いつものように土方に殴られた山崎は目に映る全てを静かに冷たい気持ちで頭の中に記憶していく。
俺はこうして痛いのだって構わないのだ。だってあの人のためだもの。
見上げた天井はうんざりするほど見慣れている。見慣れてしまった。頬を打たれる痛みに慣れたのはいつからだろう。その後見上げる天井の染みも。
きっとこの後声をかけられるな、と山崎が思ったちょうどそのとき、
「お前、いつまでそうやって寝てんだ」
と声が飛んだ。
あまり厳しくはない、どちらかと言えば呆れたような声だ。
寝てんじゃなくてあんたに今殴られたんだよ馬鹿じゃね、と思うが、口にはしない。従順を気取っているわけではない。そんな口を利いても、別に怒られはしないだろう。不機嫌そうな声くらいは聞けるかもしれないが、馬鹿はテメーだとか何とか言われて仕舞いだ。そんなことまで分かってしまっている。文句を言わないのは、だからしおらしくしているわけではなくて、そんな口を利けば、馴れ合いになってしまうと思っているからだ。
「すいませんでしたァ」
だらっと言って起き上がると、軽く睨まれたが、それだけだ。
殴る蹴るをするならば、もっとこう、血の通わない道具のように使ってくれればいいのだ。その方が、幾分かやりやすいのに。
考えることは表に出さず、一つ頭を下げてから部屋を後にする。人気の少ない廊下は空気が冷たい。寒い。この辺りには局長室と副長室くらいしかないから、呼ばれない者は滅多に来ない。けれど山崎は、この辺りの廊下のどこを踏めば音が鳴って、どこを歩けば音がしないかということまで、しっかり分かってしまっている。
それは別に都合の悪いことではない。こそこそと調べる手間も省けるというものだ。頭に焼き付けるようにして覚えたことは、いつか何かの役に立つだろう。
けれどそれも、あの人が俺を必要としなければ、意味がない。
山崎は窓の外に目をやった。灰色の空がどんよりと広がっていて、ひどく寒そうだった。
いつ、何の役に立つか分からない。だから山崎は、その人のいない寒々しい庭の様子さえ、静かに脳裏に刻んでいく。見るもの全てを飲み込むように覚えていく。知識の詰まった体を全部捧げるためにこうしているのだ。殴られて出来た唇の端の傷を、舌で少し舐めてみた。ぴり、と痛かった。少し血の味がした。
「おう、山崎」
部屋へ戻る途中で沖田と出会った。ちょうどいいところで、というような顔で、山崎に近づいてくる。無邪気だなぁ、と山崎は小さく笑って、何ですか、と首をひねって見せた。
「お前切手持ってただろ。50円のある?」
「50円切手ですか。多分、持ってると思いますけど」
年賀葉書の抽選で当たった切手が、多分机の引き出しの奥に仕舞ったままになっているはずだ。
「それちょーだい」
「いいですよ。手紙ですか? 珍しいですね」
「懸賞だけどな」
「あ、だから葉書なんですね」
そう、だからちょーだい、と掌を上向けて手を出す沖田に、山崎は苦笑する。
可愛い。子供だ。ちょーだい、と言えば、何だって与えられると思っている。与えられると確信していなくても、聞く程度の価値はあると思っている。可愛いなあ。けれどもしかしたら、沖田は山崎のことを友達だと思っているのかも知れず、それでこんな、甘えたような口を利くのかも知れなかった。気づいて少しぞっとする。
「今、持ってます?」
「ハガキ? うん」
「出しといてあげます。俺も手紙出すつもりだったし」
見せられたそれを受け取って言えば、沖田はありがとな、と笑って、それから感心したような顔をした。
「お前また手紙出すの? マメだねえ」
「はは。心配性なんですよ」
誰が、とは言わない。家族、ということになっている。
そりゃいいことだ、と沖田は頷いた。愛されてるねえ、と大人のような口を利いた。
