ガタガタンッ、と廊下にまで響くような大きな音を立てて文机が倒れた。
 上に乗っていた本も資料も、全て無残に畳の上に散らばってしまった。
 けれどそれを拾う気力もなく、土方は紙類が広がる畳の上にどさりと座り込む。
「…………ッ!」
 苛立ちに任せて周囲にある本を手で払った。罪のない本が、畳を滑って壁にぶつかる。
 そのまま土方は髪を掻き毟るように頭を抱えて、歯を噛み締め静かに唸った。

 この苛立ちは、一体何だ。
 何に苛立っているのか、土方自身分かっていない。どこにぶつけられるべき怒りなのか分からない。
 ただ、渦巻くような感情が胸のうちにある。
 立てた片膝に額を乗せ、土方はその煮立った感情を逃がすかのように、深く溜息を吐いた。
(気持ち悪いかって、何がだよ……)
 何であんな顔で、何でああして笑みを浮かべて、そんなことを言うのだ。
 諦めたように笑ってそんなことを言うのだ。
 息を大きく吐いても苛立ちが消えない。ぐるぐるとする大きな感情に振り回される。

(……いや、待て。今はそれよりもまず仕事のことだ)
 得体の知れない苛立ちに振り回されるよりまず先に、しなければならないことがある。依然として、土方は忙しいのだ。
 とりあえずは山崎の代わりに動いている吉村に情報を渡して、そこに調べてもらわなければならない。
 山崎が探った情報なのだから、山崎が動いた方が効率もよく正確であることくらい、土方にだって分かっている。
 山崎の謹慎はとうに解けているのだし、ならば、仕事を与えなければならない。その仕事を山崎が持っているというのなら、手始めにそれをさせるのが筋というものだ。無用な噂で隊内を騒がしたことの罰を与えていたのだから、その噂を完全に消してしまうためにも殊更隊のために働かせ成果を出させてやることが、上司として今の土方のするべきことだ。
(んなこたァ、わかってんだよ)
 分かっている。けれど。
 先日の件の続きで見つけた案件ならば、また先日のような方法で調べるつもりなのではないかと土方は思っていて、それがどうにもやりきれない。
 できることなら、あんな手段は使わせたくない。
 あんな手段を使うつもりなら、この仕事は回せない。
 手段を選ぶのは山崎の仕事で、山崎の持って帰った情報を見て次の判断を下すのが土方の仕事だ。どんな手段を使ってもいいと常日頃から言っているのは、現場を知らない土方よりも山崎の方が的確な判断を下せると思っているからだ。
 だから本来なら、どんな手段でも、山崎がそれが最善であるとして選んだものなら、土方に口を挟む余地はない。
 ないのだけれど。
(……クソッ)
 見ないでくれという叫びがなければ、土方だって割り切った。
 触れないでくれという拒絶がなければ、仕事なのだと割り切って、それが最善ならばと許しもしただろう。
 けれどそれで山崎が辛い思いをするのなら、土方はそれを許せない。
(……これが特別扱いか? これが、)
 ぐしゃ、と髪をかき乱す。頭痛がする。ぎりぎりと頭を締め上げられているようだ。内側から痺れているようでもある。
(そもそも、触るなってのはどういうことだよ)
 抱えた足にきつく爪を立てる。血が滲むまで短く切られた爪を思い出す。
 触らないでくれ、と言って、触れようとすれば手を上げてまで拒絶をした。あんな姿で帰ってきておいて、あんな、何があったか一目で分かるような姿で帰ってきておいて。
 触るな、だなんて。
 あれが無理矢理、最初から無理矢理襲われて犯されたというなら、触れるなというのも分かりはする。恐ろしいのだろう、というのは理解できる。けれど、そうではないだろうと土方は確信している。
 あれが山崎の講じた手段であるとするならば、いろんなことに説明がつく。
 そして、土方の勘は当たるのだ。
 そういうことなのだろう、と土方は考えている。だから、なおさら腹立たしい。
 無理矢理ではないのだろう。体を開くという手段を取ったのは山崎の方で、その最中にミスをしたから、あんなことになったのだろう。刀を持っていれば防げただろう右腕の傷。山崎は腕が立つ。滅多に刀を抜かないが、ひとたび抜けば隊長格と肩を並べる。それが、あの傷。どうせ、事の最中に逆に踏み込まれでもしたのだ。決まっている。
(だったら、)
 何故、自分が触れていけないことがあるものか。
 情報を得るために見知らぬ男に体を開くことができるのに、何故、土方が触れようとしただけであれ程までに拒絶をするのか。
 拒絶をするくらいならば、どうしてあんな手段を選ぶのか。
 あんな手段まで取って、そうして集めた情報で疑われて、どうして。
(……俺が介錯すればいいって、何だよそりゃあ……)
 土方さんが介錯してくれるなら、と言った山崎の声を思い出す。
 穏やかな声だった。
 透き通るような声だった。

