気がついたら煙草の匂いのする部屋にいた。体が悪くなりそうな部屋だ。灰皿の中には短くなった煙草がぎゅうぎゅうに押し込められている。ちょっとでも触ったら灰が舞いそうだ。その隣にはわけのわからない書類的な何かが積まれていた。
彼は視線を巡らせて、ちょっと溜息を吐いた。この部屋は空気が悪いけれど外には出たくないなあ面倒で。ネトゲでもしようかな、とパソコンに目を向ける。その前に換気だ換気やばいんじゃね、これ、と立ち上がり窓を開けた辺りで、部屋の襖が勝手に開いた。
「あ、」
「あ」
山崎氏、と呼びかけて、口を噤む。山崎はちょっと変な顔で彼を見て、さっき彼がしたのと同じように部屋をぐるりと見回した。そして小さく溜息を吐く。
「山崎」
無理に呼びなれない呼び方で呼んだ。別に他意はなくて、ちょっとからかってやろうかと思っただけだった。基本的に彼は性格が悪い。何故と言って、自分は特別だと勘違いをしていて自分以外のみんなは頭の悪いクズだと思っているからだ。
自分の体の本来の持ち主の振りをして、なるべくかっこつけた風に笑い、山崎、ともう一度呼んだ。ちょい、と手招きをすれば、山崎は心底嫌そうな顔をした。
「そういうのうざい」
上司に利く口ではない。けど、上司の部屋に声もかけずに入ってくるくらい馴れ合っているのだから、もしかしたらこれが普通なのかも知れない。と彼は思って、
「何やってんだよ、来い」
なるべくそれっぽい口調で言った。目が覚めたときと同じように文机の前に座る彼を、山崎はじっと見つめている。
「だから、うざい。マジやめて殺すよ」
「何だよ」
「その喋り方だよ馬鹿。正直キモイんだけど死ね」
口汚くそう言って、山崎は踵を返そうとする。向けられた背が悲しくなって、彼は咄嗟に「山崎氏!」といつものように呼んでしまった。
山崎は足を止め振り向き、大きな溜息を吐き出してから、
「何で君なの? 土方さんは?」
土方の顔をした彼に向かって、大真面目にそう言った。
俺はねー、とだらだらした口調で山崎は言った。
副長に用事があるから君が帰るまでここで待ってる、と勝手なことを言って、山崎は戸棚から勝手におやつセットを取り出し休憩の準備に取り掛かる。お茶を淹れておやつを出して、湯飲みのひとつを彼の前に置いた。
「……ありがとう」
「いいえ」
ええとなんだっけ、と山崎が首を傾げるので、彼は「どうして僕だって分かったんですか」とさっきしたのと同じ質問を投げかける。
「ああ。……俺はねえ、土方さんを愛しちゃってんだよね」
ぶほ、と彼は口に含んでいたお茶を噴出した。
山崎がものすごく冷たく嫌そうな顔をしたので、慌てて布巾で畳を拭いた。口拭きなよ、とティッシュを渡されたので大人しく受け取る。
「……山崎氏と十四郎は、どういう関係?」
「どういうって、上司と部下だけど」
「じゃ、じゃあ、愛って、」
つまりは山崎氏の片思い? という彼の疑問に、山崎は曖昧な笑みで答えた。
「というかそれは、腐女子が喜びそうな関係? R18は付くの?」
「ごめん、何言ってっか全然わかんないんだけど」
分かりたくもないから説明しなくていいよ、と言って、山崎は考えるように目を伏せた。
ゆるゆると湯のみを回してお茶を冷ます。それが猫舌な山崎の癖だと、彼は知らない。土方は知っていることだけれども、彼はちっとも知らない。
だから、そんなんしたら温くなるのになあ、と気になった。
「俺はね、」
「うん」
「俺は、土方さんを普通に好きだけど、それだけじゃなくて、」
なんていうのかなぁ、と山崎は顔をあげる。少し照れた顔をしている。
「あの人は俺の、神様みたいなもんなんだよ」
神様を、間違えるわけないでしょ。と山崎は笑った。笑って、温くなったお茶を口に含む。静かに飲み込む。当たり前のようにそうしている。
「……意味わかんないんですけど」
「そう? ごめんね」
「でも、分かりたくもないから説明しなくてもいい」
彼の言葉に山崎は楽しそうに笑って、気持ち悪くてごめんね、と軽く言った。全然悪いと思ってなさそうな言い方だ。誇りとか持ってそうだ。
三次元に対して好きだと思った時にどうすればいいのか、彼は知らなかった。
二次元なら作品を繰り返し見たりセリフを覚えたり、それでも足りなければ自分の妄想のなかでいろいろなことをすれば事足りた。妄想の中のことなので、二次元の彼女は絶対に彼を嫌いだと言わなかったし、言ったとしてもそれはツンデレだった。萌え要素でしかなかった。