「俺は手紙出す相手もいねェからなァ」
遠くにいた沖田の姉は、もう手紙なんか届かないところへ行ってしまったのだ。
そうかこの子供には家族がいないのか、とふと気づいて、山崎は妙に、親近感のようなものを覚えた。
「おめーは幸せもんだぜ。大事にしろよ」
それだけ言って、沖田は踵を返して行ってしまう。山崎の手に、物を得るためだけに書いた気持ちを込める場所さえないハガキだけが残された。
心配性なわけではない。これが山崎の義務なだけだ。
けれど本当は、これだって、届いているのかどうか分からない。
筆で書いた手紙を乾かしながら、山崎はぼんやりそれを見つめている。
月に一度と、変わったことがあればその都度、手紙を出すようになっていた。宛先は、山崎がかつていた京になっているが、そこに届いてお仕舞い、なのかどうか山崎には分からない。
その後、何度か人の手に渡って、そしてやっと目的の人に届いているのかも知れない。
ちっとも届いていないのかも知れない。
山崎の手紙は、人のいない場所に届いて何の意味も成さず、時とともに風化していつか消えていってしまうのかも知れない。
せめて、名前を書ければよかった。宛名をきちんと書いて、あの人に宛てた手紙だと自分で安心できればよかった。
もしくは、今の本当の近況や、自分の気持ちを、まるで家族に宛てる手紙のように書けるのならばよかった。
けれど、墨の乾くのを待っている、これは報告書だ。手紙ではない。気持ちを込める場所は少しもない。宛名だって、山崎の呼んだこともない偽りの名前だ。
黒髪の人は、愛おしい人によく似ている。唇の端の傷を指で押さえて、そのぴりぴりとした痛みを半ば楽しみながら、山崎は考えている。
よく似ている。どこがどう、と言われれば答えられないが、人を惹きつけるところがよく似ていると思う。雰囲気は、山崎に傷をつけた人の方が幾分か柔らかい。人を斬るときには鋭く冷たくなりはするが、それでも結局心の奥底がきっと優しい。光の中にいる人だ、と山崎は思っている。気に入らないことがあればすぐ殴る。蹴ったりもする。本気で斬りかかられることもある。けれど、それも全てじゃれあいの範囲内だ。自分のしていることに、少しも疑問を抱いていない目をしている。少しも、自分と、自分の信じる正義を疑っていないのだ。
金髪の人は、自分によく似ている。身寄りがないところなどとてもよく似ている。幼い頃から血に慣れて、慣れきって、あまり人を殺すということに感慨を覚えない辺りもよく似ている。
けれどあれも、光の人だ。光の中にいる人だ。柔らかく愛しまれて大事にされて生きるべき生き物だ。身寄りはなくても「家族」がある。帰る場所がある。安らかに眠れる場所がある。甘えられるぬくもりがずっと傍にある。幸福に甘やかされて愛されている、そしてそれが当たり前の、子供だ。やわからい。ふわふわとしている。纏う空気が優しい。
山崎のことを友達のように思っている。慣れた口を利く。けれど刀を抜けば空気が変わる。背筋が冷えるほどの殺気を出してみせる。きれいな殺気だ。迷いがない。
覚えていく。当たり前のように知っていることだ。知りすぎていることだ。今更考えるまでもなく、覚えこむまでもなく、染み付いてしまっている知識だ。
気配だけで誰か当てられるだろう。この屯所の中だって、目を瞑ったって歩けるだろう。副長室のどこに何があって、いつ誰がどこにいるかも、だいたい分かっている。確認するまでもない。それは山崎の日常だ。
覚えていく。繰り返し、反芻をする。
そうしないと窒息してしまいそうなのだ。
そうするために自分はここにいるのだと、言い聞かせないと、壊れてしまいそうだ。
墨の乾いた手紙を丁寧に折りたたんで、真っ白な封筒に入れた。糊でぴっちりと封をする。
