安物の陶器が触れ合って耳障りな音を立てたが案外懐かしいような気がした。安っぽい酒の匂いも懐かしかった。まるで長い夢から覚めたような錯覚を覚えながら、高杉は猪口に満たされた安い酒を口に含む。最近飲んだ上等な酒たちよりもずっと喉を心地よく焼いてくれるような気がして、小さく自嘲した。それはさすがに感傷が過ぎる。
「久しいな、こうして酒を酌み交わすのは」
「珍しいな、テメエがこうして誘うのは」
軽口を叩きながら酒を飲み箸を伸ばす。軽く火で炙っただけの鱈子が飾り気もなく皿の上に置かれている。そうさな昔はこういうものばかり肴にしていた、と口元を緩め、高杉は焼き目のついたそれを口に運んだ。
「最近お前の様子がおかしいと聞いてな。さては気でも変わったのか、と思ったのだ」
「何の話だ」
「お前の策には建設性がない。未来がない、と思っていた。感心せん。賛同できん、が、お前が変わったとなれば話は別だ」
「相変わらず回りくどい物言いだな、ヅラァ。言いたいことがあるなら簡潔に言え」
肴に手を伸ばさず黙々と酒を干していた桂は、いつものように名前を訂正したりしなかった。空になった猪口を黙って置き、少し考えるような間を置いて高杉へと顔を向ける。
「守る気になったか」
「あ?」
「何か大切なものでもできたか、高杉」
高杉は口元に浮かべていた笑みを消した。
桂は面白くもなさそうに、いつも通りの浮かない顔で高杉をじっと見ている。いつもそうだ。自分と二人でいるときは面白くもなさそうな物憂い顔しかしないのだった、と高杉は過去を振り返る。いつもそうだった。どうでもいいことを真剣に論じて、武士道というものを殊更大事にする人間だった。
たとえば、刀というのは何かを守るためにあるのだ、という考えが、そうだ。
殺すためではなく生かすためにある、という、きれいごとだ。
「……何の話だ」
「蛇の道は蛇、というが、俺のところにもいろいろと、情報は入ってくるものでな。特にお前は攘夷志士からは英雄視されている人間の一人だ。小さな噂でもあっという間に広まるぞ」
「回りくどい言い方すんじゃねえよ。何が言いたい」
「わざわざ何故、江戸に留まっている。俺以上にお前は目を付けられているのだと、俺は忠告したと思ったが」
「それはそれは、痛み入るぜ。だがな、俺がどこで何しようが、テメエには関係ねえだろう」
「幕府の狗とじゃれあうのも大概にしろ、と言っているのだ」
カンッ、と安物の陶器が耳障りな音を立てて転がった。投げられた猪口に残っていた酒が桂の着物に飛び散る。桂は嫌そうに眉を上げ、酒のついた部分を着物の袖で神経質に擦った。
「相変わらず、育ちのわりに行儀が悪いな」
「お前、どこで何を聞いた」
「何、噂さ。他愛もない、な。お前が江戸に残っているということ。それだけでなく、ずっと一つのところに留まっているらしいこと。まあ、これだけ見れば、また何か企んでいるのではないかと思うだけだが……」
転がった高杉の猪口を置きなおし、桂はやっと箸を取った。焦げた部分を避けるようにして鱈子をつつく。
「どうもそこに、頻繁に人が訪ねてくるらしい」
「それがどうした。お前だって毎日飽きずに人を集めて、ご高説を垂れていやがるじゃねえか。お前の言う通り俺が英雄なら、訪ねてくる輩だってあるだろうよ」
「そこだ、高杉」
感心しない、というような顔を桂はした。こういう顔も、そう言えばよく見たな、と高杉は薄く思い出す。人を諌めるのが好きな人間なのだ。そのくせ、自分の行動が非常識で突拍子もないとは信じようとしない。頭が悪く厄介でどうしようもない。
それが問題なのだ。と大仰に言いながら、桂の手は熱心に鱈子をつついている。空になった杯に酒を注いでやるほど高杉もお人よしではないので、言葉の続きを黙って待った。立ち上がって帰らないだけ、高杉にしては上出来だった。
「お前を英雄視しているものはたくさんいてな。お前に近づきたいと思う者や、お前に取り入りたいと思う者も、いるだろう」
「それがどうした」
「あれは時に厄介だな。こちらを勝手に美化して、自分の想像と少しでも違うことをこちらがすれば、すぐにそれは憎しみに変わる。タチの悪い……ああ、恋に似ている、と言ったのは、お前だったか?」
「辰馬だ」
「ああ、そうか。そうだったな。そう、アイツの言うように、それは恋に似ている。身勝手で理不尽で我儘だ」
「だから何だ」
苛々とした声音を隠そうともしない高杉にちら、と視線を向け、桂はわざとらしく溜息をついた。手酌で注いだ酒を勢いよく煽り、焼ける喉の痛みを楽しむかのように暫くじっとしていて、それから、
「嫉妬もするだろうさ」
短く言った。
それから小さく笑った。場違いな笑いだった。
