手首の、握られている部分が痛い。血の堰き止められた手首より先が白くなっていく。力が上手く入らない。
そのまま足早に歩かれて、引きずられるように付いて行く他ない。手を振りほどくという選択なんて、最初から、少しも。
(痛い、なあ)
怒らせた、というのはよくわかるがその理由が分からない。いや、分かるのだか、分かりたくない。夢の中で収めておかなければなからなかったことが現実になって襲いかかってきているような気がして、怖い。それともこれは夢だろうか。
けれど熱い。
握られている手首だとか、あと、噛みつかれた唇だとか。
人気のない道を選んで土方はどんどん歩いて行く。山崎は今女の装いをしていて土方も山崎も少なからず返り血を浴びていて土方なんて堂々と帯刀していて女の格好をした山崎の腕を引いて怖い顔で歩いている。誰か通行人に通報されたら一発でアウトな状況だ。けれど土方は歩みを止めない。
「ふくちょお」
呼んでも、答えない。ぎり、と手首を握る力が強まって、まだ余力があったのかと少し驚く。
「どこ行くんですか」
ゆっくりとではあったけれど太陽は確実にじりじりと西に沈もうとしている。門限があるわけではないけれど帰る場所はあるので、暗くなる前に帰らなければ、と検討違いなことを考える。
ああけれど自分の上司あるいは主君あるいは飼い主が自ら手を引いて歩いているのだから、帰る場所など今ここより他ないのではないか?
土方は山崎の問いに答えず、ずんずんと大股に歩き、人気のない路地を抜けて少し広い道へ出た。喧騒。人の気配。山崎はびくりと足を止めかかる、が、腕を引かれていて叶わない。
「ふ、くちょお!」
「黙ってろ」
ぐい、と山崎の腕を引いて土方は知らん顔だ。着物に血を付けた女が帯刀して返り血を浴びた男に引きずられている、なんて、弁解しようもない状況に山崎一人が焦る。これが広まったら、土方にとって悪いことになるということだけ鮮明に分かって怖い。
せめて自分の姿が隠れるように、歩調を速めて土方の傍へぴたりと寄りそうようにした。
手首にかかる力が、少し緩む。
「模様に見えるだろ」
「え?」
「血の跡。わかんねえよ。騒ぐな」
「でも、」
「騒ぎにして欲しいのか、てめえは」
「いいえ、いいえ。でも、あの、どこへ、」
行くんです。
どんどん知らない道へと進んでいく土方を仰ぎみれば、土方は眉間に深く皺を刻んで、吐き捨てるように言った。
「知らねえよ」
それでも躊躇わず、止まらず、歩いて、歩いて、小さな駅で切符を買って小さなそれを押し付けられて、見知らぬ電車に乗って、座って、どんどん、どんどん。
行き先も分からないまま、太陽は西へ沈んでいく。
いつの間にか指の先には血が通い、代わりに手が、繋がれていた。
日もすっかり暮れた頃電車は見知らぬ駅へ止まった。終点だと言われて降りる。人気のない駅の改札。箱の中に切符を入れて通り抜けた先には、懐かしい景色が広がっていた。知っている場所だというわけではない。けれど、広がる緑や、伸びる木や、風、そんなものがひどく懐かしい。郷里の景色に似ているのかもしれない。
駅の明かりにかろうじて照らされたそれら以外はとっぷりと闇に沈んでいる。灯りがないのだ。
「どこに、行くんですか?」
「知らねえ」
「副長」
「知らねえよ。どっか遠く、お前が、俺を副長って呼ばなくなるようなとこ」
行くぞ。言って土方は歩きだした。繋がれた手に引かれるように山崎も足を踏み出す。手首を握られていたときより、逃げるのはずっと容易なはずなのに、やっぱり振りほどけない。そんな山崎をちら、と振り返って、土方は大きく溜息を吐いた。眉間の皺が深い。
「馬鹿だな、お前」
「何が……ですか」
「逃げろよ」
「は?」
「こんな、わけわかんねえ感じでいきなり攫われてさァ」
攫われていたのか、自分は。
「そんな恰好で。あんなことされて」
苦々しい声に、何のことだろうと首を傾げかけて、あ、と山崎は顔を赤くした。
