そうそう。ゆびきりなどという可愛らしいことしてくれるような人でないと分かっていたので、眠ってしまった後でこっそり一方的に小指をからませたのだった。
目を開ければぼやける視界にはまず真っ白より少しくすんだ天井が映って、ゆっくり首を巡らせば少し瞳を潤ませている土方と目が合った。
「あれ」
出した声が少し喉に引っかかって気持ちが悪い。んん、と軽く咳払いをする。
「何してんですか」
病院のちゃちな丸い椅子に座って涙目になっている情けない上司は、言葉を発した山崎に一瞬大きく目を見開いて、それから勢い良く腕を振り上げた。そして振り下ろす。
「いてッ!」
「っ……テメェ、何やってやがんだ、あァ!?」
「それはこっちの台詞でしょうどう考えても!」
「るせェ口答えしてんじゃねェ!」
がつん、ともう一度山崎の頭に拳が落ちて、その拳を山崎の額にぴたりと付けたまま土方が俯く。ず、と鼻を啜るような音がした。
「――――アンタ、どっちの土方さんですか?」
「……ンだよ、そりゃあ」
「記憶がない方の、腑抜けの土方さんですか」
「何だともう一度言ってみろ山崎コラ」
凄むがやはり顔は伏せたままだ。
「じゃあ、記憶がある方の馬鹿な土方さんですか」
「お前死ねマジ」
「それとも」
額に拳を乗せられたままなので、土方の顔を覗き込むことも薄汚れた白い天井から目を逸らすことも出来ずに山崎は目を閉じる。額に手が乗っかっている部分だけが、妙に暖かくてくすぐったい。
「俺は、夢見てたんでしょうか」
ぽつりと呟いたその言葉に、土方の拳がそうっと退いた。さらりとした山崎の前髪を軽く撫でて手が離れていく。
「あのね、すごいリアルだったんですよ。土方さんが俺を庇って怪我して、しかも間抜けに頭ぶつけてそのせいで記憶どっかに落っことしてきて、」
額から離れた土方の手が、行き場を迷って結局山崎が横になっているベッドの上へぽすりと落ちた。
「組のことも知らなけりゃ俺のことだって当たり前に覚えてなくて、しかも俺を避けるし。悔しくなってキスしたらますます避けるし。じゃあそれでいいやと思って普通に振舞えばそっちからキスするし。意味わかんないですよね。何なんでしょうね。しかも心がやたらと参ってすっげ腑抜けてるんですよ。殴られてもあんま痛くねーし。で、やめろっつったのにのこのこ現場に出てきて、飛び道具で狙われたんで助けてやったんです、俺が」
ね、腑抜けでしょ。
笑って山崎は目を開けた。まだ少し涙目の土方が真っ直ぐ山崎を見ていたため視線が絡んで、山崎が眉を下げた。
「何て顔してんですか」
「夢じゃねェよ」
苦い声で土方が言った。
院内は禁煙なのでそろそろニコチンが切れているのだろう。貧乏ゆすりをしている。安い丸い椅子がそのせいでカタカタと音を立てた。
「夢じゃねェ」
絡んだ視線が強いので山崎はそこから目を逸らすことができない。困ったように眉を下げたまま、か細い声で、じゃあどっち? と聞いた。土方はその山崎の声があまりに頼りがないのに一瞬唇を引き結んで、それから、
「馬鹿な方だバカ」
と答えた。
「本当に?」
「ああ」
「本当に、夢じゃないんですか。そんで馬鹿に戻ったんですか」
「馬鹿じゃねェ」
「思い出したんですか?」
「……むしろ、記憶喪失だったって部分の記憶があんまりねェ。総悟に聞いて担がれてんのかと思ったが、近藤さんまで言うなら本当なんだろ」
「何で戻ったんですか」
「…………知らねェ」
「俺が怪我したショックとかですかまさか」
「…………」
「マジですか、すげえ」
「るせェ、お前ちょっと黙れ」
苛立った声で土方は平手を振り上げた。振り上げたそれを、ぺちりと柔らかく山崎の頬へ当てる。
「土方さん」
「…………」
「ひじかたさん」
「……なんだよ」
「俺の名前知ってます?」
「あ?」
「名前」
「山崎退だろ。何だよ」
「じゃあ俺の趣味とか知ってますか」
「ミントン」
「好きな食べ物」
「しいたけの煮たの」
「嫌いな食べ物」
「トマト」
「じゃあ、」
まだ続くのか、と土方は呆れたように眉を上げた。
頬にあてられたままの土方の手を、山崎が包むようにする。
「俺のすきな人、知ってますか」
どこか不安そうな声音に土方は黙った。黙って、ただカタカタと椅子を鳴らした。
「俺ね、土方さんが好きなんです」
「…………」
「土方さんが俺のこと好きじゃなくなっても、好きなんです」
「…………」
「好きなんです」
そっと目を伏せて言うので土方は苛々として、山崎の頬からべりと手を離した。一緒に引き剥がされた山崎の手が、真っ白なシーツの上に力なく落ちる。
「何だよお前、それは」
山崎は答えず、目を伏せたまま少しだけ笑った。
やり切れず土方は、苛々と貧乏ゆすりをすることしかできない。誰か、沖田でも近藤でも誰でもいいからはやく来てくれたら一服を理由にここから離れたいとそう思った。
「土方さん」
山崎は尚も言い募って、顔を横に向け土方を見る。あ? と低く言った土方が照れているのが容易に知れて、山崎は思わず笑い声を上げた。
