当然だけれど、あれからますます山崎は土方に避けられていた。
前までは顔を合わせば少し気まずそうな顔をする程度だったのが、今ではもう、山崎の顔を見れば眉間に皺を寄せて踵を返してしまうというところまできている。
キス一つでときめいて恋に落ちるなんて、そんなドラマみたいなこと考えるんじゃなかった。
生まれ変わってもまた恋をするなんて、そんなことあるわけがなかった。
これはいよいよ嫌われた。もう山崎は泣くこともできない。
いよいよ斬ってやりてェなァ、と物騒な声を沖田が出した。山崎はそれに笑って、音を立てて茶を啜る。刀の刃を太陽の光に透かしながら沖田はもう一度、
「斬ってやりてェ」
と言った。
「ダメですよ、斬っちゃ」
形だけでも宥めれば拗ねたような顔をする。
「……あのバカ、何もかも忘れやがってんだ」
「そうですね」
「ここにいる間のこと何にも覚えてねェ」
「そうみたいですね」
「あのバカ、」
光をきらきら弾いていた刀が、すっと鞘に納まった。それを暫く眺めて、沖田はぽつりと小さく零す。
「姉ちゃんが死んだことだって、知らねェんだ」
沖田をあやすように薄く笑いを浮かべていた山崎が、その言葉で視線を落とした。
ミツバが死んだのは、言ってしまえばつい最近のことで、土方の持っている記憶の外の話だ。彼の中では未だ道場に残してきたばかりの愛しい人が、美しく笑っているのだろう。
今も遠い武州の地で、笑んでいると、そう思っている。
「なぁ、山崎」
「はい」
「教えてやろうか。あのバカに」
ふっと顔を上げた沖田はいつものように意地の悪い笑みを口元に浮かべていた。ただ瞳が翳っている。いっそこの人こそ泣けばいいのに、と山崎は思う。
「姉ちゃんは死んだって、教えてやろうか」
にぃ、と笑う沖田の笑顔に力がなかった。
土方が記憶を失ったと分かったあと、沖田が一番最初にしたことはミツバの遺影を隠すことだった。部屋に大事に飾ってあったそれを、すぐには見えない場所に隠した。
せめて土方の記憶の中にだけであっても姉に笑っていて欲しいと願う気持ちからなのか、それとも、土方が姉の死を知ったときに受ける衝撃を気にしてのことなのか、山崎には分からない。
分からないが、そんなことを真っ先に考えた沖田が、今になってその隠した秘密を教えようと言い出すだなんて、相当参っているのだろうなということだけは分かった。
寂しい笑顔で項垂れる沖田の手に、そっと自分の手を重ねる。
「沖田さん、あのね、間違っちゃいけませんよ」
言い聞かすようにゆっくりと喋る。
じっと聞いて、沖田は瞬きをする。
「俺も、沖田さんも、局長も、他のみんなも辛いけど、一番辛いのは俺らじゃないでしょう」
誰に言い聞かせてるのだろうな、と山崎は少し苦笑した。
多分これは、一番自分に言い聞かせているのだった。
「一番辛いのは、土方さんでしょう」
そうでしょう?と、顔を上げないままの沖田に言う。沖田は、静かに瞬きをするだけで何も言わない。
やっと顔を上げたと思えば、山崎の本心を見透かすようにその顔をじっと見つめて、やはり一度、瞬きをした。
「お前は、それでいいのかい?」
素直な言葉だったので、山崎は容易に頷けなかった。
それでいいです、とは、まだ上手く言えなかった。
ただ、その真っ直ぐな視線から逃れるように庭に目をやって、ここでミントンしてたら副長飛んで来て殴ったなぁ、とか、もう相手が覚えていないことを一人で思い出す。
「俺は、副長の道具で、副長の幸せが一番大事なんですよ」
言い聞かせるように、ゆっくり言った。
頬に沖田の真っ直ぐな視線を感じる。嘘だろう、と言われるかと思ったが、意外に沖田は静かな声で、
「そうかい」
とだけ言った。
はい、と答えた声はちっとも震えなかったので、本心にできるなぁと安堵した。
あの人が幸せでいる最良の方法が自分をいくら苦しめても、山崎は構わないのだ。
もう、そう思うより他がない。
近藤が土方を伴って山崎の部屋を突然尋ねてきたのは、嫌われているのが分かっているからあまり近寄らないでおこうと山崎が決意した矢先のことだった。
「ということだから、ザキ、コイツを頼むな」
コイツ、と近藤に背を押された土方は山崎と目を合わせないままで、そういうことだ、と低く言った。
「いいですけど……なんで俺なんですか?」
「最近ずっとコイツの補佐してたのはお前だからよ。大まかな仕事は俺で教えれても、細かいことまでは、なあ」
コイツが何考えて何やってたか、わかんねえんだ。
豪快に笑って近藤は土方の肩を大きく叩いた。痛ェ、と苦い声を土方が上げる。