噛みつかれた唇。知らない景色を通る間に、土方の怒りのようにいつの間にか熱を失っていたそれ。
空いている方の手で唇に触れる。意識すれば今すぐにでも思い起こせそうな舌の感覚に、山崎の肩が少し震えた。無意識に歩みを止めようとする山崎を、土方がぐいと引き寄せる。
「あの、……あの」
「怒れよ。逃げろよ。嫌いになれよ」
「……は、」
「おめえの尊敬なんか、いらねえんだよ。よーくわかった。うぜえ。死ね」
「ちょ、何の話」
「おめえは俺を尊敬してるんだろう。心底崇拝してるんだろう。俺が布団敷けっつったら敷くし体拭けっつったら拭くし一緒に寝ろっつったら、寝るんだろう」
ぐ、と握られた手に力が籠る。再び指先に、血が通わなくなるのではないかと思うくらい。
熱くて熱くて、その熱で、焼け爛れてしまうのではないかと思うくらい。
「抱かせろっつったら抱かせるのかも知れねえ。けど、それは、お前が俺に憧れて心酔して尊敬してるからなんだろう」
その通りだ。
そういうことになっている。
山崎は土方の部下で家来で、でなければ狗だ。主人の命令にならある程度従うし、それを盲目に肯定するくらいの忠誠心は、ある。尊敬しているが故傍にいるし言うことをきくし離れない。憧れでもってそうするのだ。
そういうことになっている。
だから山崎はここで頷かなければならない。
(分かってる、んだけど……)
けれど頷いたら繋いだ手を離されてしまうようで怖い。
灯りのない道を土方はどんどん歩いて行く。どこに行くのか、行き先は知れない。
「お前は俺を上司としてか武士としてか、何なのかは知らんが、尊敬してる。だから、俺がお前を守ったりするのには我慢がならねえ。お前の中にある俺という像を壊すこと、あるいは俺を尊敬しているお前という像がぶれることは、許せねえ」
「え。ちょ、待って下さい副長。それは、ちょっと違うっていうか、」
「違わねえよ。そういうことだよ。助けてやって、お前が迷惑がるって、そういうことだよ」
「俺は! 俺なんかのせいで、副長が怪我したりとかそういうのが我慢ならないだけで」
「あの程度で俺が怪我するとでも思ってんのかおめえは。舐めてんのか」
「そういうことじゃなくて!」
「尊敬してますゥ、とかそんなのは、いらねえんだよ。うぜえ。邪魔くせえ。そんなんだったらもう俺の周りちょろちょろすんな。失せろ」
「…………」
「それができませんっていうなら、嫌いになれ。俺のこと、今すぐな。ひどいことしてやっから」
「……副長?」
「ああ、ほら、お誂え向きに」
真っ暗だった道の先にほんのり外灯が灯っている。街に出たのかと目を凝らした山崎は、土方の言葉の意味を把握してひゅっと喉を鳴らした。
見つけた連れ込み宿へ向けて、土方は迷わず足を踏み出す。
繋いだ手の力が、少し緩んだ。逃げろということなのかも知れなかった。
けれど山崎はその手を離せない。振りほどけない。伺うように振り向いた土方の目を見ることもできない。
本当だったらいいのにな、と思いながら、本当になって欲しいと思ったことなんて一度もなかった。
(……この優しい人は、本当に、俺のことが好きなのか)
冷たい汗が背中を滑り落ちた。握られた手が熱い。泣きそうになって目を閉じる。
嬉しいよりも、ただこわい。とんでもないことをしてしまったような気がする。瞼の裏に見えたのは刀を振り下ろして血を浴びる土方の姿だ。自分の為に、その身を晒した。
そんなことあっていいはずがないのに。
嬉しいと思ってはいけないはずなのに。
せり上がる冷たい塊に喉元を押さえる。震える手で縋るように土方の手をきつく握る。
それを見下ろした土方が不意に足を止め、俯く山崎の頭を軽く叩いた。子どもにするように優しくそうして、優しい声が、落ちる。
「……もっと、遠くまで、連れて逃げてやりてえなぁ」
その声に体が震えて、山崎はもう泣き出しそうだ。
嬉しいよりも、こわいのに、罪悪感にも似た何かに押しつぶされそうな程なのに、それでも。
「……ひじかた、さん」
本当はやっぱり、好きで好きで、好きなので。