その名前を耳にするまで、沖田はそれが誰かわからなかった。沖田は彼の顔を知らなかったのだから当然だ。知っていて然るべきなのに何故知らなかったかと言えば、それは沖田の怠慢に他ならない、が、このときばかりは永遠に知らないままでいたかったと思った。
「晋助さん……!」
聞きなれた、耳に心地よい少しだけ高い声。よく響くそれ。
驚いたような色を持って発せられたそれは、真っ直ぐにその隻眼の男に向かった。極めて整った顔立ちを、片目を隠すように巻かれた包帯で幾分か損ねている、壮絶な存在感のある男だった。
「こんな場所でそんな顔でそんな名前を、呼んでいいのかよ」
揶揄するようにそう言った男は、ふっと優しく柔らかく笑った。笑顔一つでこうまで雰囲気が変わるのか、と沖田が驚く程に空気が変わる。
男はそのまま柔らかい声で「退」と口にした。
山崎の顔は、沖田からは見えなかった。
その後山崎がどうしたのかも、沖田は分からなかった。
ああそういうことかと全部気づいてしまって、その場から逃げ出してしまったからだ。
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文机に向かう山崎を後ろから抱きこむよう腕を回した。一瞬驚いたように動きを止めた山崎は、「どうしました?」と静かに言って、止まった筆を再び走らせる。
「何でもねーよ」
鼻先で髪を分けるようにして、首筋に唇を付けた。
山崎はくすぐったそうに身じろぎしたが、沖田の腕の中から逃げようとも、沖田の行為を咎めようともしない。
「……手紙?」
「はい。田舎の家族に」
「おめーの田舎ってどこだよ」
「西の方ですよー。わりと山奥。不便なとこです」
あんまりにも田舎なんで、沖田さんとか見たらびっくりしますよきっと。
笑ってそう言いながら山崎は、すらすらと筆を走らせる。
山崎の肩越しに背中を覗き込むようにする。山崎は別に隠すこともせず、おもしろいですか? と笑って聞いただけだった。
流暢な崩し字で書かれたそれは、沖田には実はよく読めない。あまり学もないし、字など気にして生きたことがなかったからだ。だが、読める部分だけ拾い読みしたそれは、確かに田舎の家族に宛てるような手紙だった。
元気です、とか。今日の夕飯は焼き魚でした、とか。昨日は友達とトランプをしました、とか。
てめーの日記帳に書いてろよ、と言いたくなるような内容だ。
「……地味な手紙だな」
「放っておいてください」
「そんなん見て、おめーの家族喜ぶの?」
青い着物を買いました、とか。ミントンのシャトルが残り2個になりました、とか。
「はぁ、わりと。喜んでるんじゃないですか? 書かないと怒られるんで」
言う通り、山崎は筆まめだ。
月に何度かこうして手紙を書いては、自分の近況を家族に知らせているらしい。
もちろん、勤務時間や勤務内容など、守秘義務のあるものについては書いていない。そんなことをすれば、即刻首を落とされるだろう。
「メールのが楽じゃね?」
「俺の家族、カラクリに疎いんで」
「へぇー。珍しいな」
「ね。いまどきないでしょ、と思うんですけど。古風な人なんです」
だからほら、と、紙に走らせていた筆を少し振って見せる。
「ペンより筆がいいんですって」
「で、そんな流暢な字なのか」
山崎の筆跡はひとつにはっきりしない。
職業柄、いくつもの筆跡を使い分けることができるという。本人もそれが自慢のようで、沖田さんの字も真似れますよーと笑って披露してくれたことがあった。そのときはここぞとばかりに書類を一緒に片付けさせた。いい特技だな、と褒めた沖田に、鬼! 悪魔! と騒いでいたことを覚えている。
だから沖田も、山崎の本当の筆跡がどれかは知らない。
多分近藤も知らないし、土方だって知らないだろう。
動く筆と、そこから生み出される流れる文字を肩越しにじっと見つめる。
これがきっと、こいつの本当の字なんだろうな。
思ったけれど、口には出せなかった。
(お前は嘘を吐くのが上手だな。たとえば潜入操作なら、きっといい働きをするだろうよ)
(お前は字ひとつとっても偽ることができんだな。字はその人を表すって俺は姉上に教わったけど、じゃあお前は一体どこにいるんだい?)