あなたのためにこうするのです。だからはやく迎えに来てください。
文字に出来ない気持ちを指先から滲ませるように、執拗に封筒の口を押さえた。
黒髪の、仮初の上司によく似ている人。美しい人。魂の歪んでいる人。心の奥が冷たく冷えている人。自分の正義を自分ひとりで持っているので、時々迷いそうになって、そのときだけ甘えてくる人。甘えていることを気づかせないような巧妙さで、こちらのことを支えにする人。そのくせ道具のように突き放す人。俺を殺したがっている人。
あなたのために、こうするのです。
ひとつ、瞬きをすれば、いつの間にか零れるほどに滲んだ涙が大きな雫になって封筒に落ちた。墨で書いた宛名をじわりと滲ませる。
会いたい。声が聴きたい。忘れそうなんです。あの人の声を忘れてしまいそうだ。どんな風に自分の名前を呼ぶのだったか、どんな風に自分に甘えて見せるのだったか、どんな風に自分を抱いて、どんな風に隣で眠って、どんな風に目覚めて、どんな風に生きているのか。
忘れそうだ。覚えることが多すぎて、まるでこれが本当の日常だとでも言うように溶け込むように流れてくることが多すぎて、忘れてしまいそうなのだ。
唇の傷がひりひりと痛い。
これを見たら、きっと顔を顰めるだろうということは分かるのに、どんな風に顔を顰めるのだったか、ぼんやりとして思い出せない。
「……晋助さん、あなたは俺の、」
命なんです。
あなたがいるから、俺は生きていかれるのです。
当人に何度も何度も繰り返し、呆れられるほど繰り返し伝えた言葉をひとりで呟く。
本当にそうなのか、山崎にはもうわからない。
あの人に捨てられても、この場所で生きていけるのじゃあないかと、思ってしまうことがある。
そんなことあるわけがないあの人に捨てられたら死んでしまう。
それが自分の絶対なはずなのに。
「おい、山崎」
襖の外から声がかかった。
山崎流れるままにしていた涙を素早く拭って立ち上がる。襖をそうっとあければ、煙草をふかした土方が立っていた。
「はいよ、何でしょう」
「おめー外出るんだって? ついでに煙草買ってこいや」
「もうなくなったんですか? 早すぎますよ」
「いいから黙って買ってこいよ。釣りはいいから、なんか好きなもん買え」
子供のお使いのように言われ、5千円札を掌に乗せられた。ありがとうございまーっす、と軽く頭を下げれば、早くしろよ、とだけ言って、土方は自分の部屋へと戻ってしまう。
山崎は宛名の少し滲んでしまった手紙と、懸賞用のハガキを手にし部屋を出た。
外は寒いだろう。風は冷たいだろう。空気は乾燥しているだろう。
ぎし、と廊下が鳴る。
煙草の銘柄も一番近いポストの位置もコンビニの店員の顔も、覚えてしまっている。
余ったお釣りで肉まんでも買って、沖田と分けっこしようかな、と山崎はごく普通に考えている。沖田はあんまんより肉まんの方が好きだとか、今日この寒さなら談話室にいるだろうとか、そんなことも、当たり前のように知っている。
命のように大事に抱えた手紙の行き先は知らないのに、だ。
「高山で、山崎IN鬼兵隊」というリクエストに、コメントで「沖田・土方とかと山崎」という風なお話頂いたので、隊内での山崎に焦点を当ててみたのですが、リクエストを履き違えていたらごめんなさい。
そして高山なのに高杉さんが一切出てきていないわけですが、これ高杉さんの方は「このまま山崎をあっちに置いておく方が、あいつのためにも自分のためにもいいんじゃあないのか」と悩んでいる時期、みたいな裏設定が。……言わなきゃわからない設定があります。
なので気持ちは高山、のつもりなのです。大変申し訳ない。
その裏設定で書いた高杉サイド → 死に至る
高←また要素がありますご注意を