遠くで低く響いて雷が鳴っている。



 自分が我侭である、ということを山崎は痛い程自覚している。
 恐ろしく女々しい、ということも自覚している。
 帰らなきゃ、と言う山崎を止める言葉は決してないし、空の色が暗くなってもぐずぐずしているような日にはいっそ、帰れば、などと言われる。
 もちろん、そうでなければ、困るのだけれど。
(……ここにいろ、とか、そういうのは)
 ないだろうなあ。畳の上でごろごろとしながら、山崎は前髪の間から少し遠くに座る人に目を向けた。窓際の壁に凭れかかって、優雅に煙管の煙など燻らしている。距離が遠い。追われている身の癖に贅沢だ、と思う。もっと、狭い宿に居座ればいいのだ。

 ごろり、と身体を転がして、部屋の主に背を向けるようにした。
 今ここで斬りかかられたら多分逃げられないだろうなと考える。刀は、一応持って来てはいるが、それも腰から外して畳の上に投げっぱなしだ。あれを取られて背から狙われたら、自分では到底逃げられやしないだろう。
(でも、逃げるかな)
 目を閉じて、想像をしてみる。きっと彼は、気配を殺しもせずに背後に立つだろう。これ見よがしに山崎の刀を奪って、それでもって無防備な背中を狙うはずだ。きっと唇には笑みが浮かんでいる。見せ付けるかのようにゆっくりと、刀を鞘から抜くだろう。
 きっと自分は、と続ける。
 きっと自分は、一度は斬られることを諦めて、目を閉じるだろう。目を閉じて、自分の身に襲い掛かる甘美な痛みを待つだろう。自分の血が、相手の肌を少しでも汚すことを想像して、相手の記憶に、自分の骨を断つ感覚が植えつけられることを喜ぶだろう。
 そしてそこで、暗く淀んだ瞼裏に、命を賭けた人の厳しい顔が浮かんで、そして結局、自分は。
(逃げるな、絶対)
 息絶える瞬間まで、ぎりぎりまで抗って、逃げるだろう。
 そこまで想像した。

 遠くで低く、雷が鳴って、耳をぴたりと付けている畳を通して重たく響く。
 ぱち、と小さな音がして、耳を澄ませば再びぱちぱち、と、今度は少し大きく、雨が窓を叩く音が聞こえた。

「降り出したな」
 雷の音とは違う、耳に心地よい低い声がして、その持ち主の気配が少し山崎に近づいた。何だろう、と思って身体をそちらへ向けるより先に、カチャ、と刃物の冷たい音がして緊張する。
「……何変な顔してんだ」
 畳の上をやはりごろり、と転がって高杉の方へ顔を向けた山崎を、高杉は変なものを見るような目で見た。
「どんな顔?」
「海で熊に会った、みたいな顔」
 どんな顔だ、と眉間に皺を寄せた山崎を、高杉ははっと笑い飛ばした。少し上機嫌に口元を緩ませながら、手に持っていたものに、先程山崎が怯えた刃を当てる。
「……林檎?」
「おう」
 真っ赤に熟れた林檎が、高杉の左手にあった。
「食うか?」
 球体をばらすことなく、くるくると皮が向かれていく。綺麗な赤がするすると一枚の帯になって、高杉の手から零れていくよう。
「いや」
「食わねェの?」
「……林檎は、ちょっと」
 横たわったまま、山崎は高杉の手元を見つめる。
 赤が似合う男だと、今更のように思う。
「食べれないんだよね、俺」
「あァ?」
「食べると気持ち悪くなるから、食べれないんだ」
 山崎のその言葉に、高杉は妙な顔をした。何か変なものを間違って飲み込んでしまったときのような、少し間の抜けた顔だった。山崎はそれがおかしくて、小さく笑う。
「何? 俺が林檎食べれないのがそんなに変?」
 ふふ、と笑いながら言う山崎に、高杉は答えない。
 妙な顔のまま山崎をじっと見て、何も言わないままで手元の林檎に目線を落とした。
 するすると皮が剥かれていく。くるくると回された林檎が、高杉の手を果汁で汚していく。

