見ればやさしや寄れば刺す
 君は野に咲くあざみの花よ






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 高いビルに邪魔されて狭く感じる空の青がどこまでも沈んでいけるかのように深い。間違い探しのような薄い雲が申し訳程度に浮いている。狭い空の端の方の色がわずかに白く淡いのは、太陽がそちらにあるからだろう。
 薄い雲はじっと見ていれば速い速度でその位置を変えていく。空の上では、きっと風が強い。けれど、地上ではとりあえず、穏やかに吹いている程度だ。
 頬に刺さるそれは冷たい。が、それが嫌で部屋の中に引っ込んでしまう程ではない。
 土方は大きくあくびをして、そのせいで浮かんだ涙を拭いながら庭先に目を向けた。

 ふん、ふん、と一定のリズムで聞こえる呼吸音は、どうもラケットを的確に振るために必要なのだと言う。土方にはよく意味がわからないが、刀を振るときに掛け声をかけたり気合を入れて声を出したりとか、そういうことなのだろうと納得して放っておいている。
 寒いのだろう、頬が赤い。もしくは運動のしすぎで熱いのかもしれない。
 声をかけようかどうしようか迷って、どうせあいつは今日非番なのだし好きにさせてやろう、と土方が踵を返しかけたとき、山崎がようやく土方の姿に気づいて、
「土方さん!」
 と嬉しそうな声を上げた。
(……嬉しそうなっつーのは、俺の錯覚か)
 色ボケも大概にしてくだせェよ! と先日バズーカを後頭部に向けられいきなりぶちかまされたことを思い出す。
 別に何があったと沖田に説明したわけではないのだが、あれは勘がいいので何かに気づいているのかも知れない。
(別に何があったってわけでもねえけどよ)
 というか実際、何にもねえぞあれ以降、と土方が眉を寄せる間、山崎が軽快な足取りで土方に近づき、縁側に突っ立ったままの土方を見上げ首を傾げた。
「どうかしました? 仕事です?」
「いや、……つーかお前、今日非番だろ」
「まあ一応、そうですけど。別に、何かあったら動きますよ」
 急ぎです? と言いながら、靴を脱いで縁側へ上がってくる。
「別に、仕事じゃねーよ。休みの日くれえゆっくり休め」
「はあ。まあ、そうですね。じゃあ、」
 隊服ではなく着物姿の土方をじいっと見て、山崎はにっと笑った。
「一緒にします? ミントン。俺ラケット持ってきますけど!」
「しねーよ、バァカ」
「あはは、ですよねー」
 本気の誘いではなかったのだろう、山崎は楽しそうに笑って、じゃあ、と続ける。
「お茶でも淹れましょうか?」
 休みの日は休め、と言った傍からこれだ。
 それとも、これが山崎なりの休日の楽しみ方なのだろうか。わからねーな、と土方は肩を竦めて、それでもお茶が飲みたい気持ちはあったので、ああ、と一つ頷いた。
 山崎はその返事に嬉しそうに笑ってみせた。


 ぎしり、と鳴る濡れ縁を並んで歩きながら、どうも妙な感じがする。
 別に何があった、というわけではないし、今後何がどうなる、というわけでもない。色ボケなどと言われるようなことは、実のところ一切ない。
 それともあの熱に浮かされたような告白とくちづけは「何か」と言えるのだろうか? 土方は少し後ろを歩く山崎の気配を窺いながら考えるが、その疑問はどうも口に出せない。
 何かがどうにかなるのなら、どうにかしたい、ような気もする。
 けれど実際のところ、何をどうすればいいのか、土方には分からない。
 泣かせたくない、という気持ちだけ、ある。
 心を傷つけたくはない。なるべく大切にしてやりたい。仕事以外の場所では優しくしておいてやりたい。自分のせいで悲しむことがないようにしたい。そして自分自身のことを大事にして欲しい。
 これだけ、考えている。それを踏まえた上で、何をどうこう、ということが、できずにいる。

 とりあえず、と歩く速度を少し遅くした。
 山崎はそれに一瞬戸惑ったのだろう、足音が乱れる。少しして、意を決したように山崎が足を少しだけ速めて、土方の隣に並んだ。
 様子を窺うように顔を見上げてくるので、何でもない風に見下ろしてやる。
「お前さ、」
「はい」
 ぎしり、と足元の板が鳴る。
「監察のくせに、部屋に人をほいほい連れ込んでんじゃねーよ」
 以前にも同じことを言ったな、と思いながら、気になっていたことを口にした。
「はい?」
「総悟をよ、部屋に招いてんだろうが、度々。あれァ、あんまよくねェぞ」
「はぁ……」
 何言ってんだこの人、という顔で山崎が見上げてくるので、その視線から逃げるように顔を背けた。誤魔化すように額をかく。
「いや、そりゃあ、交流を深めるのをやめろた言わねェが、よ。何があるかわかんねーんだし、あんま、部屋に泊めたりとか、してんじゃねーよ」
「はぁ……でも、沖田隊長ですよ」
 この問答も前とまったく同じだな、と思いながら、土方は山崎の後頭部を平手で軽くはたく。
「うるせェ、口答えすんな」
 言って、頭をはたいたその手で、山崎の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
 ふわふわとしたそれは柔らかく指に絡まって、心地いい。
 払いのけられるか、嫌な顔をされるか、それとも、と山崎の顔を覗き込んだ土方に、山崎は「はいよ」と笑いながら返事をした。そして、
「うれしいです」
 と、続けた。

