暗い、どこまでも暗い黒の中で山崎は立ち尽くしていた。
塗りつぶされたような真っ黒だ。奥行きも何も感じられない。ただ黒い。
右へ行けばいいのか左へ行けばいいのか分からない。自分が真っ直ぐ立っているのかどうかも分からない。上へ行けばいいのか下へ行けばいいのか分からない。どうすればいいのだろうと、ただ呆然と立ち尽くしている。立ち尽くしているのだと自分は思っているが、立っているのかどうかも分からない。足の下に地面があるのか定かでない。もしかしたらふわふわと不安定に浮かんでいるのかも知れない。
どうすればいいんだろう。途方にくれてしゃがみ込めば、こつんと足音が聞こえた。地面などないはずなのに確かに響いたそれは聞きなれたリズムで山崎に近づいて、それからぴたりと足を止める。山崎は顔を上げて、目の前に現れた人の名前を呼んだ。
「土方さん」
「何していやがるんだ」
呆れたように言って、土方は山崎を見下ろした。それをぐっと見上げて、山崎は眉を下げる。
「真っ暗で何も見えないので、どこへ行けばいいのかわからないんです」
言えば、馬鹿、と短く返ってきた。ひどい、と嘆くより先に手を差し出される。
「俺の傍に居ればいいじゃねェか」
何言ってるんだこの人、と呆けて見上げたままで居れば、少し苛立った土方が屈んで山崎の手首を掴んだ。そのまま引っ張り上げて無理矢理山崎を立たせる。
「テメェはそれでいいんだよ」
不機嫌そうにそう言って、山崎の答えを待たず淀みない足取りで歩き出した。周りは以前として黒に塗りつぶされたままだったが、土方は迷わず真っ直ぐ歩いていくので山崎も引きずられるようにしてそれに従った。
(ああ、なんだ)
(こうして傍にいればいいのか)
妙に納得したので、引きずられるままではなくて今度は自分の意思でその後ろを着いて行くように歩いた。山崎のその足取りに気付いたのか土方が振り返って、柔らかく笑った。
「約束しただろ」
そして、手首を握っていた手を離して、満足そうに手を繋ぎなおした。
そんなところで目が覚めた。
「………………最悪だ」
窓の外でとっくに朝日は高く上っていて、廊下からは時折隊士の足音が聞こえてきた。
呆然と天井を見つめたまま、山崎はもう一度呟く。
「……最悪だ」
よりによって最低最悪の夢を見た、と頭を抱えた。何だってあんな夢を見たのだろう。眩暈がする。
手首を握られた感触が、夢とは思われないほど生々しく残っていた。そっと手首に自分で触れて溜息を吐く。繋がれた手の感触もはっきりと覚えていた。
そしてもう一つ、耳にやたらと残っている声。
「約束、ったってさぁ」
ごろりと横に転がっていつの間にか蹴ってしまっていた布団を頭から引っかぶった。
「忘れて勝手に俺を庇ったのはテメェだろってんだ」
布団の中で声はくぐもって響いた。
最悪だ、ともう一度思ってのそのそと起きだす。そろそろ起きないと朝食を食いっぱぐれる時間だ。
布団をばさりと畳みながら、山崎は再び溜息を吐く。
何が最悪って、起きた瞬間夢だとわかって絶望した自分が一番最悪だ。
「おお山崎、どうした? 元気ないな」
洗顔をして着替えて朝食を食べ終えて、さて仕事をするかと廊下を歩いているところで近藤とばったり出くわした。悪く言えば能天気な、良く言えば物事に動じないおおらかな笑顔で山崎の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「はあ、ちょっと夢見が悪くって」
「悪い夢はかえって吉兆だって言うぞ、よかったな」
がはは、と大きく笑うので曖昧に笑い返しておく。寝起きの印象は最悪だったが、夢自体が悪い夢かといわれるとそれは正直微妙なところだ。
「でも大丈夫か? 夕方から討ち入りだぞ」
「ああ、それは」
大丈夫です、と頷いて頭の中で予定を再確認する。
