両手に沢山花を抱えて。
花の香りに紛れるように。
からり、と襖を開けた先には、死んだように眠る人が居た。
真っ白な包帯に隠された左目。閉ざされた目を縁取り影を落とす長い睫。白い肌に、薄い色の唇。紫地の着物を飾る大輪の花は黒の彼岸花。
死んでいるようだった。けれど実は、眠ってもいないのだろう。
山崎はそっと膝を付き、両腕に抱えていた色とりどりの花をそっと畳の上に置いた。
階下の主人に花瓶を借りに行かなければ花が駄目になってしまうのは分かっていたが、何となく、離れがたくて山崎はそのまま腰を下ろす。
死んだように眠る振りをする目前の人は、よくよく見なければ分からぬ程静かに呼吸をしていた。
目を逸らしがたくて、山崎は、その人を静かに見つめていた。
最後の日に口吻けをしてから、顔を見るのはこれがはじめてだった。
あの雨の日、請うように苛立つように逃げるように謝るように口吻けた高杉が本当のところ何を考えていたのか山崎には実のところまったくわかっていなかった。
ただ、口吻けられて、思わず名前を呼んだ。
そして、突き飛ばされた。それっきりだ。
雨の隔てたすぐ先では真選組の仲間がうろうろしていたし、そんな中で敵と仲良く顔を突き合わせているなど愚かなことだったとは思う。あれで見つかっていれば、自分は切腹、高杉は良くても深手を負うことになっただろう。
「……密通じゃあ、ないんだけどなァ」
では何かと聞かれたら、山崎には答えられない。
ただ、突き飛ばされたことにショックを受けた自分に驚いて、それだけだ。
このまま連れて逃げて、と、喉元まで出かかった。それだけだった。
ようやく立ち上がり、階下に下りて宿の主人に花瓶を借りる。あの人どういう人なんだい、別にどうでもいいんだけど、と言う主人に曖昧に笑って部屋へ戻る。ふと、あの人はいつまでここにいるつもり何だろうかと不思議に思う。
定住しているわけではないようだったが、引き払う様子もないようだった。
山崎が尋ねたとき、いる確立は半々だったが、それでもいくつかの私物は置かれたままで、そのまま帰ってこないということはなかった。
いつ、会えなくなるんだろう。
いつまで、会うつもりなんだろう。
どうして、自分は、何一つ裏切る勇気もないくせに、勇気どころから端から裏切りを考える気もないくせに。
花瓶を持って部屋に戻っても、部屋の主は死んだように眠った、振りをしていた。
花屋で適当に買ってきた花を適当に花瓶に突っ込んで、適当に水を入れて、窓際に置けばそれらしく見えた。少し、部屋に明るさが生まれたようで、それがなんだかおかしかった。
いつだったか、同じように窓際に花が飾られていたことがあって、造花であったそれが枯れるまではここへ通うと戯言のようなことを言ったことを思い出す。
花が枯れるまで、とうわ言を言った山崎に、この部屋の花は枯れないと返したのは高杉だ。
それがどういう意味なのかは、考えたくなくて首を振る。思考を霧散させ、帰ろうとして、結局また目が目の前の人に吸い寄せられた。結局また、畳の上に座り込んで、何をするでもなしに目の前の人を見つめることになった。
引力でもあるのではないかと時々思う。
視線も心も何もかも吸い寄せられる強い引力のようなものがあって、そこから逃げられないのじゃないかと思う。
それが、一方的なものなのか相互的なものなのかは分からない。
一方的であれば腹立たしいと思う反面、相互的なものであれば恐ろしいなとも思う。
連れて逃げて、とあの時思った。
殺して欲しいと、いつか請うた。
何一つ裏切れないくせに、裏切りを考える気もないくせに、時々湧き上がるその感情が恐ろしくて、逃げ出したくて、それでもどうしてだか、この部屋に来ることをやめられない。
「……アンタは俺の、敵なのに」
真選組の敵なのに。
「……俺はあの人たちを裏切れないのに」
自分の命はあの隊の、突き詰めれば副長のためだけにあるのに。
「……それが俺の絶対なのに」
命を助けられた恩は一生忘れないし、その瞬間、自分の所有する命など捧げるために捨てたというのに。
「…………なんで、アンタが好きなのかな」
目前に横たわる人は、ぴくりともしなかった。
一瞬呼吸が深くなった気がしたが、恐らくそれも、気のせいだったろう。
花屋で色鮮やかな花を見たら、どうしてだか見せたくなって、見せたら笑ってもらえるような気がして、気が付けば買いこんでいた。当たり前のように宿へ足を運び、当たり前のようにいつもの部屋を訪れて、当たり前のように勝手に花を飾った。
見せたくなって、笑って欲しくて、寝姿からも目がそらせなくて、会話もないのに帰れない。
買ってきた花はいつか枯れるだろうが、あの花が枯れる前までに、自分は逃げ出すことができるのだろうか。
ここから。それとも逆に、連れて逃げてくれはしないか。
「攫って欲しいなァ」
自分からは逃げられないので。理不尽に奪ってくれたら、どうとでもなるのに。
「…………晋助さん」
雨の中で呼んだ名前を、再びそっと口にした。
呼べば、泣きたくなるのは何故だろう。
あの時無性に、この名前を、呼びたくなったのは何故だろう。
「――――――好きになって、ごめんなさい」
呟き、屈みこみ、起きているのを承知で頬にくちづけた。
払われはしなかったが、目を開けられもしなかった。わずかに呼吸が乱れたようで、それだけでもう、泣きたくなった。
わかっているのに。分かっていたのに。
自分がやっているのは結局のところ裏切りで、どんなに頭で切り替えたってどうにもならなくて、それでも高杉晋助は真選組の敵でしかなくて、自分は真選組から逃げ出す気などないことは。
分かっているのに。分かっていたのに。
捕まれた、手首が。
優しく触れる、その触れ方が。
どうしても愛しくて止まらなくて、促されるように唇に触れた。