(俺の腕ん中にある体、聞こえる鼓動、もしかしたら全部嘘かい。どこまでが本当でどこまでが偽者か、俺にだけ教えてくれよ、怒らねェから)
体に巻きつけていた腕に力を込めれば、山崎は不思議そうに手を止めて、「沖田さん?」と小さく声をかける。
沖田はそれには答えず、山崎の首筋に再び唇を押し当てる。
今度はそれだけでは飽き足らず、軽く歯を立てるようにしたので、山崎の体がぴくりと跳ねた。
「え、ちょ、何してんですか」
慌てたような声が聞こえる。山崎が筆を置いて沖田へ振り向こうとしたが、沖田は顔を上げないまま腕の力でその動きを止めた。
戸惑ったままの山崎の首に軽く歯を立て、軽く吸い上げる。
「ちょ、」
痛い、と漏れた小さな声が、僅かに上ずっていて、沖田はそれで少しだけ安心した。
ゆっくりと唇を離して、怒ったような顔で振り向いた山崎を、今度は正面から抱きしめるようにする。
縋るように腕に力を込めれば、山崎は何を思ったのか抗わず、代わりに甘やかすように沖田の背に手を回した。
慣れない墨を使って文字を書こうとすれば、沖田なんかはすぐに腕も手も汚してしまうのに、山崎の手は何故こうもきれいなんだろう。ちっとも汚れていないのだ。それが沖田には悲しくて仕方がない。
(墨のすり方は誰に教わった? 文字の書き方は誰に習った? おめーの家族はえらく風流なんだなァ。おめーは、)
(おめーは、そんなに芯から大事にしている家族のことを、ちっとも俺には話さねーんだな。俺だけじゃない、他の誰にも話さないんだな。母や父や兄や妹や、そのどれがいるかってことだって、少しも話題に出さねェんだな)
(俺がここで聞いたら、お前はすらすら答えるだろう。でもそれは、本当のことかい?)
「沖田さん? どうかしましたか?」
少し焦ったような、戸惑ったような山崎の声が耳元で響く。
その手が、あやすように沖田の背中をゆっくりと撫でる。
沖田は山崎の耳朶に唇を付けて、
「すき」
とほとんど吐息だけ吹きかけるようにして囁いた。
山崎の体が少し強張る。体を離して顔を覗き込めば、頬が赤くなっている。困ったように泣きそうな顔をしている。恥ずかしがっているのか、困っているのか、沖田には分からない。困らせているんだったら謝りたい。けれど。
赤く染まった頬の熱を確かめるように掌でそっと触れた。冷えた沖田の手に、山崎が小さく体を震わせて、それからゆっくりと俯かせ気味だった顔を上げる。
目に、やはり、戸惑うような色が浮かんでいる。
その端が赤く染まっている。照れているんだったら俺は嬉しい、と沖田は、ほとんど泣きそうな気持ちで思った。
何か言葉を紡ぎだそうとしている唇に、自分のそれをそっと触れ合わせる。
山崎は逃げなかった。少しも抵抗しなかった。沖田の背を撫でていた腕が、沖田の着物をぎゅっと掴んだのが分かった。抱きしめた腕に力を込めれば、山崎の唇から少し息が零れた。
泣きそうだ。
鼻の奥がつんとしてひりひり痛い。ゆっくりと唇を離して、「すきだよ」ともう一度言った。
山崎は恥ずかしそうに俯いて、はい、と小さく答えた。
「……俺は、お前のことが好きだよ」
「はい」
「俺はずっと、お前の味方でいてェよ」
言わずもがな当たり前のことを口にした。
味方だなんて当然じゃないか。仲間じゃないか。だけどそれは嘘かも知れないのだ。
山崎は、はい、と頷いて、すん、と小さく鼻を鳴らした。
「好き」
「俺も、すき、です」
再度告げれば、震える声が返る。
沖田の背に回されたままの山崎の手が、沖田の着物をきつく掴んでいる。
「……なんで、泣きそうなんだよ」
俯いている顔を強引に上げさせれば、その小さな目が涙で潤んでいた。
ずず、と鼻を鳴らす。お前それ涙出てねーだけで泣いてんのと一緒だな。指摘して、まだ零れてもいない涙を拭うように眦に唇を落とした。少ししょっからい。やっぱり泣いているようだ。
何で?