「二番隊でしたっけ」
「うん、そうそう」
頷いた近藤は、頑張れよと山崎の肩を叩いて去っていこうとした。その去り際で、思い出したようにああと声をあげる。
「何です?」
「その討ち入りな、トシも行くから」
「……は?」
口を開けて近藤の顔を凝視する山崎に、近藤は少し困った顔をして、
「感覚、取り戻したいんだとよ」
言った。
ぐっと拳を握った山崎に、アイツ道場にいたよ、と親切に教えてくれたので山崎は礼もそこそこに駆け出した。
その背中に向かって、ごめんなあ、と近藤が呟いたその言葉は山崎には届かない。
もとより誰に向けての謝罪なのか、近藤自身にも、分からない。
山崎は足音も荒く道場に乗り込んで、そこで一心に竹刀を振る男の名前を大声で呼んだ。
「土方さん!」
土方は小うるさそうに顔を顰めて山崎へ振り向き、それからまた竹刀を振りはじめる。
「土方さん」
「うるせーな、聞こえてるよ」
舌打ちを一つして手を止めた土方は着物の袖で汗を拭って、お前も稽古か、と言った。
「討ち入りに参加ってどういうことですか」
「聞いたか」
「聞きました」
「そういうことだ」
「っざけんな、アンタまだ本調子じゃないでしょうが何勝手なことしてんです」
苛々と吐き捨てる山崎に土方が眉を上げる。
「あァ? お前何様だよ、何でテメェにンなこと言われなきゃなんねーんだ」
「心配してやってんです。まだ肩の怪我だって治りきってないのに、こんな小さなヤマに出張ってどうするおつもりです」
「うっせェな、ごちゃごちゃ言ってんじゃねェよ。怪我なんてとっくに治ったし、机に向かって紙の整理ばっかじゃ腕も鈍んだろ」
「アンタはそもそも働きすぎなんですから、これを機に養生してください」
「ンだよお前は俺のカーチャンか何かか? 関係ねーだろ、黙ってろ」
「迷惑だっつってんです」
「あァ!?」
引かず言い募る山崎の言葉に土方が顔色を変えた。持っていた竹刀を投げ捨てるようにして山崎に詰め寄り、反射的に逃げかけた山崎の腹を蹴り上げる。
「……ッ」
「余計なこと言ってんな、うぜェんだよテメェはよォ」
土方はそのまま反動で倒れた山崎の胸倉を掴んで、握った拳でその頬を殴った。がつ、と嫌な音がする。咄嗟に奥歯を噛み締めた山崎を土方は見下ろして、大きく舌打ちをした。
「鈍んだよ、何もかもがよ。覚えてねェんだ、何もかもよ。俺はどんな風に人を斬った。どんな風に人を殺した。正義って大義名分を掲げた上で人を斬るってのはどういうことだ。幕府の狗として誰かを殺すっつーのはどういう気分だ」
「……だからそういうのが足手まといだっつってんです」
吐き捨てるような山崎の言葉に土方が顔色を失った。そのまま掴んだ胸倉を引き寄せる。山崎は殴られるのだと思ってきつく目を閉じた。
奥歯を噛み締め力を入れて緊張をしているその唇に何か柔らかくあたたかく湿ったものが触れて、そしてすぐに離れた。
「………………は」
驚いて思わず両目を開けた山崎はその瞬間胸倉を掴んでいた手を離されて、ごとんと床で頭を打つ。がばりと身体を起したそのときにはもう、土方の姿はそこになかった。
「……なんだ今の」
座り込んだまま呆然と山崎は呟く。呟いて、唇にそっと指で触れる。
「……はは、なんだ今の。まだ俺寝てんの? 夢見てんの? 最悪だな」
唇をなぞって、それから殴られた頬に触れた。熱い。でも、思ったほど痛くはなかった。続いて蹴られた腹に触れる。さすがに少ししんどかったが、思ったほど辛くはなかった。
腑抜けているのだ。まったく腑抜けている。忘れているとか忘れていないとか、自分の居場所が分からないだとか、そういう戸惑った気持ちを露にしたまま刀を持つべきではないのに。
それが土方を侮辱することになるとしても、やっぱり山崎は土方を止めたかった。