「よろしくな」
それだけ言い置いて、近藤は部屋を出て行った。
取り残されたのは、今日になって突然「今日からこいつはお前に任せるから」と言われた山崎と、子供のように放り出された土方の二人。
「副長はそれでいいんですか」
「……とりあえず、仕事ができなきゃ話になんねーだろ」
「…………」
「おら、さっさとしろ」
まるで今まで通りに横柄な言葉で命じられて、うっかり山崎の口元に笑みが浮かぶ。
しかしそれを見た土方が少し視線を逸らしたので、浮かんだ笑みはすぐに消えた。
「……じゃあ、副長室行きましょう。資料は全部そっちにありますから」
「おう」
言って、土方を後ろに連れて部屋を出た。
いつもとは逆の立場に、何故だか背中がむず痒い。後ろに立たれているということがこれほど居心地の悪いものだとは思わなかった。
歩きながら、山崎は仕事の説明を淡々とする。
「今扱ってるのは、小規模の攘夷志士の密会についてです。目立ったものではありませんが間隔を開けず開かれているので、近々何か動きがあるんじゃないかと読んでます」
「そうか」
「どうやら2回同じ場所で密会をして場所を変えているようなので、次の密会の予定日には討ち入りができるはずです。今はその、手はずを整えている最中」
「なるほど」
副長室にはすぐに着いた。障子を開けて中に入れば、換気をされて長らく放置されたその部屋からはすっかり煙草の匂いが消えていた。
今の土方が、ここで一人で仕事することがないためだ。
呼吸ができなくなるほどの煙を溜め込みながら換気もせずにする仕事が、今の土方には、ない。
唇を噛んだのがばれないように顔を俯かせながら、するりと文机に近寄った。勝手知ったる書類の山を崩して、目当てのものを用意していく。
その間、土方は所在なさげに立っているだけだった。
横柄な態度で煙草を吸うでなし、山崎にちょっかいを出すでなし。
(ああ、一番辛いのはこのお人だ)
(何も分からないところに放り出されて、自分の知らないいろいろを他の誰もが知っている、この人だ)
「副長」
「なんだ」
声をかければ返る言葉が、何一つ変わらず思わず笑ってしまいそうになる。
同じ声で、同じ言葉を、同じタイミングで返すので、別人ではないのだとわかってしまう
。胸が塞がれたように、妙に苦しい。
「こないだ俺がしたこと、あれ、忘れてくださいね」
口元を笑みの形で弧にしながら山崎は言った。手元は書類の山を掻き分けている。
「言ったことも、忘れてください。あれね、嘘ですから」
ちっとも震えない声でそう言って、山崎は淡々と資料を手元に揃えていく。
土方はその背中と、ときどき見える笑顔をじっと見て、そして動かない。
「嘘?」
「はい、嘘です。副長が忘れてるのをいいことに、勝手なことを言いました。すみません」
すみませんと謝るときだけ、しおらしく笑顔を消した。
けれどすぐまた口元に笑み。
「あんたが俺を好きなんてこと、あるはずないじゃないですか。それで庇うなんて、ありえないでしょう。ただの気の迷いですよ。あんたは存外優しい人だから、思わず俺なんか庇っちまったんでしょう」
そろえた資料を両手に抱えて山崎は土方に向き直る。監察をやっていて身に付けたとっておきの笑顔で笑ってやった。
「だから、副長は何も気にすることなんか、ないんですよ」
その笑顔を見て、土方は顔を顰めた。嫌そうな顔をして、山崎、と低く言った。
表情も声も言い方も何一つ山崎の知っている土方と変わらなかったので、笑顔を保つのに少しばかり苦労した。
今ほど嘘が上達しておいてよかったと思ったことはない。
「お前はどうなんだ?」
「何がです」
「俺がおまえを好きなのは嘘。それで庇ったってーのも嘘。じゃあ、」
射抜く目の強ささえ、何一つ変わらなかった。
「お前が俺を好きってーの、あれも、嘘か」
戸惑うように視線を逸らすくせに、こういうときだけは真っ直ぐ見るのだなあ、とぼんやり考えた。
少し考える振りをして、それから山崎は答えないまま首を傾げた。殊更曖昧に笑って、ばさり、とわざと音を立てて資料を広げた。
「仕事しましょう、副長」
嘘だとは言えなかった。最後の最後で縋ってしまった。
うまく笑えていたかなあと、そればかりが気になった。
煙草の煙もひどくはないのに何故だか呼吸が上手く出来ずに、吸ったあと、もう一度吸って、それからやっと、苦しくなって吐き出した。
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