聞く代わり、あやす様に頭を撫でてやる。山崎は小さく笑って、
「幸せすぎるからじゃあ、ないですか?」
言った。声が震えていた。やはり泣いているようだった。
幸せで泣いても涙ってのはからいんだな、と言えば、当たり前じゃないですか。と笑われた。
弧を描く唇にくちづけをすれば、山崎の体が少し揺れて、その背が文机にぶつかった。墨を毛先に含んだままの筆が転がって、畳の上に落ちた。墨が点々と飛び散って、放っておけば染みになるだろう。
山崎は気づかない。沖田の唇を大人しく受けている。
沖田は視界の端で転がり落ちた筆を見ながら、腕にいっぱい力を込めて山崎の呼吸を止めるほど抱きしめたい衝動を、懸命に堪えている。
(何で、どうして、俺じゃねェの? ううん、俺じゃなくてもいいよ、何で土方じゃねェの? おめーは土方のもんじゃねェの? あいつのものじゃなかったの?)
(土方だったらよかったのに。あいつに心を捧げてんなら、俺だって奪えたかも知れねェのに。奪えなくたって、傍にいれたのに。ずうっと幸せにしてやれたのに)
(なんで、どうして、ねえ、好きだよ。すきだ。俺の好きはどこまでも本当なのに、お前のその言葉は、泣き顔は、何が嘘で何が本当で、お前の心はどこにあんだよ)
「俺は、お前の味方でいてぇよ。お前に幸せになって欲しいんだ」
唇を少し離して隙間でそう囁けば、山崎がうっすらと目を開けて、やはり、困ったような顔をした。困ってんの、照れてんの。分からないから再び唇を塞いだ。逃げられるように、触れ合わせるだけにした。山崎が本気で逃げようと思えば、逃げられるように、腕の力だって加減した。
(でも、)
(でも、俺にも守りたいもんがあって、譲れないもんがあって、捨てられないもんが、あんだよ)
(ねえ、どうしよう、好きだよ。すき、すきなんだ。お前には幸せになって欲しいのに、それだけなのに。お前のその泣き顔も、好きの言葉も、信じたいのに。信じてるのに)
「……俺がこのまま全部から、お前をさらってやればいいのかい?」
囁いたつもりだった言葉は、ちっとも声にならずに、ただ二人の間の空気を少し揺らしただけだった。
山崎は不思議そうな顔をして、赤い顔のまま、沖田さん? と弱々しく名前を呼ぶ。
どうせ声になっていても、山崎は答えられないだろうから。沖田は笑みを浮かべて首を振り、山崎の体を緩く抱きしめ直した。
「沖山、年下×年上、IN鬼兵隊」で「恋敵が実は土方じゃなくて高杉だった!」というリクエスト(はしょりました)にお答えできていたらいいなあ。そんな話です。
山崎IN鬼兵隊で高山以外のCPは一度書いてみたかったので、すごく楽しかったです。自分の妄想の中では山崎視点の話だけだったんですけど、リクエストが沖田さん側のネタだったので、世界が広がりました。楽しかった。そしてやっぱりIN鬼兵隊だと土山←沖よりもひどくなるんだなぁ……と実感しました。あ、沖山は両思いのつもりです。
あと作中に書ききらなかったんですが、ああいう日常報告が全部隠語になっていて、山崎はあれで高杉にいろいろ報告している、という設定でした。
素敵なリクエストありがとうございました!
この話の続きを、というリクエストを別に頂いたので書きました。 → うそでもいいから
進展はしてません。ぐるぐるしています。