殴る拳に蹴り上げる足に力がないのだ。胸倉を掴む手が震えているのだ。
怪我をしていても戦えるが、心で負けては勝てない。刀ってのはそういうものだ。
「本当に最悪だな……」
立てた膝を抱えて顔を埋めた。触れられたばかりの唇を噛んだ。
討ち入りは結局、予定通りの短時間で終わった。
けれど山崎は眉を寄せる。
いつもより多めに返り血を浴びていた。いつもより多めに刀を振っていた。
いつもより多めに細かい傷を拵えて、いつもより舌打ちの回数が多かった。
血と脂でどろどろに汚れた現場から少し離れて煙草を吸っている人の横顔を見て山崎は顔を顰める。
二度山崎が援護に入って一度山崎が横から助けて四度ほどはらはらとその様子を窺った。だから嫌だって言ったのだ迷惑だと言ったのだ足手まといだと言ったのだ。
真選組の副長として人を斬り殺した土方は何を考えているのだろう。遠くを見たまま、深く煙を吸い込んでいる。
現場から押収した刀や爆弾やらをまとめながら、山崎は土方を盗み見る。
(だから言わんこっちゃない、とか、言ったら殴られるかなァ)
恐らく殴られるだろう。
でもまあさすがに鬼の副長と言われるだけあって、山崎が心配した程ではなかった。山崎以外であれば見過ごしていたくらいの危うさに過ぎなかった。
(過保護なのかな、俺って)
どうも、土方が記憶を失ってからというもの、妙に気にしすぎていけない。
言動や態度が以前と違ってどこか自信の無いようだから気になるのかも知れないし、以前の土方とは違う、という意識が山崎の中に強くあるのかも知れない。
兎にも角にも気にしすぎだったか、と苦笑して山崎は押収品を別の隊士に渡した。
諫言をして殴られ損だなぁと思いながら、帰るために声を掛けようと土方へ向く。
「副長、終わりました」
「おう」
まだあまり短くなっていない煙草を地面へ落として踏み消した土方は、やはりどこか覇気がなかった。軽く首を回しながら歩く土方を待つ山崎は、その背後で何かが光ったのを見る。
「?」
夕日が何かに反射をしたのだ。何に? と疑問に思うより先に身体が動いていた。
地面を蹴って土方の腕を掴み勢い良く引く。バランスを崩した土方が怒鳴るより早く、パン、と乾いた音が響いた。
土方が先程まで立っていた位置に今は山崎が居て、土方を庇うようにするその背中に、じわり、と血が滲む。
「山崎?」
ぐらりと傾いだその身体を、山崎に倒された土方が支えた。
肩を掴まれ支えられ、背中から肩に掛けて激痛が走り山崎が低く呻く。背中が熱い。熱いその中心が心臓と同じリズムでどくどくと響いている。熱い。痛い。視界が霞む。
霞んだ視界のその先で、土方が焦ったような表情をしていた。
「山崎? おい、」
一番近くで聞こえるのがその焦ったような声で、遠くからやはり焦ったように名前を呼ぶ声やバタバタと駆ける足音などが聞こえる。身体を少し動かせば、地面にだらりとついた手がぬるりとしたものに触れた。流れたばかりの血だった。
「山崎! おい、何だ、どういうことだ! おい山崎!」
苛立ったような焦ったような、少し高い声が聞こえる。
何か言おうと唇を開くが、うまく声が出なかった。ひゅう、と喉が鳴る。
「山崎!」
そんなに呼ばなくても聞こえてますって、大丈夫です。
あんたは大丈夫ですか。どっか怪我してないですか。
だから言ったんです。足手まといだ迷惑だって。
「俺は……、」
焦った声に困惑したような色が混じる。薄く目を開ければ土方が顔を顰めて山崎を見ている。
最初が一番間違っていたのだ。最初が間違ったから、こんなことになったのだ。
山崎は自分を抱きとめる土方の顔に手を伸ばして、流れた血で汚れた手でその頬を撫でた。
「これが、正解」
小さく笑って目を閉じた。
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