少しだけ長くて上手くまとまらない髪を優しい手がゆっくりと梳く。
見上げれば額を柔らかく抑えられ、それから前髪をそっと撫でられた。くすぐったさに目を細めれば、肩に置かれた手が小さな身体をくるりと反転させる。
何? と問うより先に、優しい手が後ろ髪を左右から掬い、まとめたそれを細い紐できゅっと縛るのが分かった。髪をまとめるその間、指が首筋に触れてくすぐったい。
髪を緩くひっぱられるだけで心臓が面白いくらいに跳ねた。髪に神経などないはずなのに、触れられているだけで頬が熱い。誤魔化そうと手で頬を覆えば、くすりと笑い声が聞こえた。からかわれた、と思って、再び顔が熱くなった。
髪を器用にまとめた指が、そっと髪から離れるのでそれが名残惜しい。振り向いて顔を見るより先に、旋毛に暖かい温もりが落ちた。吐息が近い。くちづけられているのだと知って、呼吸が上手くできなかった。どうして、という言葉も出せない。
「 」
唇が離れて名前が呼ばれて、やっとのことで振り向けば逆光で顔が見えないその人がひどく優しく笑っているのだけ分かった。
ふわりと優しく笑う人で、歌うように話す人。
その声で名前を呼ばれるのがとても好きだった。
―― ……。
――――― ……。
「……う…」
妙な夢を、見た。
山崎はまだはっきりとは開かない瞼の隙間から天井を見上げる。いつもと変わらない、見慣れすぎて意識もしない屯所の天井だ。
「…………喉かわいた……」
べたつくように喉が渇いていた。これは一口水でも飲まなければ再び眠れそうにもない。けれど身体を起すのが億劫で、そのまま蹴飛ばしていた布団を丸めて抱きついた。
ぼんやりと夢を反芻する。眠るときは涼しくて寝やすいと思っていたはずなのに、やけに汗をかいていた。余程悪い夢でも見たのだろうか。緩く目を閉じて反芻をする。よく思い出せなかった。
幼い自分が誰かといて、その誰かに世話をやいて貰っているような夢だった、と思う。幼い自分は嬉しいよりもどこか緊張をして、ずっと息を詰めていた。
(土方さん……?)
顔が見えない、と思ったような、そんな記憶。
あれは誰だったのだろう。自分を拾った副長か、それとも夢特有の名前も知らない誰かなのだろうか。
(……退、って、呼んだ)
名前を呼ばれて、それがとても嬉しかったことを思い出した。それだけで心臓が跳ねて、泣きたくなった。泣きたくなったのは嬉しすぎたからだろうか。寂しい、悲しいの気持ちも混ざっていた、ような気がする。
(まあ、夢だもんな)
ごろり、と反対側に寝返りを打って、山崎は薄く目を開けた。ずっとそうしていれば次第に闇に目が慣れていく。時計をちらりと見るがさすがに時刻まではわからなかった。窓の外はまだ薄暗い。まだ起きるような時間ではないだろう。
(困ったな、目が冴えた)
ごろり、と再び逆側を向いて枕元に手を伸ばす。充電器に繋がれた携帯を手にとってディスプレイを点灯させた。
「うわぁ、三時かぁ」
布団に入ったのがすでに十二時を回っていてそこから寝付くまでに暫く時間があったから、睡眠時間は二時間と少し。六時に起きるとしても今から三時間眠っておいた方が確実に楽になる。
けれど喉がべたべたとして、どうにも眠れそうになかった。
水を飲みに行くのは面倒だなあ、と思いながら携帯を開いたり閉じたりする。眩しいディスプレイを眺めるうちにますます目が冴えていく悪循環。こういうときは無理にでも目を閉じれば、何だかんだいって眠れるもんなんだよなぁ、と思いながらそれが出来ないでいるのは、ぼんやりとしか思い出せない夢のせいだ。
優しく髪に触れて、自分はそれだけでとても緊張していた。
名前を呼ばれて嬉しくて切なくて、涙が出そうになった。
名前を呼んだ声がどんな声だったのかは上手く思い出せない。夢に音や色が正確についていたのかさえ定かではない。
「歌うように、話す人……」
もっとその声が聞いていたいなあ、と夢の中の幼い自分は思っていた。声と、そしてそのリズムがまるで歌を詠んでいるようで、だからその人が喋るのを聞くのがとても好きだった。
(初恋の人か何かか?)
