殺す程の度胸もなければ攫う程の覚悟もない。
守る程の自信もなければ離す程の勇気もない。
閉じ込めておけないのは、今も昔も。
薄く目を開けた先で、晋助さん、と山崎の唇が小さく動いた。
触れた唇の感触が未だ生々しく、高杉は眉根を寄せる。手首を掴んだ手を振りほどかれないことが恐ろしく、しかし自分からその手を離すことはできなかった。
一度触れたら多分、止まらなくなることは分かっていた。
逃げられなくなることなど分かっていて、それでも止められなかったのは限りない自分の愚かさのせいだ。
苦々しい表情を浮かべる高杉から、山崎がすっと身体を離す。掴まれた手首はそのままに、顔を逸らして視線を彷徨わせた。
「……違う」
弱く首を振る山崎がそんなことを言う。そんなことを言って、高杉に固定された方の手を握り締める。そのまま逃げ出してくれ、と、何度目か、高杉は思った。
「違う。俺は、……俺……」
頭を振りながら山崎が言葉を探す。高杉は一度開けた目を再び閉じた。深く一呼吸をして、山崎の手首を掴んでいた手をそっと開く。びくり、と山崎の腕が震えた。その気配を感じながら、高杉はゆっくり目を開ける。ぼやける視界に見慣れた天井。見慣れてしまう程、長く一所に留まりすぎたのだ。
「花は散ったぞ」
一言、告げながら山崎へ視線を転じる。俯かせたままの視線が、それと分かるくらい大きく揺れたのが分かった。そんなに簡単に動揺を表に出して、何が監察だと鼻で笑う。高杉は横たえていた身体を起こして、癖のついてしまった髪を撫で付けた。
「桜は散った。テメェはいつまで」
ここへ来るんだ。
そんな、どうしようもない思いを抱いて。
山崎が顔を上げないままで、静かに呼吸を繰り返す。握った拳に力が入りすぎて、血管が浮き上がっている。この手で人を殺すのか、とそれを眺めて、この手で自分を殺すのか、とそう思った。
山崎の浅い呼吸と、高杉の深い呼吸だけが狭い部屋に響く。
山崎の生けた花がはらりと葉を落とした。
「最初から、わかってただろ」
高杉の言葉に、山崎が唇をきつく噛む。そのまま噛み切って血が滲むのではないかと、傍で見る高杉が心配するほどにぎりぎりと。
「あんただって……分かってたはずだ。俺が、……」
案の定、開いた山崎の赤い唇にはくっきりと歯型が付いている。その痛々しい唇を小さく動かしながら、山崎は俯かせていた顔を上げた。躊躇うような一瞬の間を置いて、高杉の方を見る。
視線が絡んだ瞬間、うろたえるように息を呑んだ。途切れさせた言葉の先を探すように、山崎の手がぴくりと動く。
「俺が、あんたを、」
視線を逸らされないままの途切れた言葉が震えていた。高杉は視線を逸らさないように、ぎりと奥歯を噛み締める。
最初から、分かっていた。自分も山崎も最初から分かりきって知らない振りをしていた。
一度でも触れたら離せないことくらい分かっていて、指を絡めたときから、もう何もかもが駄目になってしまうことは承知していた。
自覚をすれば、言葉にすれば、引き返せないことくらい分かっていて、分かっていたから無防備に相手の前で寝姿を晒したりして。
「お前はそれでいいのかよ」
問えば、山崎の視線が逸れた。そうやって逸らすくらいなら最初から口にしなければいいのに。後悔をするくらいなら、胸に燻るこんな気持ちなど見て見ぬ振りをするべきなのだ。
「俺は……」
視線を畳の目にあわせたまま、震えた声で小さく「違う」と呟く山崎を高杉は見つめて、思わず拳を握り掌に爪を立てた。分かりきってそれでも見て見ぬ振りをしていたことを口に出したりなどするから、こちらも認めてしまいそうで、耐えるので精一杯だ。
そんな高杉の様子を知ってか知らずか、山崎がもう一度「違う」と呟いた。
「何が違う?」
「……俺は、真選組で、監察で、あんたの敵で、俺はあんたを斬らなきゃいけなくて早くこの場所を副長に告げなきゃならなくて俺はそうでしかないのに、そうでしか、ないのに」