「お前の元に足繁く通うそれが誰か、気になったのだろう。後を付いていったのだと。人気のない道をわざとそうするように遠回りして、着いた先が傑作だ」
「それはお前んところの下っ端か」
「そういう言い方をするな。同志さ」
「探らせたんじゃあるめえな」
「どうして俺がお前の動向を探ったりするというのだ。若い人間が、勝手に憧れて勝手に詮索し勝手に幻滅する。よくある話さ。それだけなら、酒の肴にもならん」
だが、幕府の狗が相手では話が別だ。と桂は言った。
高杉、と低い声で名前を呼ぶときは、説教を垂れる前だと言うことを、高杉は知っていた。
遠い昔にそういうことが幾度もあった。あれは喧嘩というのかも知れない。
そんなことを、した日もあった。こうして思い出すきっかけがなければ忘れてしまうくらい、淡く薄く儚い思い出だ。
「高杉、お前はそやつを、守る気があるのか」
「どういう意味だ」
「大切ならば、やめておけ。今みたいな無茶はな。もっと建設的な、未来のある道を探せばいいさ。刀を捨てずとも、それくらいは出来る」
「随分腑抜けたことを言うんだな」
「その腑抜けた道が嫌ならば、やめておけ。お前も相手も傷つくだけだ」
二度目の「やめておけ」は、鋭すぎる視線とともに寄越された。
高杉は唇の右端をゆっくりと持ち上げる。
くだらねえ、馬鹿げていやがる、頭が悪いのだ、理論的に考えようとするからいけないのだ。言葉にはなったが、口にはしなかった。挑発的な笑みを浮かべた高杉を、桂はきつく睨みつける。
「俺は、お前のためを思って言っているのだぞ、高杉」
酔っている癖にきれいごとを言う。昔からそういうところが大嫌いだった。
高杉、ときつく名前を呼ばれ、肩に手が伸ばされたので思わずそれを撥ね退けた。ぱしん、と音が響いて、桂が顔を顰める。
「お前んとこの若いのに言っておけ。見間違いをぺらぺら喋り歩いても、自分が恥をかくだけだってな」
「間違いではあるまい。現にお前は、」
「俺が誰とつるもうが、俺が何に命をかけようが、テメエには関係ねえだろ。お前にそれで迷惑をかけたかよ、ヅラァ」
「ヅラじゃない、桂だ」
割合はっきりとした声で今度はきちんと訂正をして、桂は右手に握ったままだった箸をそこでようやっと置いた。カチャン、と耳障りな音。どうしようもなく懐かしい、安っぽい音だ。
「お前の言う通りさ。腑抜けた道なんざ歩むつもりはねえよ」
クク、と低く笑って、高杉は立ち上がった。しゅる、と衣擦れの音がやけに響く。高杉をゆっくりと見上げて、桂は怪訝そうな顔をした。
「どうするつもりだ」
「生憎俺は、生かすための刀なんざとうに捨てた。殺すための刀しか、持っちゃいねえよ。そして俺はそれを捨てる気もねえ」
「だが、お前」
「守るもんなんか、ひとつっきりしかねえんだ。最初からな」
傍らに置いていた刀を持ち上げ、腰帯に刺す。それをただじっと桂は見ている。何か言いかけようとしたのか、口を開いてすぐ閉じた。
目を伏せる。やたらと長い髪がその顔をすぐに覆い隠した。またきっと、沈鬱な顔をしているのだろう。
「高杉」
細い声で桂が呼んだ。説教じみた声でなかったので、踵を返しかけていた高杉は足を止めた。
「お前はそれで、いいのか」
何が、とは聞けなかった。
いいのさ、とも言えなかった。
ただ口を引き結んで、高杉はそのまま踵を返した。今頃になって、飲んだ酒の安っぽさが鼻につく。心地よい酩酊感はどこにもない。今と昔とでは、何もかもがあまりに違うのだ。
桂は高杉を呼び留めなかった。呆れたのかも知れないし、呼びとめても無駄だと悟っているのかも知れない。
外に出れば、雨が降っていた。音もないので気付かなかった。
高杉は掌に細い雨を受け止めて、俯く。失った目を隠すために伸ばした長い前髪がすぐに濡れてしっとりと重たくなる。
「守れるわけが、ねえだろう」
自分は一度捨てたのだ。何もかも。
刀の柄をきつく握って、抜き、斬った。空気が斬れる音は雨に吸い込まれ、静寂。
そっと刀を鞘に戻す。
守るための刀なんて最初から持ってはいない。結局自分は、殺すための刀しか握れないのだ。建設的でない、未来がない。それでも。
目を閉じた。手を、柄から離せなかった。会いたくなったが、名前は呼べなかった。
守れないのなら捨ててしまえとそれは確かに正論なのに、どうしたって従えない。くだらねえ、馬鹿げていやがる、頭が悪いのだ。思いはするけど正せない。
大切なんかじゃない。大切になんかできない。壊してでもいいから連れて行きたい。壊せやしないから手放したい。
蹲りたいような思いを抱えている。柄を握る手が白くなるほど力を込めた。焼けて痛む喉から絞り出した声が、三文字紡げて愛しい名前になったか、どうか。