 どうして簡単に、自分を犠牲にするのだ。命を捨ててもいいと口にするのだ。
 傍に置くのが嫌になったか、だなんて、どうしてあんな悲しい笑みを浮かべて言うのだ。
 手を、伸ばして捕まえておかなければ、山崎が消えてしまいそうだ。
 土方は髪をかき乱したまま、唇にきつく歯を立てる。頭が痛い。燻った感情が、外に出ずに胸が塞がる。仕事のことを考えていたはずなのにこの様だ。
 この二週間、考えないようにしてきた。山崎の声も姿も思い出さないようにしてきた。
 そうしながら、いつもどこかで気になっている。大丈夫だろうかと案じている。今だって、少しも思考が前に進まない。自分が正しくないことをしているのは分かっていて、それをどうにもできない。
 頭が痛い。この感情に名前をつけたらきっと楽になる、と思うのに、名前がどうしても見つからない。
 あるいは、怖いのか。名前をつけてしまうのが。
 名前をつけたら手を伸ばせるだろうか。きつく、それこそ爪を立てるくらいの力で掴んでおかなければ、山崎が消えてしまいそうなのに。簡単にどこかへ消えてしまいそうなのに。
 手を伸ばせない。振りほどかれるのが怖い。拒絶されるのが恐ろしい。そうでなくても、手を伸ばして、山崎がそれで傷ついたら。傷つけてしまったら。

 痛む頭を抱えながら顔を上げれば、無残に広がった部屋が視界に広がる。
(…………これを片付けんのは、山崎の仕事だな)
 本と紙が床に散らばって、文机は倒れてしまっている。乱闘でもあったかというほどの荒れようだ。
(あいつのせいで、こんなになってんだ。あいつが片付けんのが筋だろう)
 土方は部屋を見回しながら、ぼんやり考えている。
 謹慎が解けて仕事が欲しいのなら、手始めにこれを片付けさせようか、と思っている。
(だが、)
 さっきだって、部屋に一歩も入れなかった。少しでも、近づいてしまうのが恐ろしかった。
 少し近づけば灰皿があるということだって知っていて、それを取りに行くこともできなかった。
 姿を思い浮かべるたびに頭痛が強くなる。苛立ちが増して、息を吐いても燻る感情が出て行かない。
 違うのだ、だってこれは、あんな姿を見たから、錯覚をしているだけだと思ったのに。あんな色づき方を見てしまったから、血迷っただけだと思っていたのに。

 傍に寄せたら、きっと手を伸ばしてしまう。
 逃げないように抱きしめておきたいと思ってしまう。
 触れたいと思ってしまう。
 触れたらきっと、山崎が泣いても暴れても、それを逃がしてやらない自分の気持ちがちっとも優しくなくたって。
 気持ちに名前がついてしまう。きっと、言葉になって、胸を塞ぐ感情が、外に吐き出されてしまう。
「……まったく総悟、テメェは、ガキだな」
 こんなものに簡単に名前を付けられるだなんて。
 そんな恐ろしいことを、あんな簡単に出来るだなんて。













