畳の上に無造作にこぼれている細い黒い髪に触れようとして、手を止めた。
 そんなことにも気付かずに、傍らで眠っている山崎を静かに見下ろす。規則正しい寝息が耳に届いて、それだけでどうにかなってしまいそうだった。
 意識を向けないようにして、広げた本へと目を落とす。機能する方の目が疲労を訴えるのか、視界が霞んだ。もとより、本の内容などこの状況で目に入るわけがないのだ。そう諦めて、本を閉じる。傍らに置いて、喉を潤そうと手を伸ばした先の湯のみには、すでに中身がないのだった。
 ああ、どうも溺れている。
 まさしく。耳に届く規則正しい穏やかな呼吸音とは対照的に、浅く呼吸を繰り返している自分。気付き、深呼吸して、苦笑する。どうも溺れている。普通ではない。尋常ではない。
 どうも、それは火の中に溺れているようで。
 血液の中に滲み、それと気付かせずに全身を侵していくような感情が煩わしくて、振り払うように溜息を吐く。灯りをつけない室内はすでに薄暗い。起こさなくては。思ったが、やめた。誰がそんなことをしてやるものか。そんな、親切な。
 できることなら――――――……。
 沸き起こった衝動に、咄嗟に蓋をした。見て見ぬフリで軽く頭を振り、先程ためらった指先を、今度は目的を持って伸ばす。黒い髪に指を絡めて、軽く引っ張る。二度、三度。小さく声を漏らして、山崎はうっすらと目を開けた。
「……たかすぎ…さん…?」
 まだぼんやりと、焦点の合わない目をしている。瞬きを繰り返し、目をこすり、やっと覚醒に向かう。その間高杉は、山崎の髪に指を絡めたままだった。
「起きたか」
「うぅ……寝てた…」
「なかなか可愛い寝顔じゃねぇか」
 くつくつと喉で笑ってからかえば、山崎はくすくすと笑って起き上がる。
「俺が寝てる間、何してたの」
「別に」
 問われて、目をそらす。何をしていたわけでもない。ただ…そう、少し考えていた。少し、考えて、恐ろしくなっていた。それだけだった。
「監察も大変だな。忙しいのか?」
「それをアンタに教えられるわけがないでしょう」
 笑って、寝癖のついた髪を撫で付ける、その態度が苛立たしい。しかしそれは表に出さず、高杉はいつものように口角を上げてにやりと笑う。
「そりゃそうだ」
 まさかこちらに、仕事の内容、進行状況を、教えるわけにはいかない。そんなことはわかっているし、別にそんなことを聞くために、彼を傍に置いているのではなかった。
 それでも。そんなことに気が回らなくなるくらいに、なってはくれないものかと思う。
「お前は本当、優秀な監察だよ」
 吐き捨てるように笑って言えば、山崎の動きがぴたりと止まった。
 視線をそらした高杉は、左頬に感じる視線に居心地の悪さを覚える。こちらを見ているのか、左目を見ているのかわからず、余計に。
「高杉さんは、俺に、何をさせたいの」
「別に。……お前こそ、のこのこと敵の懐に来て無防備に寝てんじゃねぇよ」
「…………」
 山崎が、目をそらしたのがわかった。お互いに、言ってはいけないことを言っている。不本意な言葉を口走っている。そんなことが言いたいわけではなかったが、何をさせたいのかと問われて、答えることなどできるわけがなかった。
 視線をはずしたまま、高杉をすっと息を吸う。
――――――――殺すぞ」
 ひたり、と。背筋に忍び寄る声だった。けれど、刃物の殺気をもつ声では、なかった。
 しかしそれは、紛れも無く。
 答えない山崎の様子を伺うこともなく、帰れば、と促す。薄暗く輪郭のぼやける室内は、夜の気配を濃くしていく。外の光を連れる窓を、塞ぐことができたなら。それができない以上、たとえどんな甘い言葉を吐いても、放った言葉に後悔をしても。それに酔うこともできず、この部屋に一人になる時間はやってくるのだった。
 それならばもう、二度と来るなとは。どうしても、まだ、言えない。
 山崎はすっと立ち上がり、しわのついた衣服を、手のひらで撫でる。一度だけ高杉を見て、くるりと踵を返した。部屋を出る、その前に、立ち止まる。襖に手をかけ背を向けたまま。


「いいよ。殺して」


 そう、聞こえたような気がした。


 くらりと、眩暈がする。
 言葉の甘さに、溺れそうだ。


「高杉さんは、俺を、どうしたいの」


 静かな声で、そんな、甘い言葉をかけないでくれと思う。背を向けて、そんな言葉を落として行くくらいなら、何も言わずに立ち去ってくれはしないか。


「失礼します」


 止まっていた時が俄かに動き出したかのようだった。するりと山崎は姿を消す。
 取り残された高杉は、輪郭のぼやける曖昧な部屋の中、壁にずるりと背を預けた。


「『どうしたいの』?」
 問われた言葉を反復して、はっと笑い飛ばして、緩く目を閉じる。
 どうにかしたいわけではない。どうにかしてしまいそうなのだ。
 何かをさせたいわけではない。
 ただ。


 ただそこに居ればいいのだ。たとえば寝息の届く距離に。何も考えずに居てくれればきっとそれでいいのだ。
 ただそれだけで、けれどそれを答えれば、どうにかしてしまいそうなのだ。持て余す、煩わしいこの感情を、どうにかしてしまいそうで。


「お前が俺を……」


 たった一度きりでも口に出せば、もうどうしようもないことが分かっているから、言わないと心に決めた。たった一度でも認めてしまえば、どうにかなってしまうと知っているから、認めないのだとそう決めた。
 穏やかな呼吸までもを、欲するのだ。血中を流れるこの毒は。
 それでも答えを欲しがるのなら、お前が俺を殺せばいいのに。


「まったく……溺れてやがるぜ……」


 耳の奥に未だ残り、室内に静かに落ちたままの、言葉を拾って眩暈がする。
 卑怯だろうと呟いて、高杉は乾いた声で笑った。

      (05.04.04)