暫く留守にしますので、と報告に来た山崎は久しぶりに女の装いをしていた。春らしい淡い色合いの着物に少し濃いめの帯が印象的だ。化粧は少し濃い目だから、多分、色仕掛け系。
鼻孔を擽った香りだけわずかな違和感を土方に与えた。
「金木犀か」
「え? ええ、まあ……」
「何でまた」
今は春だ。着物だってそれに合わせた色合いだ。なのにどうして香りだけ。
大して深い興味もなかったが気になったので問えば、山崎は緩く首を傾げた。山崎はときどき、質問に答える前にこうして首を傾げる。ゆるりとしたその動作を見るたび、土方は山崎を殴りたくなる。
「血の匂いに、似てるから、かなぁ」
そして決まって首を傾げたときの答えは要領を得ないのだ。
「どこがだよ」
「いや、まあ。いいじゃないすか。好きなんですよ」
「どうでもいいがな。好み出してんじゃねえぞ」
好きだからと言って同じものを使いづ付ければそれは変装の意味をなくすぞ、と、そういう意味で忠告したのだが、山崎にきちんと伝わったかどうか。曖昧な笑みを浮かべて頷き、山崎は立ち上がった。戻ったら報告をしますね、と言うので、当たり前だ、と返して、ぱたり。
閉まった襖を見ながら、帰着日時を聞くのを忘れたことを思い出す。
明日か明後日かし明後日か、いつ帰ってくるのだろう。
あるいは今のくだらない会話が最後の会話になるかも知れないな、と考え、土方は煙草に火を付けた。肺のあたりが、まだ少し痛い。
当たり前の話だがあれから山崎とは何もなかった。翌朝目が覚めたら枕元には水差しと薬が置いてあって、額には濡れた布が乗っかっていた。起き上がって数分後に山崎が部屋に粥を持ってきて、それからいつものように甲斐甲斐しく土方の体温を測り食器を片づけ薬を含ませ布団をあげて隊服を用意し……そうして山崎は「じゃ、俺今日は見廻りなんで」と言って部屋を出て行って、それからその日は顔を合わさなかった。
次の日も、その次の日も当然だが何もなかった。
もしかしたら山崎は狸寝入りを決め込んでいて、土方の言葉を聞いていて、それで何かしらの変化があるのではないか、と思ったのだが。
(……本気で寝てやがったのか。いつか死ぬぞ、あいつ)
戸惑うとか動揺するとか困惑するとか恥じらうとか、近付くとか距離を置くとか。
何かしら変化があれば、土方だって腹をくくろうと思っていたのだ。それは場合によって、諦める用意だったり押し通す覚悟だったりするのだけれど。
距離はいつもとさして変わらず、食堂や廊下で顔を合わせれば「もう大丈夫ですか?」と体の調子を心配された。そこで不調を訴えれば何かしらあったのかも知れないが、何故だかそれが躊躇われ、大丈夫だと返してしまった。言いつけるような用事もない。仕事の合間合間に、茶を淹れに来たり休憩しに来たり、隅から隅まで今までどおり。
起きてるうちに手出せばいいのか、と考えないではなかったが、それができればとっくにしている。
結局は、土方も、今を壊すのが怖いのだ。
中途半端に傍にいるくらいならいっそ怯えて逃げてくれ、と思いはするが、中途半端でもいいから傍にいて欲しい、という気持ちが、ないではない。
尊敬する上司、を保っていれば今までどおり、無茶も言えて殴って蹴れて好きに触れて声をかけ、留め置くこともできるのだと思えば、そう簡単には捨てがたい。
山崎の態度は、苛々するし、腹立たしい。
でも、それでも。
(まったく、イかれてやがんな)
この頭、思考回路。どうにかなってしまったとしか思えないのだ。
短くなった煙草を灰皿に押し付け、もう一本口に銜える。それで煙草が空になった。眉間に皺を寄せ、文机を漁るがストックがない。
「あの馬鹿、買っとけっつっただろうが」
苛々と煙草に火をつけて、煙を吸い、吐きだす。
これで殴る口実が出来た。
悪夢のような事務仕事が一段落ついたので、煙草を求めに外へ出た。門を出て屯所の前を通り、角を曲がった自販機に土方の吸う煙草はあるのだが、今日は街まで足を延ばすことにする。ここ数日、部屋と道場と局長室くらいしか行き気しなかったのだから、少しくらい気分転換させてほしい。
着流し懐手で粋人を気どり、喧噪の中をぶらぶら歩く。
