(つまらねェな)
刀に付着した血を拭って、高杉はぼんやりと足元に転がる死体を眺めた。
あっさりと斬り捨てられたそれからは生暖かい血が零れだしている。
(まったく、つまらねェ)
鉄臭い匂いが鼻腔を擽って、高杉は死体から目を逸らした。
久しぶりに人を斬った、と気付いた。以前までは簡単に斬っていたし、別に、人を殺すということに罪悪感を覚えたわけではなかった。
ただ、腑抜けた。生ぬるい湯に浸かりすぎたときのようにふやふやとふやけて、何もかも抜け落ちてしまったのだ。はやく終わらせなければいけない。こんな生活は。
このままこの場に留まっていて誰かに見咎められても面倒だ、と思い刀を仕舞おうとする。瞬間、背後でこつりと足音がした。
高杉は鞘へ戻そうとしていた刀を構えなおし、背後へ向き直る。
こつり、と響いた下駄の音。
流れる血と転がった死体を見て、息を呑んだのは女だった。月明かりに照らされたその顔をさっと青くして足を止める。こつり、と高く下駄が鳴る。それから女は高杉を見て、黒く濃く縁取られた目を大きく見開いた。
視線が絡んで、女が息を呑み数秒。高杉は構えていた刀をすっと下ろし、呆れたように女を見た。
「何やってんだ、そんな格好で。趣味か」
「高杉さんこそ、何やってんのこんなとこで」
綺麗に整えられた顔に似合わず唇から流れたのは男の声。女装をした山崎は青くしていた顔色を簡単に戻して、呆れたように転がる死体と高杉の持った刀を交互に見やった。
「派手にやったね」
「絡まれたんでな」
「で、噛み返したのか。野犬は怖いね」
軽口を叩きながら、着物の裾を少し持ち上げて死体の傍らへしゃがみ込む。流れて溜まった血が下駄に付いたのか僅かに眉を顰めた。
「やべ」
「どうした」
「下駄に血が付いた。お気に入りなのに」
不機嫌そうな顔でさっと足を引く。アスファルトにかつかつと血が付いた部分をこすり付けて、それから今度は悲しそうな顔をした。
「傷つきそうだな。帰って落とさなきゃ」
「テメェ、それ本気で趣味か」
「そうかもね」
くすりと笑って山崎は高杉を見る。困ったような顔をして、どうしようかなァ、と言った。
「何が」
「一応これ、報告しなきゃ駄目なのかな。見つけちゃったもんなァ」
「すればいいじゃねェか」
「面倒くさいんだよ。こういうの」
報告書とかさぁ、とぶつぶつ言って山崎は軽く首を傾げて虚空を睨む。その様子がまるで本当に女のようだ。暫くの間一人でそうして考え込み、結局山崎は、
「まあいいか」
と笑って済ませた。
「職務放棄かよ」
「いいんだよ。こういう後始末は、どうせ報告しても俺たちの管轄じゃないし」
「へえ」
興味のなさそうな高杉の返答に山崎は少し笑って、それからふと真面目な顔になって高杉を見た。
黒く縁取られた目の周り。瞼の上に乗る赤い粉。白く塗られた肌と、艶やかに色づけされた唇。まったく女のような顔で高杉をじっと見つめて、山崎はぽつりと言う。
「前にも似たようなことがあったな」
言って、腕をすっと高杉へ伸ばした。
着物から伸びた腕が、常になく細く見える。月の明かりのせいか、色がますます白く見えた。
「あの時人を斬ったのは、」
伸ばした手をするりと高杉の首に回す。軽く甘えるように身体を寄せて、高さの変わらない視線を絡ませる。
「俺だったけど」
小さく零して、唇が重なった。
重ねるだけの口吻けの合間、嗅ぎ慣れない香水がふわりと香って血の匂いと混ざり高杉の鼻腔を擽った。
わずかに湿った音を立てて唇が離れる。自分の唇を舌で舐めれば紅の味がした。山崎の唇を綺麗に飾っていた紅がよれて剥げている。それが、妙に生々しかった。
首へ絡ませていた腕をあっさり解いて山崎は親指の腹で唇を拭う。その親指についた口紅を暫く見つめた後、本当に小さな声で「俺、女だったら良かったかな」と言った。
弱々しくて消えてしまいそうな声だったので、高杉は聞こえない振りで顔を背けた。