 冷たい風が吹いているのできっと寒いのだ。山崎の頬が少し赤い。
 土方の掌はきっと熱い。この冷えているであろう頬に触れたら、きっと気持ちいいだろうな、と思う。
 頬に触れて、滑らせて、抱きしめたら、きっと心地いいだろう。
 思いながら、髪から離した手をなるべくそうっと動かして、頬と同じくらい冷たいだろう山崎の手に触れさせた。
 甲をわずかに触れさせてから指先を握るようにする。
 山崎の体がわずかに強張って、浮かんでいた笑顔が消えた。

(……まあ、焦るもんでもねえよな)
 山崎の様子を横目で窺って、土方は指を握っていた手を離す。
 何事もなかったかのように歩調を合わせて隣を歩きながら、茶請けは何があるんだよ、と関係のないことを口にした。
「あ、あの!」
「なんだよ。別になけりゃないでいいよ、茶が飲めれば」
 はぐらかせば山崎が困ったような顔をして、それから突然足を止める。
 仕方なく土方も足を止めると、山崎が大きく深呼吸をする。何だ、と聞いてやるより先に、山崎の手が土方の手を勢いよく握った。
「山崎?」
 どうした? と顔を覗き込むようにすれば、山崎が困ったような顔で眉を寄せた。
「違うんです、ごめんなさい。俺、別に、副長に触られるのが、嫌なんじゃありません。そうじゃなくて、それはもう、いいんです。そうじゃなくて、俺、」
「うん。いいから落ち着け。どうした?」
「……俺ね、土方さん」
 ぎゅ、と握られた手に力が籠る。
 催促せずに次の言葉を待ってやると、しばらくして山崎が意を決したように顔を上げた。
「俺、幸せすぎてどうしようって、思っちゃいました」
 いいんでしょうか。
 確認する、その声が、少し震えていた。
 けれど泣きそうなのではなくて、唇の端が上がってる。嬉しそうな顔をしている。笑い出したいような顔だ。
「うれしい。どうしよう」
 好きです、と笑い声に混じって、小さく聞こえたような気がした。


(これを手に入れることができるんだったら、俺は多分、血だらけになっても厭わねェだろうな)
(それが、色ボケってことか。だったらこれは、「何か」なんだろうか)

 土方は自分の手を握っている山崎の手を柔らかく振り払った。
 山崎がさっと顔を曇らせるのを見つめながら、その手を自分から取り、一本ずつ丁寧に指を絡ませていく。

「幸せなら、別に、過ぎて困ることもねェだろうよ」
 指をすべて絡め終わってから、一度きつく力を込めた。
 山崎は呆けたような顔で土方を見つめている。
 土方は繋いだ手を引っ張って、いつもの速度でさっさと歩き出した。山崎は一瞬つんのめって、「待ってくださいよ」と言いながら土方の後ろをばたばた付いて歩く。
 こうして手を繋いで歩いていることがバレるのも、やはりよくはないのだろうか。
 それは山崎にとってマイナスになるだろうか。
 考えながらも、手を離すことができない。何なんですか、と少し照れたような文句が背後から聞こえるが、どうにも振り向くことができない。

 部屋に連れ込んで抱きしめて、それから、もう一度。
 好きです、という言葉を、笑い声なしに聞いて、それからきちんと、自分もそうだと伝えたくて仕方がない。

(それでこいつが自分を大事にする気になるんだったら、何度だって言ってやるさ。幸せなんて、過ぎて困ることなんか、ねェだろう)

 ばれないように少しだけ振り向けば、山崎は恥ずかしいのか俯いたままぶつぶつと文句を言っている。けれど、その口元が少しだけ緩んでいる。
――――――見ればやさしや、寄れば刺す、か)
 そんなものに例えるほど、美しくも儚くもないだろうが。
 棘があるならそれを全部抜いてきれいにしてやれば、きっと、その棘で自分自身を傷つけることもないだろう、と思うのだ。

(それで俺の手が血だらけになったら、こいつが手当てしてくれたらいいさ。俺の役に立つことはなんだって、してくれんだろ。なあ、山崎)

 やっとたどり着いた私室の襖を開け、繋いだ手を引っ張って山崎を引きずり込むようにする。バランスを崩した山崎の体を抱きとめて、襖をぴっちり閉めてから、力の限り抱きしめた。

 山崎はちっとも抵抗しない。ただ少し、驚いたように息を詰めている。
 逃げたかったら逃げてくれ、と考える土方の気持ちをよそに、山崎は、土方の腕の中で安心したように柔らかな吐息を吐いてから、土方の背にゆっくりと腕を回した。






                            (08.10.22 - 09.01.12)