ふぁさ、と広げた着物からは、丹念に焚き染められた香の香りがする。
 ふわりと香ったそれに山崎は少し唇の端を上げ、それから自分を見下ろし立っている土方を見上げた。
「これでいいです?」
「何でも構わねえよ」
 無頓着そうに煙草をふかしている土方に少し苦笑をして、山崎は広げた着物を抱え立ち上がる。後ろ向いてください、と土方の肩を押して向きを変えさせてから、その体に着物を着せ掛けた。
 土方は山崎に言うがままに大人しく着物を身に着けていく。着付けられ、帯を結ばれて、いいですよ、と言われたところでやっと一つ頷いてみせた。
「じゃあ、次は髪」
「……別にそんなんしなくていいだろ」
「俺がしたいんです。させてくださいよ」
 渋い顔をした土方を半ば強引にその場に座らせて、用意していた櫛を手に取る。硬く、実は少し癖のあるその髪を山崎が梳っていく間、二人の間に会話はない。ただ、煙草の煙だけが部屋に満ちていって、折角の香の香りを少しずつ消していってしまうようだ。
 山崎の手が、指が、いとおしいものに触れるようにそっと土方の髪に触れるのを、土方は黙って受け入れている。
 時々少しだけ眉根を寄せて、山崎、と名前を呼びかけようとしていることを、背後に回っている山崎は気づいていない。

 いいですよ、と山崎が言うのと同時に、さっと土方は立ち上がった。煙草をもみ消すようにして灰皿に押し当て、「言ってくる」と一言言う。山崎は少し首を右側に傾げるようにして、「いってらっしゃい」と言った。その唇が笑みの形でいるのを、土方はちらりと見て、再び眉根を寄せる。
 山崎はそれに気づかない振りでいる。
 土方はそのまま何を言うこともなく、するりと部屋から出て行った。音もなく廊下を歩くのを、山崎は気配だけで捕らえている。
 ふ、と息を吐いた。
 そのままその場に座り込み、手に持ったままの櫛をいじる。
(行っちゃったー……)
 今日もまた。
 山崎は目を閉じて、大きく息を吸った。煙草の匂いと香の香りが入り混じっている。山崎が焚き染めた香と、土方の吐き出した煙草の煙だ。それが交じり合って、部屋を満たしている。
 山崎の口元に再び小さな笑みが浮かぶ。
(俺の、俺だけの、)
 ふふ、と零れた笑い声を受け止める人はここにはいない。
 主のいなくなった部屋で、しばらくの間山崎はずっと、その香りに浸るように目を閉じそうしていた。



