酒の香りを漂わせ、からりと襖の開く深夜。


「こんばんはー」
 気配も殺さず階段を上がってきた山崎はいつものように勝手に襖を開け、いつもとは違うへらへらとした笑顔でそんな夜の挨拶をした。
「……酒くさ」
 山崎と共に入り込んだ酒の匂いに、高杉が顔を顰める。それに構うことなく開けた襖をぴたりと閉めて部屋に入り込んだ山崎は、高杉の真正面にぺたりと座り込み、だらしなく口元を緩ませて笑っている。
 普段は非番の昼にしか来ない山崎が、門限も過ぎているであろう深夜に近いこんな夜に訪れたことは初めてで、思わず高杉は窓へと振り向き外の暗さを確かめてしまった。
 月の明かりのない夜。
 窓の外が暗いことを確認して、高杉は山崎へと向き直る。畳に足を崩して座った山崎は、そんな高杉を見ても何も言わずにただへらへらと笑うだけだ。
 その山崎の手に細い紐がしっかりと握られていた。
 何かと思って紐の先を目で追えば、ビニール袋に半分ほど満たされた水。その中を泳ぐ赤と黒の小さな魚。
「金魚?」
 尋ねた高杉に、山崎は嬉しそうにうん、と頷いて、持っていた袋を目の高さまで持ち上げた。
 不安定にゆらゆら揺れるそれの中で、窮屈そうに泳ぐ金魚が二匹。
「小さいお祭りやってたから、みんなで遊びに来たんだ」
「皆で、ねえ」
「でも、ここに来ることは言ってないよ」
 大丈夫。と、へらへら笑って山崎は高杉の目を覗き込む。
「逢引、してきますって」
「…………」
「言ったら、副長には上手く言っといてやるよって」
「……へえ」
 逢引、ねえ。
 目を覗き込まれたせいで近くなった山崎の顔をまじまじと見つめ、高杉は手を上げる。頭を撫でようか、髪を梳こうか、頬を撫でようか、いっそ口吻けをしようか迷って、結局は山崎の額を掌で押しやった。
「だからこれ、あげる」
 距離を離された山崎はそれに対する不満を見せることもなく、笑ったままで金魚の入った袋を振る。泳いでいた金魚が、驚いたように動きを変えた。
「何が『だから』なのか、さっぱりわからねェな」
「逢引の相手への、プレゼントでしょう?」
 至極楽しそうに山崎が笑う。
 髪がふわりと揺れて、酒の匂いが散って舞う。
 ああ相当に酔っているな、と高杉が少し心配をして声をかけるより先に、山崎が危なげな足つきで立ち上がった。ふらり、とその身体が傾ぐので、高杉が一瞬腕を伸ばす。二歩よろけて持ち直した山崎は鼻歌でも歌いそうな様子で、がたがたと棚を漁り始めた。
 私物の少ない高杉の部屋には、もともと宿に備え付けられているものしかない。何を探す気なのかと訝しく思って見ていれば、棚の奥から小さな器を見つけ出した山崎が、あったぁ、と間延びした声を上げた。
「何してんだ」
「家がいるでしょ」
「……何の」
「金魚の」
 取り出した器を畳の上に置いて、きょろきょろと辺りを見回す。
 盆の上に置かれた水差しを手にとって、少し首を傾げて眺めてから中の水を器へと空けた。
 続いて、金魚の入った袋の口をそっと開け、器へ向けて斜めにする。
 水と共に器へ移った金魚が、先程より広い場所を与えられて大きくすい、と泳いだ。
「おい」
 一連の山崎の動きを無言で見ていた高杉が、そこでやっと声をかける。
 上機嫌な山崎とは対照的な苦い声に、山崎がわざとらしくゆっくりと瞬きをした。
「何?」
「それ、どうするつもりだ」
「どうするって?」
「……まさか、そのまま置いていくつもりじゃねェだろうなァ?」
 生き物の世話をするつもりなど毛頭ない。金魚が二匹置いていかれたとしても、このまま餌も与えられず水も変えられずに死んでいくだけだろう。高杉が金魚の世話をするなどとは、山崎もまさか思っていないはずだ。
 それともそこまで酔っているのか、と呆れた高杉に、山崎がにこりと笑う。
「大丈夫だよ」
「何でだよ」
「俺が育てるんだから」
「……はァ?」
 眉を顰めた高杉に、山崎がくすりと含みのある笑い方をする。
 へらへらとだらしなく上機嫌に笑っていたのが、いつもの、少し翳りのある表情へと変わった。
 目を伏せて、口の端を少し引き上げる笑い方。
「俺が、ここに来てちゃんと、育てるから」
 だから大丈夫、と。
 そう言って山崎が、ちらりと高杉を見る。
「…………いいでしょう?」