 ごと、と皿の上に皮を向かれた林檎が乗った。
「……食べないの?」
 果汁で汚れた手を布できれいに拭ったきり、林檎を見つめて動かない高杉に声をかける。しかし高杉はそれに答えず、窓の外へと視線をめぐらせた。
「雨だな」
 雷の音に続いて、雨が窓を叩く音がする。
 窓はすっかり雨粒で覆われて、外の様子は分からない。ばちばちと窓を叩く音がして、その合間に、低い雷の音が聞こえる。
「嵐かな」
「かもな」
 相変わらず畳の上にだらりと寝そべったままの山崎をちらりと見て、それから高杉はようやく林檎に手を伸ばした。小振りなそれを、切り分けることなく口に運ぶ。
 しゃく、と噛み砕かれていく。それを山崎は、見るともなしに見つめている。
 二口目を齧り、それを咀嚼しながら高杉は山崎に視線を向けた。思わず視線が絡んでうろたえたのは山崎で、見ていたことの気まずさに目を逸らす。
 三口目。しゃくり、と小さく音がした。
 目を逸らしたまま、ああそろそろ帰らなきゃな、と考えている山崎に、高杉の気配が近づく。
「え……?」
 あまりにも近い気配に首を巡らせば、横たわる山崎に覆いかぶさるような影。
 何、と逃げる隙もなく高杉の手が山崎の手首を畳に縫いつけ、それからは殊更ゆっくりと 、顔が近づき、唇が近づき、そして、触れ合うその唇の合間から、とろりと何かが流し込まれた。

 ふわりと甘い香りがする。
 ふわりと、悲しい香りがした。

「……ん、」
 口移しに流し込まれた何かを、山崎はゆっくりと飲み下す。唇を離しただけの近い距離で高杉がそれをじっと見つめているのが、なにやらとても居た堪れなかった。
「何で……」
 飲み下したそれは、甘い香りのする林檎で、甘さが山崎の喉を静かに焼いていく。
 唾液を飲み込んでその焼け付く甘さを流し込もうとする山崎の唇に、もう一度、今度は触れるだけの柔らかさで高杉の唇が落ちた。
「全部、テメェが、」
 聞こえた声がひどく苦しそうで、山崎は目を見開く。
 こちらを真っ直ぐと見る高杉の右目が、何を訴えているのかわからない。
「高杉……?」
 どうかしたのかと気になって、手を伸ばしたくて堪らない。なのに手首が畳にきつく縫い止められていて叶わない。
 山崎の自由を奪ったまま、高杉は山崎の首下へ顔を埋めた。ぴくり、と緊張した山崎の首筋に熱い吐息だけがかかる。
「テメェが最初に」
 好きだと言ったんだ。
 そう聞こえた。
 くぐもっていて、響かなかった。

 首に触れて顎を擽る柔らかい黒髪を梳きたくてたまらなかった。
 その頭を抱いて、包帯を優しく撫でたくてたまらなかった。
 ふわりと、鼻先に甘い香りが香った。
 林檎の甘さよりもはっきりとしていて、深く沈みこむような香りだった。
 焼け付くような香りとは違う、縛るような、じわりとした香りだった。

(きっとこれは、移るだろうなぁ)

 こんなに甘く、くっきりとした香りが、こんなに近くにあっては。きっと自分に移ってしまうだろう。髪に、着物に、肌に、刻み込むように残るだろう。

(悲しいなぁ)

 それを、自分は帰って一人で纏うのかと思えば、ひどく悲しかった。
 別れる前から、別れが悲しかった。

「雨が……降るから」
 窓を叩いていた雨は、さあああという音をさせて今では地面を叩いている。
 薄暗い部屋にときどき明るい光が走って、遠い場所で地響きのような雷が鳴った。
「……帰れないよ」
 ぎゅっと、手首にかかる力が強くなった。
 これ以上強くされると、きっと跡がついてしまう。
「ここに居れば、いいじゃねェか」
 さらりとしたいつもの声でそんな答えが返った。
 さらりとしたいつもの声なのに、首筋にかかる吐息だけが熱かった。

(悲しいなぁ)

 これできっと、雷が鳴るたび、自分はその言葉を思い出すのだろう、と山崎は目を閉じた。
 近くで雨が降っていて、遠くで雷が鳴っている。
 喉の奥にはまだしっとりと、焼け付く甘さが、残っている。

     (08.08.23)