 別に、平気なわけではないのだ。
 土方が時折ああして夜に女を買いに出かけること。抱かないまでも、女に会いに行くことが、別に平気なわけではない。
 平気な振りをしているわけでもない。
 ただ、山崎にはそれに対し意見する権利が少しもないだけだった。
 山崎は結局、土方の部下に過ぎないのだ。山崎の方がどれだけ土方を好きで、これは恋だと確信していて、触れたいとか傍にいたいとかキスしたいとか女抱くくらいなら俺抱いてよとか、思っていたって、土方の方にその気がなければ何の意味もない。
 気持ち悪がられないだけ、まだマシというところ。山崎はその立場に感謝しこそすれ、土方が他に気持ちを向けるのに、文句を言える権利はない。
 ないのだけれど。
(別に平気なわけじゃあ、ないんだよ)
 布団の端を目の下まで引き上げて、ぎゅっと目を閉じた。コチコチ、と時計の秒針が時間を刻んでいく音だけが響く。
(平気じゃないけど、いいんだ)
 土方の着物に焚いた香の香りが、自分の髪に染み付いてしまっている。
 それがふわりと香って、山崎は顰めていた顔を少しだけ穏やかにした。
 自分でその髪を掬って、くるりと指に巻きつける。これが自分の指でなくて土方の指であればいいなあ、と思っているけれど、それは到底叶わないことだ。
 ばれているだろう、とも分かっている。
 口にしたことはない。好きだと言ったことはない。けれど、こんな気持ちの悪い気持ちはばれているだろう。滲んでしまっているだろう。ふとした時に追いかけてしまう視線や、声を聞いて弾んでしまう声や、触れられて少し震える体になど、土方は聡いのだから、きっと気づいている。
(……気づいているくせに、普通に振る舞うのは、ずるいです。俺を拒んでくれればいいのに、突き放してくれればいいのに、好き勝手にさせてくれるから調子に乗ってしまう。勘違いをしてしまう)
 山崎がああして出かける仕度を手伝うたびに、何か言いかけようとするのに、結局何も言わずに許してしまう。
(優しくしないでくれたらいいのに。気味悪がってくれたらいいのに。俺のことなど仕事以外では遠くに遠ざけておいてくれたらいいのに)
 準備は俺にさせてくださいよ、と最初に山崎が言ったときから、土方は少しも拒まなかった。
 土方の着物を選んだり、香を焚いたり、髪を整えたりするのを、何が楽しいんだと呆れながらも止めなかった。
 だってこういうの好きなんですもん、という山崎の言い訳だって、言い訳だと気づいているだろうに何も言わなかった。
 コチコチと時計が時間を進めていく。
 今頃は、どこで誰と何を、と思うたびに山崎の胸は押しつぶされそうになるのだ。
 苦しくて苦しくて、呼吸が出来なくて死ぬんじゃないかと思う。
 あの煙草の匂いのする指はどんな風に見知らぬ女の肌を辿って、あの薄い唇はどんな言葉を囁いて、あのたくましい腕はどんな風に女を抱きしめるのか、なんて。
 考えるたびに苦しくなって、それと同時に、そんなことを考える自分に吐き気がする。
(だって俺は男で、土方さんだって男で、女を抱くのは当たり前で、俺がそれにどうこう思うなんておかしいのに。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、息が、苦しい)
 ぎゅ、と布団の端を握った。
 きつく瞑った目の縁にじわりと涙が滲む。
 こんなことで泣くなんて本当に気持ちが悪い変態だ、と唇を噛み締めるけれど、胸が塞がれて大きな塊が喉元につかえているのが苦しくて、それでどうしても涙が滲んでしまうのだ。
「ひ、じかたさん……」
 胸が塞がるのに耐え切れず、呼吸をするように名前を呼んだ。
 呼んだら、余計に苦しくなって、ぐ、と喉が鳴った。溢れてしまった涙が耳へと零れ落ちた。
「……好きです、土方さん」
 ごめんなさい、好きなんです。と唇を噛み締める。
 ごめんなさい、好きになってしまった。どうしようもなく好きです。ばれてるでしょうね、ごめんなさい。隠すつもりも、あまりないんです。知って欲しいと思っているんです。それで、俺は、突き放して欲しいんです。受け入れてもらえないのなら、あなたにきちんと突き放して欲しいんです。


 涙が止まらなくなってしまった。すん、と鼻を鳴らして、もう寝よう、と山崎は深呼吸をする。朝になったらまた仕事で、仕事の間は、普通にしていられるから大丈夫。
 気持ちを落ち着けて眠ってしまおうとした山崎の耳に、しかし、ギィと廊下の鳴る音が聞こえた。
 誰かが厠へ行くのかと思ったが、違う。その気配の正体に気づいて、山崎は落ち着けたはずの息を一瞬止めた。
(土方さん……?)
 でも、どうして。
 時計の方へ目を向けるが、月明かりは逆光で時間が見えない。けれど、多分真夜中だ。今日は帰って来ないと行っていたから、泊まりだと思っていたのに。まだそんな、帰ってくるような時間ではないはずなのに。
 思わず息を潜めて、山崎はその気配の動きを探る。土方はいつもと変わらず少し気配を潜めて廊下を歩いている。
 何かがあって帰って来ることになって、このまま自室に戻るのだろう。そう判断して、山崎は詰めていた息を吐いた。
 しかし、土方は山崎の部屋の前で迷うように速度を落とし、少し悩むような間を置いて、その襖に手をかけたのだった。



「山崎、寝てるか?」
 土方が薄く開けた襖の合間から、廊下の灯りが差し込む。
 山崎は不自然でないように薄く目を閉じて、浅く呼吸を繰り返し、一心に眠った振りをした。
 起きていることが知れたら、会話を余儀なくされるだろう。そうすれば、泣いていたことがばれてしまう。何があったと聞かれたら、さすがにそれは、答えられない。
 知っているなら突き放してくれと思うくせに、突き放されるために好きだと直接は言わない。ずるいのだ、山崎は。
 眠った振りをする山崎を見て、土方はほっとしたように息を吐いた。そのまま帰るかと思ったが、予想に反して土方は山崎の部屋へ滑り込む。
 気配でそれを知った山崎は、目を開けるのを堪えるのに必死だ。
 土方が山崎の顔を覗き込むようにして、小さく舌打ちをした。煙草の匂いのするその指が、山崎の目尻に溜まった涙をそっと掬う。
(…………!)
 目を、開けないように。呼吸を、乱さないように。山崎は必死だ。
 土方はそんな山崎の思いも知らず、体を屈め、山崎の濡れた瞼に唇で触れた。涙を唇で拭い取るようにして、
「ごめんな」
 と小さく呟いた。低い声。
「……泣くぐらいなら、やめろよ、こんなこと」
 ふわりと香が香った。
 泣かないように目を開けないように呼吸を乱さないように。布団の中に隠した拳をきつく握って掌に爪を立てる。
 土方はしばらくそのまま山崎を見つめた後、「ごめんな」と再び苦々しく呟いて、それからするりと山崎の部屋を出て行った。
 ぱたん、と小さな音をたてて襖が閉じる。再び闇の中。