どうすればいいのだろう、と彼は今混乱している。
目の前にいるのは三次元の男なので、どうすればいいのかわからない。自分の心の動きを、どきっとしてしまった自分の神経を、少し疑っている。
「……僕は腐男子じゃないはずなのに」
「は?」
ちょっと冷たい目で、山崎が彼を見る。彼が、山崎のわからないオタク用語を口にすると、だいたい山崎はこういう顔をした。土方の口からそういう言葉が出るのが気持ち悪いのだと以前ちょっと怒られたことがある。けれど彼はオタクなので、何が一般人に通じる話で何がそうでないのか、自分では上手く判断できない。
「ていうか、だから、土方さんは俺の大事な人だから、その体、はやくあの人に返してね」
仕事もあるし、と山崎は言った。柔らかい笑顔を作ってくれたので、彼は少し安心した。
出会って話すようになって彼が自分の存在に気づいて……それらはいつどんな風にだったかもうあまり覚えていないけれど。
気づいたら、好きになっていた。
好きになってしまった。
どうしよう、この子が欲しい。彼は膝の上に置いた拳をぎゅっと握った。手を伸ばして抱きしめたい。ぎゅうってしたい。好きって言って欲しい。キスしたい。いやらしいことをいっぱいして欲しい。
どうしよう、好きだ。すきだ、すきだ、すきだ、どうしよう。
湯のみを置いて、彼は一度大きく深呼吸をした。不思議そうな顔をする山崎に向けて、きりっとした表情を作ってみせる。手を伸ばした。さりげなくそうしたが、ちょっと震えた。山崎の腕を掴んだら、山崎がちょっと眉を上げた。何か文句を言われる前に力任せに引っ張り抱きしめたら、力の加減が少しも分からなかったので「痛い」という小さな声が聞こえた。
腕の中から響いた声に、彼の中の熱がどくりと反応した。
すきだ、と思って目を閉じる。
「……山崎、」
呼べば、山崎が腕の中で身動ぎをする。
「山崎、俺だよ」
優しい声を作っていった。声が震えないように注意した。
山崎は嫌そうにもがいて、「そんなんしたら殺すっつってんでしょうキモイ」と吐き捨てるように言う。
「それが上司への口の利き方かよ」
「……だから、分かるって言ってんでしょう。トッシーでしょ、マジやめて」
「山崎、」
俺だよ、と耳元で囁けば、山崎の体が少し跳ねる。声はだって体の持ち主のものなのだもの。自分だって成り代われるはずだ、と彼は思っている。成り代われればいいのにな、と思っている。
それが空しいことだということも、彼にはわかっている。
「うそだよ、トッシーだよ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だよ、俺は騙せないよ」
「騙されてよ」
「…………」
「退」
びく、と山崎の肩が震えた。軽くもがくのを押さえ込むように腕に力を込める。
騙されてよ、間違えてよ、間違えて僕を好きになってよ。
彼は祈るように思っているが、それは声になって伝えることができない。伝える勇気が彼にはない。どう伝えたら正解なのか、山崎の好感度が上がるのか、ちっとも分からない。
抱きしめられすぎて痛いのか、山崎が彼の胸を軽く叩いた。
少し腕を緩めてやれば、山崎が顔を上げて、彼の顔を覗き込む。悲しそうな目をしている。
「……キスのひとつでもして、君が土方さんに体を返してくれるなら」
してあげても、いいんだけど。
苦い声で山崎が言った。妄想の中では決して聞くことのないような嫌そうな声だったので、彼の心臓はとても痛んだ。
「あのね、俺は土方さんを好きで、愛してて、尊敬してて、大切で、だから君が土方さんの体を使ってる限り、俺は絶対君を許せないよ。どっか別のとこで会えてたら、よかったね」
トッシーのことは嫌いじゃないんだ。と、甘く囁く、それは、何なのだろう。
そんな思わせぶりなことを言って、彼は頭が悪いので、フラグだと勘違いしてしまう。
このまま気持ちを伝えれば、成就するんじゃないかと思ってしまう。
「山崎氏……」
「……はは、泣きそうな顔。土方さんのそんな顔見たことないし、ちょっとラッキーかな」
山崎は優しく笑って、やんわりと彼の腕を解いた。
腕の中から逃げ出して少しばかりの距離を取って、また悲しそうな顔をする。
「キスしてあげよっか。そしたら土方さん、返してくれる?」
彼は畳に視線を落として、きつく拳を握る。唇を噛み締める。
縦にも横にも首を振れない。どうして僕じゃダメなの、と小さな声を搾り出せば、だって君は土方さんじゃないもん、と、至極当たり前のことのように山崎は言った。