(殴られるか、それともあっさり捨てられるか、)
 どちらかだと思っていた。
 これ以上の我侭を許せるわけがない、と殴られる覚悟は出来ていたし、あっさりと許されても心を痛めるまい、と思って来た。
 しかし、震える気持ちで頭を下げた山崎に、返る土方の言葉がない。

 これが最善だと思った。自分のためにも、土方のためにも。自分のことなど傍に置いておくことが嫌になって、けれど立場上どうしようもないのだろう、と気づいたから、ならば自分から離れればいいと思った。
 離れてしまえば、自分のこんな醜い気持ちを晒さずにすむだろう。
 土方に迷惑をかけること。山崎のせいで、土方の立場を悪くすること。
 それだけ、耐えられないのだ。

(……けれど、やはりそれでも、困らせている)
 ゆっくりと顔を上げ土方の顔を伺い見れば、土方は怖い顔をしていた。
 何ならいっそこのまま斬り捨てられても、とすら思っていたけれど、どうしたって土方は責任者で、己の一存でそんなことをするわけにも、いかないのかも知れない。
 だのに山崎がそんなことも考えず甘えたような我侭を言うので、怒っているのだ、きっと。
 ならば、と山崎は深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
 へらりと気の抜けたような笑みを作る。
「あ、やっぱり、無理ですよね。機密情報知りすぎてますもんね」
 はは、と笑った山崎を、土方は何も言わずじっと見ている。
 その視線が、抜き身の刀のように鋭くて、痛い。
「……ならばせめて、副長助勤から外して下さ、」

 言い終わらないうちに土方が動き、山崎の腕を掴み崩れた足を払った。
 バランスを崩した山崎はそのまま背を畳に打ちつけ、一瞬呼吸が止まる。苦悶の表情を浮かべた山崎に構わず、土方が山崎の動きを封じるようにその体に体重をかけた。
 組み敷かれた山崎は、自由に身動きがままならず、自分に圧し掛かるようにしている土方を驚きのまなざしで見ることしか出来ない。
 そのまま手首を押さえ込まれ、山崎の脳裏に、幾日か前の恐ろしい記憶が蘇った。


 組み敷かれて自由の利かない体。押さえ込まれた腕。もがく足を開かれ、無残に嬲られ、陵辱され、一瞬の隙を突いて逃げ出したときに負った傷口の熱さ。肉を断つ慣れた感触。飛び散る熱い血。断末魔の悲鳴。足の内側を流れるどろりとした体液。痛む節々。

 そしてそれを唯一知られたくなかった人に知られてしまったときの絶望。


「うぁ、やっ……! ひじかたさ、」
「山崎」

 驚愕に目を見開いてびくりと体を震わせた山崎を、土方が見下ろしている。
 その目に浮かんでいるのが、軽蔑なのか、哀れみなのか、嫌悪なのか、山崎には分からない。
 怯える山崎の頬に、土方が掌を当てた。愛しむように撫で、その唇に顔を寄せる。
 いつかのように吐息が混ざる。近い距離で、視線が絡む。
 逸らしたいのに視線を逸らせない。逃げ出したいのに自由が利かない。
 本当に逃げ出したいのかも、分からない。
 混乱でじわりと滲んだ山崎の涙を見て、土方が動きを止めた。
 手首を拘束していた手が解かれて、代わりに、右腕に負った傷口の部分を労わるように優しく撫でる。
 土方は唇に触れることなく顔を離して、もう一度、山崎の頬を優しく撫でた。

「お前の言うことは尤もだ」

 吐かれた言葉が苦しそうだ。眉がきつく寄っていて、眉間に深く皺が出来ている。
 困らせている、と山崎が息を詰めた。

「……俺はお前が、好きなんだと。そんなこと、認めたくもねェが、これァ恋なんだとよ」

(何、を)
 一体何を、言っているんだろう。土方は苦しそうにしたまま、山崎の頬に触れたまま、言葉を紡ぎ続ける。

「……だが、それは、今のお前に向けて許される気持ちじゃねえんだろ。こんなことして、最低な俺から逃げ出したいと思うのも道理だろうと思うよ」

 包帯を巻かれた山崎の腕に触れる土方の手が優しい。
 組み敷かれていて、自由を奪われているのは山崎の方なのに、どうして土方がこんなに苦しそうにしているのか、山崎には分からない。
 恋だって? そんな馬鹿な。頭が真っ白になっていく。
 逃げ出したいわけじゃない、違うんです、と言いたいのに、言葉にならない。

「それでも、」

 土方の手がゆっくりと動いて、その親指が山崎の唇をそっと撫ぜた。
 土方の目が細められる。

「……それでも、お前がいねェと、俺が、ダメになるって言ったら…………どうする?」


 上に乗られているせいで翳ってよく見えない土方の表情が、何故か泣きそうに見えて山崎の視線が揺れた。聞こえる声が弱々しくて、返す言葉が見つからない。
 何を言っているのか、分からない。
 だって、自分は迷惑をかけていて、軽蔑されても仕方がなくて、傍に置いてもらうことすらできなくて、それで。
(……でも、そうだ、切腹させてはくれなかった)
 死ぬことを許してはくれなかった。
 どうしよう、と混乱する山崎をよそに、土方は言葉を続ける。