 山崎は恐る恐る目を開いて、天井を凝視した。体がちっとも動かない。
 呼吸が上手く出来ない。開いた目からぼろ、と涙が零れた。耳に入って冷たい、くすぐったい、けれどそれより、苦しいが先だ。
「……何、それ」
 香の香りが残っている。部屋に甘く滲んでいる。その中に、嗅ぎなれない匂いが混ざっている。女物の、派手な香水の香りだ。
「何で、……ごめんって、何だよ……」
 のろのろと腕を動かして、山崎は顔を覆った。ひっ、と喉が鳴って嗚咽が零れる。
 何で帰って来たのだろう。いや、それよりも、何で山崎の顔など見に来たのだろう。
 もしかしたら何か仕事を思い出して、それで帰って来たのかも知れない。そのことで山崎に用事があって、それで入って来たのかも知れない。
 自分を落ち着かせるために考える。けれど、考える端から真っ白になっていく。
(じゃあ、何で、キスしたんですか)
 瞼の上に、不自然なぬくもりが残っている。


 謝るくらいならキスなんてしないで欲しかった。キスをするなら謝らないで欲しかった。
 突き放してくれないのなら、せめて、放っておいて欲しかった。
 優しくしないで欲しいのに。
 香を丁寧に焚くのも、髪を丁寧に整えるのも、だって土方のためではないのだ。
 土方を見てその容姿を褒めるであろう人に対して、自分がそうして色づけたのだと思い込むことで、優位に立とうとしている浅ましさ。そんな気持ちの悪いものでしかないのだ。
 香の香りが残っている。耳に、低い声が残っている。
 あやまらないで、好きでいる俺が悪いんです、気持ち悪くてごめんなさい。
 この不毛さ。醜く、低俗で、それでもこうして涙を拭ってもらえたことに少なからず優越感を覚えている自分の、何と浅ましいことか。
 涙を払うように首を振った。ぱさぱさと鳴る髪から、移った香の香りがした。
 部屋に滲む同じ香りに、知らない香りが潜んでいるのが、叫びたいほど悲しいのだ。
 蹲って泣き喚きたいほど悔しいのだ。

(雨が、降ればいいのに。土方さんが出かける夜には、雨が降ればいいのに。他の香りを全部落としちまうぐらい、ひどく雨が、降れば)

 秒針の音もかき消すくらいに雨が降ってくれればいいのだ。
 そうすればこんな風に泣きながら、夜が終わることを祈ることだってなくなるかもしれないのに。
 山崎は涙の滲む視線を、ゆっくりと窓の外に向けた。ぼんやりとした月明かりがカーテンの隙間から差し込んでいる。

「ごめんじゃなくて、嫌いだって、言ってください……土方さん」

 どうしても自分では捨てられないから手放せないから、嫌いだと言って突き放して蔑んで粉々に踏み砕いて欲しい。
 それが叶わないなら、あの真っ白い月にでも攫われてしまえばいいのだ。この恋などというどうしようもない非生産的なものを雲の間に連れ去っていってくれれば、誰にも迷惑をかけずにすむだろう。あんな風に、好きな人を、苦しめずともすむだろう。

(……寂しいのは、きっと、どうあっても一緒だ)

 だからせめて誰かを傷つけないように、光の届かない場所に置き去りにしてきて。

      (09.01.08)




「土山で年上×年下」の「山崎片思いで切ない話」というリクエストで書かせていただきましたが、リクエストに沿っているのか大変不安です。こんな感じで大丈夫でしたでしょうか……。
もともと、土方さんが夜遊びに行く時その準備を山崎がする、という話はずっと書きたいなと思っていたものだったので、使ってみました。妄想元は源氏物語です。つまりリクエストと言いつつわたしの萌えを詰め込んだ話、ですね!
土方は山崎のことを決して嫌いではないんだけれど、一生かかっても恋愛対象には出来なくて、山崎はそれを知っている、という救いのない片思いでした。
普段この長さでは書かないものなので、楽しかったです。素敵なリクエストありがとうございました!

リベンジで書いたけど暗いだけになった片思い話もう一個  → The desire that wants to be owned