「何だよ」
「あのね、アンタね、やっぱ馬鹿ですよ」
「あァ?」
「自分で命じたことすっかり忘れるあんたはすっげえバカですよ」
「何だよそれ」
「常々自分の言葉に責任を持たない人だとは思ってましたけどね。あんまりだ。よりにもよって俺を庇って死にそうになるなんて、あんまりだ」
「何の話だよ」
山崎は機嫌の悪そうに怖い顔をしている土方をじっと見て、不意に真面目な顔をした。
真面目な顔をして黙って土方も思わず動きを止めたので、部屋には空調のごおおという音や廊下を誰かが歩く足音や機械が小さく動く音などの以外、何の音もしなくなった。
「『お前は一生俺の傍にいろ』」
低い声で山崎は言って、土方の目を覗き込む。土方はわけがわからないというように眉を寄せた。
「何だそれ」
「『俺の傍で生きて、最後は俺の傍で死ね』」
怪訝そうな顔をする土方に、山崎は薄く笑ってみせる。
「あんたがくれた命令です。酔ってたから覚えてないでしょうが」
「いつの話だ、それァ」
「伊東のことがあって、俺が胸に傷こさえて帰ったくらいの話です」
山崎の言葉に土方の顔が一瞬曇る。山崎はそれに構わずに、やはり少し笑ったまま言葉を続ける。
「俺はそれをいい子に守って今回あんたを庇ったので、あんたが泣くようなことはありません。あんたは自分で命じたくせにそれを破って俺を庇ったりしたので、大事な記憶を落っことしたりするんです。馬鹿です」
「何だよそれは」
「困るんですよ。あんたがいないと。俺は約束したんです。あんたが覚えてなくたって、俺はあんたに誓ったんです。土方さんが、死んだらね」
やはり行き場をなくしてベッドの上に投げ出していた土方の手を山崎は力いっぱい握る。
払いのけられないことに安堵して、じっと見つめるのに目を逸らされないことに安堵をして、自分の言葉を土方が静かに待っているのに安堵する。
「土方さんが、死んだら、俺はどこで生きてどこで死ねばいいんですか」
土方が少し目を細めて何かを言いかけ、結局何も言えずに唇を引き結んで目を閉じた。それをじっと見ながら、山崎は強く握っていた手の力を抜く。
「俺の名前、知ってますね」
「……ああ」
「趣味も、好きな食べ物も嫌いな食べ物も、知ってますよね」
「ああ」
「じゃあ、」
乾いていたはずの目が少しずつ潤んできて、次第に視界が滲んでいく。土方が目をゆっくりと開けるのでさえ、上手く見えない。鼻を啜れば、ずず、と不恰好な音がした。吐く息が震える。そんな山崎の手を、土方が思いがけず優しく握った。
「……傍にいても、いいですか」
うん、と短く、子供のように素直に土方が答えた。
山崎はその答え方がおかしくて笑う。笑ったせいで目尻でぎりぎり留まっていた涙がすいと頬を伝って耳へと流れ込んだ。
「約束、守ってください」
「…………」
「他の何の言葉は忘れても、この約束だけ、守ってください」
「…………ああ」
「俺が、あんたを守るんです。俺は、あんたの傍で生きて、あんたの傍で死ぬんです」
静かに言う山崎の手を土方の手が優しく握って、包み込むようにした。
少し前にこんな夢を見たな、と山崎は思い出している。
傍にいろと勝手に言って、山崎の手を優しく取って山崎の前を歩いていった黒の中にまっすぐ輝くその背中を思い出している。
これは夢ではないだろうか。耳へと流れ込んだ涙がくすぐったくて身を捩った。
廊下を歩く人の足音はするが、病室のドアは一向に開かれない。
近藤も沖田も何やかやで忙しいのだと土方は言って、山崎は「じゃあなんで副長はこんなとこでだらだらしてんですか」と言うものだから怪我人だというのに頭を力いっぱい殴られた。
殴ったその手でやはり柔らかく優しく手を握るので、山崎は何も言えない。
誰もこないので、静かな部屋で二人でいる。カタカタと椅子が鳴るほどニコチンが不足している土方は、しかし立ち上がって部屋を出て行かない。
次第に山崎の目がぼんやりとしてくるのに気付いて、土方が
「寝てろ」
と短く言った。山崎は大人しくはい、と答えて、それから甘えるようにかからかうようにか、土方の目を覗きこんだ。
「手を、離さないでくださいね」
握った手に山崎がぎゅっと力を込める。土方は返事をしないままでその手を強く握り返したので、山崎は満足気ににこりと笑った。
「あのね、あんた本当にどうしようもない馬鹿ですけどね、くだらない約束ばかりは守る気でいるみたいですよ」
「何がだよ」
「生まれ変わっても、俺を好きになってくださいね」
「はァ?」
くくっと笑って山崎はそれきり何も言わなかった。土方は仕方なく舌打ちだけして、山崎の指に自分の指を絡ませるようにして手を握りなおした。
すきです、とかなんとか。
ふわふわとした意識の中で山崎は飽きもせず口にしたような気もするが、眠気に負けて不明瞭なそれは上手く言葉になることなく、ただ、山崎だけの記憶の淵に引っかかって、泡のように消えていった。
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