 散らばった本を緩慢な動作で拾い集める土方の背に、ぎしり、という音が響いた。誰だと疑問に思うより先に、慣れた気配が近づくのに気づく。
 驚かせないように一度だけ廊下を鳴らして、それから先は足音をさせず、気配だけがするすると動く。それは予想通り副長室の前で、止まり、予想通り、止まってからしばらくは声がかからなかった。
「……副長、山崎です」
 躊躇いがちに小さな声がやっと聞こえる。
 土方は一度、小さく咳払いをしてから、「入れ」と短く言った。
 からりと襖が開いて、隙間から窺うように山崎が顔を覗かせる。土方はそれから目を逸らして、元のように本を片付け始めた。
「何か、あったんですか?」
 おずおずと副長室に入った山崎は、室内を見回して聞く。当然だ。文机はとりあえず起こしたし、本も粗方拾ったが、それでも部屋はひどい散らかりようである。
「別に」
 だがしかし、お前のせいで苛立って暴れたんだと言うわけにも行かず、土方はぞんざいに答えて本を拾うことに集中した。
 山崎が所在なさげに立ったまま、辺りをきょろきょろと見回している。
「あの、俺、手伝いますよ」
「……いや、いい。それよりお前、何か用事があって来たんだろう」
「あ、はい……」
「座れ。聞くから」
 その言葉に、山崎がやっと腰を下ろす。真っ直ぐ背筋を伸ばし正座した山崎から心持少し離れた場所に、土方も腰を落ち着けた。
 その距離に、山崎の表情がわずかに曇る。それに気づいて、土方は内心舌打ちをする。
(何なんだよ、コイツは……!)
 触るなと言ったり、介錯してくれと言ったり。
 どういうつもりでそんなことを言うのだ。思えば、落ち着いたはずの苛立ちがまた沸き起こってくる。
 その空気を感じ取ったのか、山崎が少し息を潜めるようにして体に力を入れた。崩れてもいない足をただして座り直す。
「で、何だ」
 出た言葉は、土方自身の耳にも少し棘がありすぎるように聞こえた。
 山崎はきゅっと唇を引き結んで、肩を強張らせる。
「さっきの仕事のことだったら、もう吉村に伝えたぞ。お前は、」
「いえ」
 傷だってまだ治ってねェんだろ、とせめてもの言い訳を口にしようとした土方の言葉を、山崎がわずかに強い口調で遮る。思わず山崎の顔をまじまじと見つめた土方の視線に、山崎はさっと顔を俯かせた。
「……実は、お願いがあって」
「お願い?」
 山崎の拳が膝の上できつく握られる。
「隊規を破った者には処断が必要だとか、生意気を言った手前こんなことを言うのは大変心苦しいのですが……。我侭を承知で、今一度、副長のご好意を賜りたく」
 搾り出すように、苦しそうに聞こえる言葉が、やけに丁寧だ。
 そのことに土方は怪訝な表情を浮かべる。
 しかし、畳の目を見つめている山崎にそれは見えない。
「前置きが長ェ。言ってみろ」
 切れてしまった言葉の続きを促せば、はい、と答える山崎の声が震えている。
 何度か、自分を落ち着かせるように息を吸って、吐いて、それから山崎は俯かせていた顔を上げた。
 真っ直ぐに土方を見つめる。
 視線が絡む。いつ振りだろう。恐らくは、くちづけをしようと触れたあのとき以来だ。
 その視線の強さに土方が目を逸らせずにいると、山崎の喉が緊張を逃がすように一度上下に動いて、それからその唇がゆっくりと開かれた。
「無断で行えば隊規違反となるのは百も承知。ですが、」
 お願いです、と言いながら膝の上で握られた手が、血の気を失って白くなっている。
 視線の力は強いのに、声が微かに震えている。


「俺を、真選組から除隊させて下さい」


 言い切って、山崎は絡まった視線を解き、深々と頭を下げた。