震えたままの山崎の言葉が次第に早くなる。畳にがりと爪を立てた山崎の手の甲に血管が浮き出す。
「だから、違うんだ。違う、俺は、あんたのことなんか、高杉、さんのことなんか」
ゆっくりと上がる視線。絡んだそれに涙が滲んでいた。
ああ、そうか。
こうやって泣くのだった。こんな涙が、滲むのだった。
「違うのに駄目なのに、なんで、どうして、」
山崎の眉が寄って、涙を浮かべた顔が歪む。ぼろり、と零れる涙が山崎の着物に染みていくのを、高杉は声もなく見る。
流れ出す山崎の言葉など止めなければ後悔をするのに。
目を見て、告げられてしまえば、
「……好きなんだ、あんたが」
後悔を、するのに。
掌に立てた爪が皮膚を破って血が滲んだ。
握っていた手を開いてそのまま腕を伸ばす。畳に爪を立てたままの山崎の左腕を掴んで、力任せに引き寄せる。ぐらりと傾いだその身体に両腕を回し、腕の中に抱きとめるようにして、高杉は山崎の肩に顔を埋めた。ふわりと回していたはずの腕に次第に力が篭るが、自分の意思ではどうしようもない。抱き折るように力を込めているのに、山崎が身動ぎもしない。
溜息のような、泣き声のような吐息が零れる。
「分かってただろ、最初から」
肩に顔を埋めたまま吐き出す声が震えないように気をつけるだけで精一杯だ。縋るように回された自分の腕を山崎がどう思っているのか、高杉はその表情を窺い見ることもできない。
出来ないが、山崎の腕が自分の背に回るのを感じる。
思わず腕に再度力を込めれば、痛みを堪えるように山崎の指が高杉の着物をきつく握った。
「俺がお前を、逃がせないことくらい」
殺す程の度胸もなければ攫う程の覚悟もない。
守る程の自信もなければ、逃がしてやるだけの優しさもない。
だから逃げて欲しかった。自分の意思で逃げ出したというのなら救われた。昔も今も。
逃げないのならせめて、殺して欲しかったのだ。
同じ激情なら、殺意の方がまだマシだった。
こんな、
「……さがる、」
出会わなければ良かったと、後悔してしまうくらいなら。
「好きだ」
声が震えないようにとそればかりが気にかかって、音にした言葉は狭い部屋に大きく響いたようだった。山崎の身体がそこで初めてぴくりと動き、ゆっくりと高杉の肩に額を付ける。
言葉にすれば認めてしまえば、何もかもが駄目になることなど分かっていたのだ。
伝え切れなかった言葉など、今更何の意味も持たないことなどわかっているのに。
「好きだ……」
好きになってごめんなさいと、昔も今も山崎はそういうが、謝らなければならないのはこちらの方だと息を吐く。守る力もないくせに、攫う勇気もないくせに。安寧な場所を捨てさせてまで付いて来いなどと、言うつもりもないくせに。
背中に縋るようにしていた山崎の手が動いて、高杉の襟足に触れる。優しく触れて、「晋助さん」と小さく小さく名前を呼ぶ。それに高杉が、何かを逃がすように深く息を吐いた。
逃がしてなどやれないくせに、自分では攫えないから奪えないから守れないから、それでもいいと山崎から選んでくれればと願う自分はきっと卑怯だ。
でも、選べもしないくせに抱きしめ返す山崎は、きっと自分と同じくらい卑怯だと思いながら高杉は、
「退……」
いつかの日、名前を呼んでひどく嬉しそうな顔をしたその笑顔を思い出しながら、結局自分は苦しませてばかりだとそう思って。
奪うことも、出来ないくせに。何度も何度も名前を呼んだ。腕に入る力の弱め方が分からなかった。
「……逃げろよ」
声が掠れる。腕の力を緩めもせずにそんなことを言う自分はどうしようもないと思った。
背中に回る山崎の腕に同じように力が篭ったのが分かった。
「逃げられません」
耳にそんな言葉が届いて、続いて山崎が、好きですと嬉しそうな声で言った。