(あー……風邪だな、こりゃ)
自分の咳と肺の痛みで目が覚めた。ひゅ、と喉が鳴り、二三度咳き込む。枕元に投げだした懐中時計を手繰り寄せ、ぼんやりとした月明かりの中なんとか目を凝らして文字盤を覗きこむ。午前三時。
胃がおかしいと思っていたのはどうやら間違いで、単純に吐き気だったらしい。げほ、と大きく咳をして土方はのそりと起き上がった。口の中が粘つく。水か何か飲まねば、再び寝付けそうにない。
(山崎、あの馬鹿、本当に詰めが甘くていやがる)
調子が悪いと気付くのなら、原因まで見抜いて胃薬ではなく風邪薬を持ってくるぐらいの芸当をこなしてみせろと言うのだ。土方が最近食事を取っていないことすら見抜けない輩にそこまで求めるのは酷だろうが。
(気に食わねえ、な)
春の廊下はひんやりとしていた。廊下の冷たさが、僅かに熱を持った足に心地よい。押しあてるようにぺたぺたと歩く通り道に、山崎の部屋がある。
当たり前だが灯は消えていた。
部屋の前に立つ。気配を探ってみる。動いている気配はない。本当に眠っているのだろう。
当たり前だ、午前三時だ。
けれど自分が、喉と肺の苦しさにうなされて眠れないでいるのに山崎だけ寝こけているという事実が何やら大変腹立たしい。調子が悪いと知っているのなら、様子くらい見に来いよ、という完全な八つ当たり。
いっそ怒鳴りこんで叩き起こしてやろうか、と一瞬考えたが、さすがにやめた。周囲の迷惑になるからだ。
代わりに襖に手をかけてそうっと開ける。真っ暗な部屋の奥で、山崎はぐっすりと寝こけている。
(うぜえ)
苛っとしながら、部屋に踏み入った。襖をぴたりと閉めて、部屋の奥へと向かう。
布団にくるまって仰向けに転がり寝息を立てて眠る山崎、の傍に、土方はどかりと座り込んだ。
肺がざわざわとする。喉が痛い。
「うぜえ……」
悪態を吐いて手を伸ばした。触れた髪がひやりと冷たくて、心地いい。前髪をさらりと払って、額に触れる。調子が悪いのはこちらの方だというのに、まるで病人を気遣っているかのような錯覚。
殴って起こすとか、蹴って起こすとか、起こして薬を用意させるとか、八つ当たり気味に罵倒するとか、いろいろなことを思いつくのに実際は咳をするの一つ遠慮して喉元で押し殺すありさまだ。ごほ、と押し殺された咳は、肺をますますざわめかせる。苦しい。
「尊敬とか、言ってんじゃねえよ」
うざい。腹立たしい。おもしろくない。
唇に指で触れてみる。冷たくて、柔らかい。
尊敬してますと言って甲斐甲斐しく土方の世話を焼く輩は今まで何人もいた。土方だけでなく、近藤や沖田や原田や他のすべての隊長がそうだったろう。役付きのものは、媚びか憧れか、下の者に執拗に慕われ、過剰な世話を焼かれる経験を誰もが一度はしたことがあった。
だから、本来ならば山崎の行動は、ひとつも不自然ではないのだ。
憧れの上司の不調を見抜き、なんとかしようと薬を用意し、土方のいいように、土方の喜ぶように、言われたことに答え、ただ土方を尊敬するばかりにそうするのは、ちっとも不自然なことではないのだけれど。
(おもしろくねえ)
熱のせいか、少し目の前がちかちかする。布団から投げ出されている山崎の手を取った。ひやりと冷たくて心地いい。
どんな答えが返るかと少し期待して好きかと聞いた。
土方の行動を逐一観察して、土方の習性を把握して、先回りして、土方のいいように土方の喜ぶように動く山崎の真意が、どこにあるのか、気になって、期待して、聞いたのに。
馬鹿だった。浅はかだった。おもしろくない。ただの尊敬だというのだ。他の奴らと同じ。
土方は元来、人に世話を焼かれるのが嫌いだ。