 自分が育てるから、と言って。きちんと育てるから大丈夫だとそう言って。
 金魚二匹を狭い狭い器に入れて。
 そんなことで、理由をつけて。

「……テメェ、酔ってないだろ」
 ふふ、と山崎が小さく笑った。小さく笑ってもう一度、今度はまっすぐ高杉を見る。
「酔ってるよ」
 ゆっくりと、そう言って、笑いながら目を伏せる。
 器の中で泳ぐ二匹の金魚を眺めて、何を思ったかその水の中へ人差し指を差し入れた。
 すい、と指が水を描き混ぜて、水にくるりと輪ができる。
 揺らいだ水の下で、赤と黒の金魚が、静かに泳いでいる。それを見つめる山崎の横顔が、ただ静かに微笑んでいる。
 堪らず高杉は腕を伸ばして、山崎の手首を緩く掴んだ。山崎はそれに抵抗することも驚くこともなく、すんなりと指が水から離れる。
 山崎の指先からぽたり、と水が垂れて、畳へ染み込み色を変えた。
「……黒いのをね、」
 高杉の顔を見上げることなく、小さな声を山崎が零す。
 俯くようにしているせいで、伸びた髪が表情を隠しているようだ。
「一匹だけ、掬おうと思って。最初は。……黒いのが一番、高杉さんっぽいなって思ったから、それだけ掬おうと思ったんだけどね、」
 小さな声を聞きながら、高杉は山崎の手首を掴んだままそっと手を畳の上へ下ろす。
 離そうか、いっそ手を握ってしまおうか、悩んでどちらもできず、結局は不自然に手首に触れたまま。
「赤いのが……黒いのの後ろをずっと付いて回ってて……。赤いのが、他の金魚に邪魔されてちょっと離れると、黒いのが待ってあげるみたいに止まるから……」
 笑うように、山崎の肩が揺れた。
 高杉に触れられた方の手が、ぴくりと僅かに動く。躊躇うように指先が動いて、するりと、高杉の手から離れる手。
「離せないなぁ、と思って。二匹になっちゃった」
 自分から離した手を、今度は重ねるようにして。高杉の手が一瞬強張って、それからゆっくりと力を抜いた。手の向きを変えて、重なった山崎の手を下から包み込むようにする。
 山崎が俯かせていた顔を上げた。
 絡まる視線に上がる口の端。
「…………離したら、可哀相だ」
 肯定の相槌を打つ代わりに、高杉はそっと山崎の額へ唇を落とした。
 目を細めて山崎はそれを受ける。
 少しだけ指に力が篭って、互いに一瞬呼吸を詰めた。

 金魚が二匹、傍にあって泳いでいた。
 傍になければならないという風に泳いでいたから離せなかった。
 離したら可哀相だから、とても離せはしなかった。
 その金魚を、今度は、離れないための理由にして。

 手を少し重ねて少し力を込めるために、金魚二匹もの理由が必要で。
 そんな、不自然であると分かっていて。余りにも無理があることだと分かっていて。

「…………世話は、お前がしろよ。ちゃんと」


 もう来るな、とは。それでも言えない。

     (08.08.09)