何ともまあ面白いことばかりに巻き込まれる人だと呆れる思いもするが、周囲の人間にとっては堪ったもんじゃない。
 ちっぽけな自分の命なんぞ庇って、大事な記憶を落っことしてくるなんて、責任とって結婚でもすればいいだろうか。
 そんな下らないことを考えながら、山崎は手元の書類に朱墨で訂正を書き入れた。


 土方が記憶喪失になったという話は出来れば衝撃の瞬間に立ち会った山崎、沖田、近藤以外には漏らしたくなかったのだが、あっという間に広まった。何せ土方の言動があからさまにおかしいのである。隊士皆が土方の復活を心待ちにしていただけあって、その動揺は酷かった。おかげで仕事は穴だらけで、そのツケが何故か全て山崎のところへ来ている。副長が使い物にならない今、監察は何の仕事も与えてもらえないのだから仕方がない。
 本当は、溜まりに溜まった有給を今ここで一気に消費するという提案も近藤より成されたのだけれど、山崎はそれを辞退した。
「まあ、休んでたら余計なことばっか考えちまうっていうのは分かるけどよォ」
 ばり、とせんべいを齧りながら、沖田は黙々と仕事をする山崎の背に声をかけた。
「だからって、根詰めすぎなんじゃねーですかィ」
「そうですか?」
 へらっと笑った山崎は沖田を振り返る。畳に肘をついて手で頭を支えている沖田は、山崎の顔を見て片眉を器用に上げた。
「隈」
「くま」
「ひどいですぜ」
 自分の目の下を擦ってみせる沖田に、山崎は曖昧に笑って見せた。
「はは、すみません」
「ちゃんと寝てねェのかい」
「はぁ、実は」
「寝れねェのかい」
「…………」
 静かな言葉に山崎は視線を逸らす。畳の目をじっと見つめて、持っていた筆をかたりと置いた。
「……寝れないでしょう」
 副長が、あんなんじゃ。
 小さく落とした言葉に、沖田の溜息が重なる。
「別に、お前が気にすることじゃねェだろィ」
「……そう、でしょうか」
「そりゃ、お前を助けようとして怪我したのかもしんねェけど、さあ」
「俺がヘマしたせいですよね」
「でもそこで斬られた挙句間抜けに頭ぶつけて、記憶落っことしたバカはアイツでさァ」
「…………」
「アイツが悪いんだ。身体張って守ったお前まで忘れるアイツが悪ィ」
 いつの間に起き上がったのか、膝立ちになった沖田が腕を伸ばして山崎の身体をふわりと包んだ。さらさらとした髪からいい香りがして、山崎は少し落ち着く。回された腕に縋るように手をかければ、少し抱きしめる力が篭った。
「お前を泣かせる、アイツが悪い」
 泣いてませんよ、と山崎が言うより先に、体を離した沖田が山崎の黒く落ち込んだ目の下を指の腹でそっと撫でた。流れてもいない涙を拭うようなその仕草に思わず笑う。
「大丈夫ですよ」
 やんわりと、拭う指を外して言えば沖田が少し眉を寄せた。安心させるようにもう一度、大丈夫です、と言う。
「忘れられたんだったら、もう一回最初からやり直せばいいんです」
「…………」
「ていうかね、俺だけじゃなくて大半の人が忘れられてんですから、俺だけそんなことでウジウジしたって仕方ないじゃないですか」
 明るく笑って言って見せれば、沖田は顔を俯かせる。そのまま、山崎の胸にぽすりと頭を預けるようにして、重たく溜息を吐いた。
「やり直せばって、おめェ」
 苦しそうな、引っかかる声で。
「お前ら、目も合わさねェじゃねーか……」
 低く、喉に絡まる声で吐き出された言葉に、山崎は天井を仰ぐ。
 この優しい人は、いつも山崎がかわいそうだと自分より先に苦しんで見せてしまうから、結局自分は、泣くタイミングを逃すのだ。