自分のことは自分の好きに自分でしたい。人に訳知り顔で間違ったことをされて、訂正してやるのも面倒臭い。茶は好みの熱さを自分でいれるし、子どもでないのだから薬だって用意できる。倒れこむ程ではないので布団だって自分で敷けるし、風呂に行きたくないが気持ち悪いというのなら自分で体だって拭ける。いちいち指示するのも指示を仰がれるのも面倒だし、そんなことをされたからと言って相手に好意を抱いたり重用したりするかと言えば、それはまったく別の問題だ。
別の問題なのだ。本来なら。
「お前だから許してるってのが、わかんねえかな」
わからないだろう。山崎は鈍い。
肝心なところで抜けている。土方が山崎以外の他の誰にも世話を焼かせないこと、拒んでいることにだって、ちっとも気付いていないだろう。
頬に触れ、顔の輪郭をなぞる。顎を支えて、唇に触れる。
「……尊敬じゃ、足んねえんだよ」
咳を喉元で押し殺す。苦しい。ゆっくりと屈んで、唇に唇で触れる。ひやりと冷たく心地いい。
これでもし目覚めたら、山崎はどんな顔をするだろう。驚くだろうか。嫌がるだろうか。軽蔑するだろうか。奉仕するほどある尊敬の念さえ消えてなくなるだろうか。
(いっそ、その方が、楽かも知れねえな……)
中途半端に都合のいいまま傍に置いておくくらいなら、逃げてくれた方が楽かも知れない。
唇を離して、土方は着物の袖で口元を押さえた。げほ、と鳴る咳の音を、布を押し当てて殺す。
はあ、と大きく息を吐いて、土方は立ち上がった。見下ろす山崎は目を覚まさない。これで監察が務まるのかと心配になる程だ。
「馬鹿が。抱かせろっつったら、抱かせんのか」
あるいは山崎なら頷くかもしれない。
けれどそこにあるのは、尊敬や憧れ以外の何でもないのだ。
山崎の言葉を信じるとするなら、そうなのだ。
踵を返して土方は山崎の部屋を後にした。廊下はやはりひやりと冷たい、が、山崎の体温の方が心地よかったな、と頭の緩いことを思う。
こめかみを押さえながら土方は、喉を潤すため台所へと静かに向かった。馬鹿には任せられない仕事が休めないほど残っているので。
+++
さすがに部屋に入られたら気付くしどんなに疲れていたって体に触れられればさすがに気付く。
隠れるように布団に潜り込んで体を縮め、ぎゅう、と山崎は両目を瞑った。
(何だあれ、なんだあれ、なんだ、あれ、ねえ)
お前だから許してるって、何をだ。
尊敬じゃ足りないって、どういうことだ。
唇に触れた、あれは。
指先で唇に触れて山崎は息を止める。堅い指先とはまた違う、熱。熱い、吐息。あれは。
(ないって、それは、まじ、ないって。ありえないだろ、だって、そんな)
土方は女が好きだし山崎だって本来は女の子が好きで正常な関係は上司と部下でそうでなくたって主君と家来で言い変えたとしても飼い主と犬だ。それ以外にはなり得ないはずだ。
額や頬や唇に触れた熱。静かな部屋に響いた、押し殺すような咳の音。
もっと大きく咳き込んで、起こしてくれてもよかったのに。何なら殴って蹴って叩き起こして、薬や水を用意させてもよさそうなものなのに。
「なんで、…………」
抱かせろって言ったら、という、声。
限界まで体を丸めて山崎は息を殺す。爆発しそうな心臓と沸騰しそうな頭が、息を殺すことで冷えて収まって止まってくれるのではないかと願うように。
ああでももう心臓は止まってしまったのかも知れない。
だって、こんな。
(……それは、おれの、夢でなくちゃあ、だめだ)
体が震えるのは、ただの一度のくちづけで風邪が移ったからだろうか。
唇に、触れる。躊躇うように柔らかく触れた熱を思い出す。
「……そんなもんじゃ、足りません……」
もっと、ちゃんと、きちんと、深く。
もしこれが夢ならば、そう望んでも許されただろうけど。