雨はあまり、好きではなかった。
 嫌いだと思いながら嫌いになりきれない自分を自覚して吐き気がする。香りだとか空気の重さが、攫われた全てを見せ付けるかのようにして肌を撫ぜる。雨の日はあまり、好きではなかった。
 ふわりと纏わりつく空気の柔らかさに、雨が降っているのだと気付いて起き上がるのをやめた。今日は、外へ出ようと思っていたのだが、やめた。いい加減この場所を離れようとしていたのを見透かされたように雨が降っていた。どうも、何かの差し金のようで。気分が悪い。行くなと引き止められているようで苛立った。行く場所もないが、帰る場所もないはずなのだ。この巣も、たいした巣ではないのだった。血の騒ぐままに駆けて駆けて駆けて、そうして、そう、できることなら雨の中で、死にたいと、そう思っていた。全てを奪った雨の日に死ねば、全てを取り戻せる気がしていた。
 ごろりと寝返りをうち、浅く呼吸をする。ふうわり。纏わりつく、湿気を含んだ重く柔らかい空気。耳を澄ましたが、雨の音はよく聞こえなかった。優しく降っている雨が一番嫌いだ。
 ひとつ深呼吸をして、高杉は体を起こした。
 疼くような傷口を軽く押さえる。痛みなどないと思っていたらこれだ。不愉快で仕方ない。雨など降らなければいい。朝など来なければいいと願う同じ強さで、そう思う。
 立ち上がって、軽く目を閉じ呼吸をする。静かに。雨の音は聞こえない。優しい雨は狡いのだ。からりと襖を開いて、部屋を出た。階段を下りて、宿屋の、入り口の所に無造作に置かれていた傘を手に取った。躊躇い、開いて、外へ出た。
 音はせず、雨は静かに降っていた。
 湿った重たい空気の中で血の香りがした気がして、誘われるように歩き出す。鉄の、錆びた匂い。赤の匂いが雨の香りに混じってする。それは、単に雨が降るよりも鮮明に、攫われたものを連れてきた。例えば目を閉じて開けたら戻れる程に。そう思ってしまう程に。


 雨に溶け出し流れ出す、細い紅の流れのその先。


「………何、してんだ…?」


 居たのは瞳の奥に冷たい光を宿した人だった。何の感情も浮かべないように? 否、今にも笑みを浮かべそうに軽やかに、淡々と、血のついた刀を振って。刀に付着していた血が周囲に小さく飛び散った。こんな顔もできるのかと今更のように知った。こんな風に、人を殺すのかと、今更のように知った。


――――――――あ」
「…………」
「高杉さん」
 ふわりと、曖昧に笑った山崎は、転がる死体の着物の裾で刀を丁寧に拭い、鞘に戻した。微笑んだまま。いつものように少し壊れそうに微笑んだまま。そういえば、こいつの満面の笑みをついぞ見たことがないと、そんなことにすら、今更のように思い至った。
「外で、うろうろしてて、いいの?」
「……さあな」
「真選組に見つかったら、捕まるよ。今その辺うろうろして……――――っ」


 引いた腕はいつものように少し細かった。壁に押し付けた体は、いつものように華奢に見えた。戸惑ったような表情も、よく知っているものだった。
 雨が、降るから、いけない。
 浚っておいて、奪っておいて、それでもまだ尚雨が降るから、いけない。
 雨の香りに混ざって、血臭がするのだった。錆びたような、匂いが、雨に混ざって。
 流れ出る赤は雨に溶けて薄くなりやがて消えていくのことを知っている。骸だけが残されて、物も言わず、ただ、それを見つけて涙する仲間を映らない瞳に映すことを知っている。雨は嫌いだ。夜な夜な襲い、攻め立て追いたて、己の未来を奪った者を決して許しはしないその亡霊を、思い出すから、雨は嫌いだ。

 何もかも、守りたいと思ったものすら、音に紛れて香りに紛れて簡単に。
 連れ去る雨も、雨の所為にする自分自身も。

 せめて目を、逸らしてくれればよかった。蔑んだ視線を寄越してくれるのでもよかった。戸惑いを滲ませながら、真っ直ぐに見ないで欲しかった。いつかのように、戸惑いながらそれでも真っ直ぐ、こちらを見ないで欲しかった。
 自分の力で、自分の意思で、逃げ出してくれればまだ救われた。

 もう、駄目だと知っていた。声を聞いたそのときから、逃げ出せないと知っていた。一度諦めた背を再び追いかけたときから、逃げ出せないとはわかっていた。それでも逃げ出したかった。彼は、仲間を奪った者を庇いたてる人間なのだと、知っていた。
 何も知らないこと、覚えていないこと、一緒にいても苦しめるだけだということ。
 知っていながら。そして、止まらないと知っていながら。


 懺悔のようにくちづけた唇は雨に濡れて冷たかった。


 離した傘は骸の傍に転がって、開いたその中に雨水を溜めている。徐々に強くなる雨脚につられ、雨音も大きく響くようになる。流れ出した血の色は薄れ、血の匂いももう、薄れてしまった。


「………退」


 呼べば少し笑ったようだった。彼はいつものように、寂しそうに笑ったようだった。
 遠くで、サイレンの音がしていた。雨の音の奥で。雨に濡れた黒髪と白い肌に誘われて、もう一度くちづけた。せめて抗って欲しかった。全力で。抗って逃げ出して、そうして欲しかった。


 雨に混じって仲間の声が聞こえたような気がした。
 かき消すように、山崎は高杉の名を、小さく呼んだ。

     (05.05.14 - 08.05.12修正)