そういえば山崎はどの辺りで出かけたのだろう。出かけるということだけ聞いて、実際の調査内容は事後報告が常なので今回もよく知りはしない。どんな手段でもいいから情報を取ってこい、というのが土方の下した命令で、それ以上の判断は全て山崎のものなので。
(花街……にしては、中途半端か)
色仕掛けにふさわしいのは、吉原、深川、歌舞伎町。
芸者の装いでもなし、適当なキャバクラだろうかと当たりをつけて、土方はぶらりとその方向へ歩き出した。
会おうと思ったわけではない。第一、顔の知られている自分が変装中の山崎に会ったりしたら、何もかもが台無しだ。
ただ少し、どこかで姿が見えないかな、という、ほんの少しの期待。
夢で見れたらいいな、という、少年の淡い気持ちに少し似ている、と気付いて、土方は苦笑した。
恋しい人の夢を見たいと願う程純朴な精神でも、年齢でも、ないはずなのだけれど。
ぶらり、と街を奥へ歩き、適当な道を行く。どこか目に付く場所で目当ての煙草が手に入れば帰ろう、とルールを決めて歩く先、空気に滲んだ慣れた匂いがした。
(あ、)
血の匂い。
薄く、空気に混じる、ほんの少しのそれ。
路地を抜け、開けた場所に出る。視線を巡らせるまでもなく、立っているのは山崎と、
「あの、馬鹿っ!」
腰に佩いた刀を抜いて土方は地面を蹴った。山崎と正面で対峙していた男が刀を振り下ろす、のと、山崎の背後から近付いた男が刀を振り下ろすのが、ほぼ同時。
「……っ!」
割って入った土方は背後から狙っていた男の刀を弾き飛ばし、返す刀で斬りつけた。赤が飛び散り、血の匂いが濃くなる。背後で、きいん、と刀のぶつかる音。振り向けば、相手の懐に飛び込んだ山崎が、躊躇いなく男を押し切ったところだった。
軽やかに身を引いた山崎に、それでも返り血が降りかかる。
淡く愛らしい着物に散った、禍々しい血の色。
顔を青褪めさせて振り向いた山崎に、土方は手を振り上げた。
ぱしん、と高い音が響く。ぬるり、と血が滑る。
「この、馬鹿が! 何やってやがんだっ!」
「……どうしてこんなところにいらっしゃるんです」
「俺のことはいい。お前は何してやがんだって聞いてんだ」
「ちょっとばれちゃって。すいません。でも、話聞いたあとだったんで、こっからの捜査は、」
「そういうことを言ってんじゃねえよ!」
ぱしん、ともう一度頬を張る。俯いた山崎は、すいません、と小さい声で謝ってそれきり口を噤んでしまう。苛々と、土方は山崎の顎を掬いあげた。赤く濡れた唇は、紅だろうか、血だろうか。
「俺が来なきゃてめえは死んでた」
「…………」
「死んでたんだぞ、山崎」
あんな、くだらない会話を最後にして。
中途半端な距離だけ保ったままで。
「……それでもあなたは、俺を助けに来ちゃいけない」
振るえる指が土方の手に触れた。縋るように、指が絡む。再び逸らされた視線と、必死で震えを堪えたような声が、血の流れる中。
「ドジをしたのは謝ります。手数をかけたことも謝ります。でもあんたは俺を、助けちゃ駄目です。俺が死んでも、助けちゃだめです」
「何で、」
「危ないことを」
しないでくださいよ。と言う声が、泣き声のようだった。
「目の前で殺されるのを見てろって言うのか」
「できれば、そうして欲しいくらい。俺のために、あなたが傷つくところなんか、俺に、見せないでくださいよ……」
このうえなく我儘で自分勝手でどうしようもない言葉だった。聞く必要性すら感じられないほど道理の通らない言葉だった。苛々とした感情が、土方の中で爆ぜる。ざわざわと肺が痛い。
手首を掴んできつく握った。痣が残るだろうと思われた。痛みに顔をあげた山崎の頭を掴んで引き寄せる。逃げる間も与えずに唇に噛みつく。血の味。吐き気がする。
近くなった距離に、金木犀が香った。喉の奥に絡みつき、肺の奥まで染み込むような、癖のある濃い香りだ。目頭を熱くさせ、涙を誘う。秋の切ない匂い。
「……それすら、許さねえなら、尊敬とかいらねえよ」
囁いた言葉は正しく山崎に届いたのかどうかわからない。
返事を聞く前に再び口づける。血の匂いがする。喉の奥に絡みつくような、それが少し、金木犀の香りに似ている。頭痛を呼ぶ、眼の眩むような。