自分が覚えていない遠い昔に出会った人だろうか。考えてみるが答えは出ない。妙にどきどきしたことだけ鮮明に覚えているからこそ対象が思い出せずに気持ちが悪かった。
「歌うように話す人、ねえ」
今の山崎には一人、それに心当たりがある。
あるけれどもその人は、間違っても優しく笑って山崎の髪を掬ってくれるような人ではない。
……そんな人ではない、けれど、ただあの人は自分のことを時々思い出したように名前で呼ぶなぁ、と気付いてしまった。
意味もなく携帯をぱかぱかと開閉させる。
そういえば、彼の人は携帯を持たないな、といつぞやの会話を思い出した。
路地裏にある古い宿屋の二階、一番奥の広い部屋へと尋ねた山崎が、そこで携帯を鳴らしたときの話だ。
「そういえば、高杉さんは携帯持たないの?」
「持たねェなァ」
「何で?」
「好きじゃねーんだよ、そういうのが」
「そういうの?」
「まあ、お前には似合いだがなァ」
「……何が?」
「誰かに常に、監視されてるっつーのがよ。その気になったら一発で、今ここに仲間呼び出すことだってできんだろ?」
そうやって笑ったその人の笑い方は決して優しい笑い方などではなかった。にい、と唇の端だけ上げて、目はちっとも笑っていなかった。だからすぐに自分は目を逸らしたことを覚えている。
目はちっとも笑わないような笑い方をする人だ。たまに機嫌が良いときは目を細めて笑うが、それだってちっとも優しくはない。ふわりと優しく笑うだなんて、そんな笑い方は見たことがない。
思い出しつつ考えながら、手元の携帯をじっと見つめる。眩しかったディスプレイがいつの間にか暗くなっていた。そろそろ眠らないと、本当に明日が辛くなるな、と思って携帯を枕元へ戻す。
水を飲みに行こうか。喉がべたつく。眠っていられない。
「……監視されてるんじゃないよ」
あのとき言えなかったことを、口の中でもごもごと呟くように言った。
「繋がってるって、言うんだよ。こういうの」
もし、彼が携帯を持っていたとして、こんな夜中自分が眠れないと電話をしたら、起きて相手をしてくれるだろうか。そんな人だろうか。あの人は。
想像して、おかしくなってやめた。眠れないからと電話をする自分も、それを甘やかして付き合ってくれる相手も、およそありえないことだった。そもそも、例えそういうツールを持っていたとしても自分たちは連絡先の交換などできるわけもないのだ。
(た・か・す・ぎ・し・ん・す・け)
頭の中だけでゆっくりと確かめるように名前を呼んだ。それだけで少し視界がぼやけたので、うわぁないない、と慌てて掌を目に押し当てた。
名前を呼ぶだけで泣きたくなるなんて、そんなことあるはずがない。初恋を覚えたての若い娘でもあるまいし。そしてまた、ぼんやりと忘れかけていた夢を思い出した。名前を呼ばれるだけで苦しくて幸せだなんて、そんなこと、あるはずがない。名前なんてただの記号だ。
「……晋助さん」
時折無性に、この名前を呼びたくなるときがある。
背中を見つめているときに、近くで瞳を覗き込まれているときに、堪らず呼びたくなるときがある。呼べば、それだけで心臓が押しつぶされそうになって、息もうまく出来なくなる。ただの記号のはずなのに。
抱えた布団をぎゅうと抱きしめて、喉の渇きを意識の隅に押しやって目を瞑った。
水を飲むため部屋の外へ出たら、どうせ自分は夜空を見上げて感傷に浸るのだろうと分かっていたから起き上がりたくはないかった。
ぎゅう、と目を瞑るその先に、機嫌がよいときの楽しそうな笑顔が浮かんでいやになる。静寂を拾う耳の奥で名前を呼ばれたような気がして怖くなる。
「……ごめんなさい」
時々、無性に謝りたくなるのは何でだろう。何に対しての謝罪なのか山崎自身にも分かっていない。
ぎゅう、と目を閉じれば薄く眼球を覆っていた涙が目の端に滲んだ。それを抱えた布団に押し付けて、何度か深呼吸をする。
こんな気持ちのままで眠って、あの人の夢でも見たら最悪だな、と思った。
あの人の夢でも見て、その夢の中であの人が優しく笑っていたりなどすれば最悪だな。名前を呼ばれたりしたら、最低最悪この上ない。
そんな夢を見た後に一人で目覚めでもしたら、まざまざと現実を突きつけられて、立ち直れないような気がした。消えてしまう夢を思って、人目を憚らず泣いてしまうような気さえした。
会いたいと、言ってしまうような気がして。
届かないそんな言葉を一人で呟くことだけは、絶対にしたくないのに。