「お前が本当に、俺の傍に居るのが辛くて耐えられねェんだったら、俺はお前を送り出すしかねェよ。そうでなくても、お前が俺の為だと言ってあんな仕事の仕方をするんなら」
 山崎の体がびくりと震える。それを土方が、苦しげに見下ろす。
「……傍に置いておくことも、できやしねェよ。俺ァお前が好きだ。けど、嫌な思いをさせるために、傍に置いておきたいわけじゃねェんだ」
 どうしてそんな、苦しそうに。何を言っているのか分からない。
 どうしてそんな、泣きそうな声で、どうしてそんな、請うように。

「……俺は、」
 山崎が細く息を吸って、声を出す。震えるその声の先を、土方が瞳だけで促した。
 その目を真っ直ぐに見るのが怖かった。泣きそうに弱弱しい表情を見ているのが怖かった。
 山崎は手を伸ばして、土方の袖をきつく握る。土方の視線が一瞬揺れた。
「俺は、あなたのことが、好きで、邪な気持ちでずっと好きで、だから、副長のためになることなら、何でも出来たんです。それで嫌だったことなんて一度もない! 副長のためになるんだったら、役に立てるんだったら、それで傷つくことなんて、何一つ、あるわけがないんです……!」
 役に立てれば嬉しかった。それだけだ。何を案じることがあろうか。自分がどれだけ傷ついても汚れても堕ちるところまで堕ちてしまっても、それで役に立てるなら、何を嫌だと思うことがあるだろう。
 だから泣かなくていいのに。
「俺は、お前が傷つくのを見て、……泣くのを見て、嬉しいと思ったことなんか一度もねェよ」
 悲しいことなんか、一つもないはずなのに。
 見下ろす人の表情から、悲しみが消えないのはどうしてだろう。
「俺がいつ、傷ついたって言うんです。俺は、あなたのせいで傷ついたことなんか、」
「だったら!」
 厳しい声音とともに土方の手がさっと動いて、袖に縋っていた山崎の手を振り払った。殴られる、と目を固く閉じた山崎の額に、土方の掌がふわりと優しく乗る。
 そのまま前髪をゆっくりとかきあげられ、山崎は恐る恐る目を開けた。
「……声を殺して、泣くんじゃねえよ。あんな顔を、」
 するんじゃねえ。と呟いた声が、聞こえるぎりぎりの大きさだ。
 そのまま土方は顔を俯かせてしまう。
「あんな、声で、拒むんじゃねェよ……」
 そう言ったのに続いて、悪いのは俺か、と独り言のような呟きが聞こえた。


 拒んだのはあなたの優しさじゃないんです、と言いたいのに、喉が震えて言葉にならない。
 俺に触れてあなたが汚れるのが嫌だったんです、と言いたいのに、声が出ない。
 頬に触れられたままの手から、ふわりふわりと血の匂いがする。
 安心する匂い。土方がいつも纏っている匂いだからだ。
 無遠慮に人を斬るから血の匂いが染み付いてしまっている、この人の傍に帰るために、この人の役に立つために。体も使うし人も殺す。
 それが辛いわけじゃない。それで傷ついたことなんて一度も無い。


 払われた手をゆっくりと伸ばして、土方の頬に触れた。
 目の下につけてしまった傷は、もうとっくに治っていて、傷跡さえも残っていない。
(ああ、でも、俺が泣くのはやっぱり、アンタのせいです)
 嬉しいのも悲しいのも感情が揺さぶられることは全て。
(あなたが恋しいから、嫌われたくないから、)
 声を殺して泣きもする。汚れた姿を見られて、絶望だってするのだ。
 頬に触れている山崎の手を、土方が掴んで指を絡めるようにした。そのまま顔を上げた土方は、じっと山崎を見つめる。
 それから、躊躇うようにゆっくりと顔を寄せた。
 吐息が混ざる。
 呼吸が、触れ合って、熱が生まれる。

「キス、するけど」

 ぎゅ、と絡められた指先に力が籠った。

「……いいか?」

 怯えるようなその聞き方に、思わず山崎はふっと笑う。そのまま小さく頷いて、ゆっくりと目を閉じた。
 それを見届けてから、土方の唇が山崎の唇にゆっくりと触れ合わされる。
 触れて、一度離して、もう一度押し当てる、丁寧なくちづけだった。
(あなたになら、殺されたって厭わないのに)
 嫌なことなんてちっともないのに。
 山崎のただ一度の怯えで触れることさえ躊躇ってくれる、そのことに山崎の眦からすい、と涙が零れて、それに気づいた土方の指が、優しくその涙を拭った。


 触れる唇が震えていたが、どちらの震えかわからなかった。
 きつく絡めて力を込めあう指がどくどくと脈打っているが、どちらの鼓動か分からなかった。
 頬の上、落ちる暖かい雫が、どちらのものなのかも。
 好きだと呟く言葉が、どちらの言葉なのかさえ、もう。