考えているのだろうか。
高杉も、釣られるようにしてそちらに目を向けた。
赤は、赤だけではさして特別な色でもないように思える。名もない緑の雑草に囲まれてこそ、ぞっとするほどうつくしく見えるのだな、と気づいた。
緑と、赤と、空の青と。まぶしすぎる原色の対比が、きっと必要なのだ。薄汚れた畳の上、殺風景な部屋の中飾り気のない花瓶に収まったその花は、毒気を抜かれたようにも見えた。
今なら触れても、誰にも叱られることはないだろう。思えば少しおかしい。もう、誰が自分を叱ったのかすら思い出せないのに。
くつくつと小さく笑えば、山崎が不審げな顔で高杉へと視線を戻した。
「気持ち悪い」
「あんな花せっせと集めるお前には言われたくない言葉だな」
「だから俺のは仕方ないんだって」
「情緒がねえんだろ、お前には」
「高杉が詩人すぎるんだよ」
触ったら死ぬとか思ってんでしょう。高杉の記憶を読んだかのように山崎が薄く笑って、空になった湯呑みをそっと畳の上に置いた。窓の外にさっと視線を走らせる。日が落ちるのがはやいので、外はすでに夕暮だ。
「帰るか」
「そうだね……」
「置いて帰んじゃねえぞ、花」
「うん……」
ぐずぐずと、山崎は動かない。何かを求めるようにして高杉を少し見、また目を逸らすのが、高杉には気に入らない。
半分ほど茶の残る湯呑みを畳の上に置けば、山崎の指がぴくりと動いた。その指にゆっくりと手を伸ばす。山崎は緊張したように息をつめていて、高杉の手が山崎の指に少し触れた瞬間、細く息を吸った。
「お前に似てるな」
「なにが」
「あの花が」
「……どこらへんが?」
おどおどとしたような目で、山崎が長い前髪の隙間から高杉を見る。その視界に焼き付けるように殊更ゆっくりと高杉は山崎の手を持ち上げ、その指先に、そっと唇を落とした。
ぴくん、と山崎の指が跳ねる。
「触ったら死ぬか」
「え、」
「手折ってやろうか」
ぐ、と山崎が、何か塊を飲みこんだような顔をして、息を止めた。
高杉の手の中にある指先が細かく震えだす。
瞬きの回数が多くなり、視線がきょろきょろと動く。唇を薄く開けたり閉めたり。戸惑う山崎の様子に高杉は目を細め、その手をそっと解放してやった。山崎の口から小さく声が零れる。惜しむような、声だ。
「帰るんだろう」
「……うん」
「じゃあ、早く帰れ」
日が暮れるぞ。窓の外を示せば、山崎は慌てたような顔になって、それでも高杉の様子を伺いながらそっと立ち上がった。死に誘う赤い花を花瓶から引き抜く。ぱたぱたと水滴が畳に落ちる。
「何か、包むものがいるか」
「いや……うん、大丈夫。外で摘んで帰ったって、ことにするし」
「そうか」
「うん……」
ぎゅ、と抱きしめられた哀れな花が、山崎の腕の中でしなる。
薄暗くなっていく部屋の中で、赤の色はくすんでみえる。本当に返り血のようだ。うつくしい、のは、花だろうか。それとも。
山崎は花を抱えたまま、なかなか部屋を出て行こうとはしない。高杉もそれ以上、追い出すような言葉を紡げない。
湯呑みを手に取り、半分残った茶を無理矢理口の中に流し込んだ。冷めていて不味い。本当に、これに毒でも入れておけばよかった。
あともう少し留まられたら、きっと、その手を取りたい衝動を抑えきれなくなるだろう。触れたら死ぬとわかっていても。
気取られないよう高杉は山崎から目を逸らし、窓の外へと目を向けた。赤い空が広がっている。端からどんどん暗くなっていく。炎が消えて行くようでもあるし、血が渇いていくようでもあるし、空が死んでいくようでもある。
なかなか動かない山崎の気配に焦れて、再び高杉はそちらへと視線を向けた。
そして、目が合い、後悔をした。
乞うような目を、山崎はしていた。祈るような目を、していて、高杉の視線とかちあうと恥じるようにさっと目を逸らした。窓の外の明りに照らされ頬が赤い。
(ああ、これは……)
そのうつくしさで、人を誘って、喰らうのだ。
触れたらきっとそれだけで、喰らわなくても、死んでしまう。
高杉は薄く目を閉じて、静かに奥歯を噛みしめた。