 目も合わさないのは本当で、山崎は一方的に土方に避けられていた。
 忘れられたという事実の苦しさを押し殺して、今まで通り土方の傍にあろうとした山崎を、土方はどうやら疎ましく感じているようだった。
 疎ましく、というのは正確ではないかも知れない。
 戸惑っているのだ。多分。
「そりゃあね」
 手に書類の束を抱えて廊下を歩きながら、山崎は思わず独り言を漏らす。
「あの副長がね、俺みたいなのを庇って怪我するなんて、信じられないと思うけどさぁ」
 顔に似合わず優しい土方は、命を近藤に賭けている。いくら仲間が目の前で危険にあるからと言って自分の身を犠牲にしてまでそれを助けるとは考えられない。
 山崎自身、今でも少し信じられない。
「だからって、……」
 避けなくてもいいじゃないか。そんな恨み言を吐こうとしたとき、前から人がやってくる気配がして言葉を切った。ぶつぶつとそんなことを一人で言っていたと知れたら、山崎までおかしくなったと言いふらされるのが関の山。
 土方の怪我が山崎を庇ってのものだとは、山崎の他に近藤と沖田しか知らないのだ。
 すれ違うために端に寄ろうと顔を上げた山崎は、そこではじめて息を呑んだ。
「……ひ、じかた、さん」
 煙草をふかしていた土方がその声に顔を上げ、それから、足を止めた。
 同じように足を止めた山崎との間に空いた不自然な距離。
「……副長」
「…………」
「局長は、どうされたんですか?」
 記憶を失ってからこちら、土方はずっと近藤と行動を共にしていた。
 覚えている記憶が真選組結成の直前までのものである土方は、この屯所内において覚えていることが極端に少ない。体で覚えている日常の生活は何とかなるようだったが、仕事に関しては近藤の傍に居なければほとんど分からない状態だった。
「あー……便所行った」
「そうですか」
 沈黙。
 土方は気まずそうに視線を逸らして、煙草を指の間で弄んでいる。
 山崎は思わず俯かせてしまった顔を上げるタイミングもつかめず、足も上手く動かせなかった。
 不自然に空いた距離。その長さ、およそ四歩分。
 四歩歩ければ隣に並べるのになあ、と思いながらそれができない。
 今隣に並べばどんな顔をされるだろうか。身体を引いて逃げられるだろうか。
「あー……、山崎、つったっけ」
 予期せず呼ばれた名前に、山崎はがばりと顔を上げた。
 土方の顔をまじまじと見つめる山崎の視線に、土方が視線をさ迷わせる。
「悪ィ、違ったか?」
「いえ、……合ってます。山崎です。山崎、退です」
 その言葉に、土方が少しほっとしたように笑う。
 それだけですでに泣きそうになって、山崎は唇の内側を噛んだ。
「俺が、お前を庇って怪我したっつーのは、本当か?」
 続く問いに、首を縦に振る。
「……近藤さんも、総悟も、そう言うんだがよ、俺にはどうも信じられねェんだ」
「はい」
「俺は、自分の敵を放ってまで誰かを助ける人間じゃねェからよ。近藤さんを庇ったっつーんなら話は分かるんだが……」
 そこで言葉を切って、土方は山崎をまじまじと見た。久しぶりに長く絡んだ視線に今度は山崎がうろたえる。名前を呼ばれて、視線が絡んだ。それだけのことで座り込みたい程嬉しいのに、土方の目が知らない人間を見るそれなのに気付いて、苦しくなる。
「……土方さん」
 発した声が震えていた。
 どこかに爪を立てて誤魔化そうにも、書類を抱えているので叶わない。
「どうして、アンタが俺を庇ったのか、知りたいですか」
 その言葉に、土方が眉を寄せた。
「なんかあんのか?」
「……教えて、あげましょうか」
 震える山崎の声を訝しく思いながら、土方は軽く、ああ、と頷いた。
 山崎は一度目を瞑ってから、深く息を吐く。それからやっと、動かなかった足を動かした。ぎしり、と古くなった廊下が鳴った。
 廊下が古くなって音を立てるほど、長い時間ここにいたのに、そんなことも忘れてしまっている。
 廊下をぎしりと鳴らしていつも自分を隣に従えていたのに、そんなことも忘れてしまっている。
 アンタいつもめちゃめちゃに俺を殴ってひどいことばっかしてたんですよ、と山崎が言えば信じるだろうか。
「動かないでくださいね」
 土方の前に立った山崎が、真っ直ぐ土方を見据えて言う。
 それに土方は少し戸惑いながら、おう、と頷いてみせる。


 永遠かと思う程の一瞬。


 爪先で立った山崎が、土方の唇に自分の唇をぶつけるようにして触れ合わせた。
 驚きに目を見開いた土方の右腕が上がり、山崎の肩を大きく押す。
 ぐらりとバランスを崩した山崎を、土方が左腕を伸ばして庇おうとした。しかし、肩に走った痛みで腕を大きく動かすことが出きず、土方が息を呑む間に山崎の身体があっけなく倒れる。

 朱色と黒色が踊る白い紙が、何枚も宙を舞った。

「―――俺が、あんたを好きで、」
 廊下に座り込んだまま、山崎は顔を上げずに低く言う。
「あんたが俺を、好きだから」
 声がやはり、震えていた。
 そういえば触れた唇も震えていたと土方は思い返す。
「だから、あんたは俺を、庇ったりしたんだ」
 書類が散らばる中に座る山崎の真下にある板が、一点だけ色を濃くする。
 ぽとり、と落ちる涙を山崎は止める術が分からない。
「あんたは、バカだから」
 声が震えて言葉にならなかった。土方が逃げ出しもせずこちらを見ているのがわかって苦しいばかりだった。
「バカだから……ッ」
 零れ落ちる涙が止まらず、きれいに真っ直ぐ廊下に落ちていたはずのそれがいつの間にかだらしなく頬を濡らしている。このままここにいれば、きっと大声を上げて泣いてしまう、と唇を噛んで山崎は立ち上がった。散らばる書類をそのままに、来た方向へ駆け出す。
「山崎!」
 呼び止める声が聞こえた。
 慣れた語調で名前を呼ばれた。
 なのに、追いかける足音も、殴る拳も、何もなかった。
「……土方さんの馬鹿野郎……」


 バカだから、酔った勢いで言った言葉なんてちっとも覚えちゃいない。
 バカだから、酔った勢いでの言葉になんか責任を持った試しがない。
 バカだから、山崎が覚えている何もかも残らず忘れてしまっている。

 それなのに、バカだから、覚えていないくせに、庇おうとした。まだ自由に上手くは動かせない左腕で、倒れる山崎を庇おうとした。
 何も覚えていないくせに。
 自分で突き放したくせに。
 それで山崎は悲しいのに、それでもやはり庇おうとした。


 山崎は誰が来るとも知れない廊下の真ん中で、両手で顔を覆って座り込んだ。
 大きな声を上げて泣いたらあの人はとんで来て殴るだろうかと夢のようなことを考えた。