血の香りがしているが、山崎からは女物の甘ったるい香水が香っている。
ぞくぞくと背中を駆け上がるのは官能だ。纏め上げられた黒い髪と鮮やかな色の着物の隙間に覗く白い首筋に噛み付いて、いっそ噛み切ってしまいたかった。
今ならきっと、一瞬で殺せる。
そう気付いて高杉は手に持った刀を見下ろす。これを振るだけでいい。これを振るだけできっと、何もかもが手に入る。そんな気がした。
女の着物を纏って女の香りをさせて、俯いてなど見せるから、今すぐにでも攫えてしまいそうな錯覚に陥る。今攫えば、守れるだろうか。考えて、それから高杉は笑った。だらりと下げていた刀を鞘へと戻す。
すぐに攫えると思っていたのに、結局ひとつも守れなかった。
あの時と今と、何が違うというのだろう。状況はいっそ最悪だ。そして、目の前で長い睫を伏せているこれは、女ではない。
笑って人を斬れる、人斬りだ。
高杉が刀を鞘へ戻すのを横目で見ていた山崎は月明かりを受けて光った刀に、あ、と小さく声を漏らした。
音もさせず刀を仕舞った高杉はその声に視線だけでどうしたと問いかける。
「流れ星みたい」
少し笑って、山崎は言った。
まるで女のような物言いだった。
「知ってる? 流れ星が見えてる間に三度願いを言えば、その願い事を叶えてくれるんだって」
山崎がそう言いながら見上げた夜空に星は見えない。月が眩しい夜だったので、その月が星の明かりまで消してしまっている。
仮に月がこうまで明るくなかったとしても、もしかしたら星など見えなかったかもしれない。
この世界は、夜でもすっかり明るくなってしまった。人工的な明かりの中に血の香りばかり紛れさせるようになってしまった。
「テメェは何を願うんだ?」
あまりに熱心に星の見えない空へと目を凝らしていたので聞けば、山崎はきょとんとした顔で高杉を見て、それから曖昧に笑って首を傾げた。
「さあ? 誰かにするお願いごとなんて、俺はもう持ってないし」
黒い髪に刺し込まれた簪が、しゃら、と音を立てる。
「それに、」
こつり、と下駄が鳴って、未だ足元をゆっくり流れていた血を僅かに跳ねさせた。
山崎はそれに構わず一歩高杉に近づいて、その肩へ額を預ける。
高杉が山崎の後頭部へと柔らかく手を回せば、甘えたように額を肩へと擦りつけた。ふわりと甘い香りがした。
「流れ星が流れてる間に、なんて、不可能に決まってる」
甘い香りの中で、女の格好をして、甘えるような口調で、山崎はひどく現実的なことを言った。現実的なことを言うくせに、高杉の着物をその白いてできゅっと握った。
「不可能に、決まってるよ」
誰に言い聞かせているのかもう一度そう言って、山崎はゆっくりと顔を上げる。近い距離で絡む視線に高杉が目を細めれば、山崎の紅が剥げた唇が柔らかい弧を描いた。
傍では人が死んでいて、足元には血が流れていて、目の前では女の姿をした男が艶やかに微笑んでいる。
高杉はそのまま山崎の頬へ手を滑らせ、弧を描く唇に己のそれを押し当てる。
ひどく不自然だった。何もかもが不自然だった。自然なことなど、何一つとしてなかった。
それでも今なら攫えるかもしれないと、高杉はそう思っている。
女の姿をして、女のような匂いをさせて、女のような物言いをする今ならば、何食わぬ顔で連れ去れるのではないのかとそう思っている。
女だったら、と言った山崎の小さな声を思い出した。
口吻けの合間に吐息とともに声が零れ落ちる。甘えるように着物を掴む指に力が篭る。
攫えただろうか。もしかしたらこのまま。
考えて、そっと唇を離した。とろりとした目をした山崎が、ごめんね、と小さく言った。
どういう意味かはわからなかった。
「不可能に、決まってンだろ」
先程山崎が言ったのと同じようにそう言って、高杉は山崎の濡れた唇を、指でそっと拭った。
こんなに近くにいるというのに、抱き締めることさえ躊躇っている。
誰かに叶えてもらえるような願いなど、自分だって持ってはいないのだ。